クァットロ・カンティの憂雨

美木 いち佳

第1話 クァットロ・カンティの憂雨

 この日もディーナは憂鬱だった。雨でも降っていたならば、そのせいにもできたかもしれない。見上げれば、憎らしいほどクリアなブルー。にがりの浮いたような自身の瞳が、この惜しみない陽光の下ではあまりにもアンマッチなこと、彼女はとうに自覚していた。


 ならば何故、こんなところにいるのか――それは多分、彼女自身にも明朗には答えられない。ただ、此処で、こうすることが、敬愛する「彼女」の愛してやまないワンシーンだからと言う他なかった。




 ディーナの母親は、いくつになっても少女のように夢見がちな人であった。


「まさに、映画のような恋をしたのよ!」


 それすらもまるで台詞。声高に話す瞳は真昼の空のように澄み、しゃなりと踊る手は指先までスクリーン映えを意識していた。そうして事あるごとに語ったのは、彼女の若かりし時分の思い出話。初めて撮った映画でヒロインを演じ、なんでも、その筋書き通りに恋に落ちたと言うのだ。

 ディーナは少なくとも台詞をそらで言えてしまう程度には、幼少期から何度も繰り返し、そのストーリーを聞かされていた。正直辟易していた。歳を重ねるごとに、ただのおとぎ話だと斜に構えてしまったからというのもある。

 だから、作品を観たいと思ったことはなかった。生き生きと語る彼女の姿に会えなくなるまでは、一度も。




 イタリアはシチリア島の大都市、パレルモ。休暇に入ったディーナは十数年振りにここに滞在していた。訪れるのはこれが二度目であった。それでも自然と懐かしく、また感慨深く思うのは、この街こそが母の美しい思い出の舞台だからに他ならない。

 旧市街のメインストリートが交差するクァットロ・カンティは、遠い記憶の中の景色と違わず、今日も行き交う人々で溢れていた。美しく荘厳な彫刻の施された建物がそそり立つこの四辻には、なめらかな弧を描いて窪んだ所に、各々春夏秋冬を司った像の見下ろす噴水がある。

 その「春」の一角にて、母がいつも演じていたように、ディーナは一人、佇んでいた。


 こうして、ただじっと雨を待つのよ――うっとりと夢見心地な声が、今でも鮮明に聞こえてくるようだった。少しずつ重苦しさを集め始めた雲を見上げながら、ディーナは思い返す。


「あれはそう、奇跡の雨だったわ!」


 ディーナの母親はどこへ行くにも太陽を連れているような人で、彼女の記憶の限りでは、共に出掛けた先で雨に降られたことなど一度もなかった。だからいざ撮影という時も、待てど暮らせど頭上に降り注ぐのは眩い光のみ、一週間待ちぼうけなんてこともざらにあったそうだ。

 母に言わせれば「奇跡」だったというその雨は、彼女がここに立ちヒロインの顔をした途端、天から祝福のように落とされたのだと言う。そんなことは後にも先にもこの一回きりだったと得意気に語る彼女は、微笑む睫毛を満足そうに伏せた。


 そんな在りし日の面差しを、急ぎ流れる雲が連れ去っていく。

「母さんまで早く逝くことないのに…」

 ディーナの母親は半年前に急逝した。歳はまだ五十だった。この旅も、本来はシチリア行きを熱望した母と二人で楽しむはずだったものだ。あの日から、ディーナはとても遊びに繰り出すような気分ではなかったが、少し痩せてしまった彼女を心配する友人たちの勧めもあり、母の行きたがった場所をこうして一人、巡っている。傷心旅行だった。

「…」

 ディーナはハンドバッグから、丁寧に四つに折られたそれを取り出し開いた。もう暗記しているのにもかかわらず、また目を通す。

 書いては消した跡。この手書きの旅程表からも、母がどれだけ指折り心待ちにしていたか、その弾む様子が見てとれる。もっとも、昼下がりはほとんどがこうしてここで待つだけの、ディーナにとってはなんとも刺激のない旅ではあるが。

「…しょうがないから、代わりに待ってあげるわよ」

 悪態は空に溶ける。飽きるくらいに聴かされた話も、不思議なもので、もう聴くことはないのだと分かれば恋しくなる、どうしようもなく。無い物ねだりは、人の性。

 ぽつり。ディーナの頬を伝うのが、それと分かるより前に。ザアッと派手に地を鳴らす、雨。

「なによ、割合早く降ったじゃない…」

 広げたままの旅程表、今日の日付を丸く囲んだ深紅が滲む。母の好きな色だ。ディーナは手早くそれをしまう。暗くなった空に顔を向けると、重く鋭い天粒が一斉に向かってきた。

「『…空も一緒に泣いてくれているのね』」

 それはまさに映画の台詞だった。ヒロインは失恋の痛みから、ここで雨に打たれながら泣いている、そのシーンさながらにディーナは唇を震わせた。

 雨は瞬く間に髪を浸食し、留めきれず、涙の痕をなぞっていく。その上からまた冷たい雫がこぼれては流されの繰り返し。一変した空気に、ディーナは観たことのないはずの物語の世界へ降り立ったような気分だった。しかし、それも長くは続かない。

「…で、これからどうしたらいい?母さん」

 思ったより激しい雨に、どうせ降るわけがないとたかをくくって傘を持って来なかったことを、後悔しはじめたからだ。朝からずっと完璧に晴れていたくせに、なんと気まぐれなことだろう。

 映画ではこの後、傘を差しのべてくれた青年と恋をするのだが、忙しく駆け抜けていく人々の中において、身を濡らしながらぼうっと立ち尽くす女の姿はただ事では無く、そんな人物がいるとすれば、向こうから体いっぱいに商品を抱えてやってくる、あの傘売りくらいのものだろう。それも、もちろんユーロと引き換えに。

「…やっぱり、待たないとだめ?」

 にやりと無言で鈴なりの傘を見せつけてくる男を、軽く首を捻ってすげなく追いやると、ディーナは雨を吸って重くなったフレアスカートの端を畳んだ。少しでも濡れないよう、脚に沿わせる。涙と雨を混じらせて、こんなに目を赤くしていても、頭の中は割と冷えているものだなと、ディーナは自身の淡白さを自嘲した。


 傍若無人な天気に、人々はすっかり追いやられた。先刻までとは打って変わって閑散としてしまった光景も相まって、ディーナはやがて肌寒さを覚える。

「…今日は無理みたいよ、母さん」

 人がいないのでは展開のしようもない。風邪を引く前に引き上げることにした。そうそう映画のようなことは起こらない。母の気持ちも汲みたいが、やっぱりねという気持ちのほうが、正直なところ上回っていた。

 本当なら、今日の旅程を終えたらカフェで一息つこうかとディーナは考えていた。しかしこう濡れてしまっては、店に入ることは憚られるし、一人でのんびりなんていう気分もとっくに削がれた。仕方がないので、このままホテルに戻ろうと思い、指先で頬を乱暴に拭いながら爪先を切り返した時だった。

「どうしたの?」

 フッと、プルシャンブルーに包まれるディーナの体。咄嗟に足を止める。すると、パタパタと小気味良く、雨粒の跳ねる音が頭上に響き始めた。傘だ――その一言が頭に思い浮かぶまでに、ディーナは目の前に突如として現れた人物に釘付けになる。

 そこにいたのは、頭一つ分以上も背の高い、人好きのする笑顔を湛えた青年だった。手にはこの大きな傘を持ち、赤い目を思い切り丸くしたディーナの顔のすぐ横へと差し出している。

「もしかして、失恋でもした?」

 まさか、と一瞬でも思った自分をディーナは呪った。瞬時に顔をしかめる。

「…そんな浮わついたものじゃないわ」

 とんだ軟派男に捕まったものだ。初対面のレディにそんな台詞を吐くなんて、映画の青年とは似ても似つかない。ディーナはくっと顎を引き、大きく横に一歩、振り切ろうとした。

「良かったらカフェでも…って、そんなに濡れてちゃ無理だよな。ああ、宿はこの近く?送ってあげるよ」

 それでもその長い腕を伸ばして、青年はディーナに傘を向ける。ディーナが水を蹴る勢いでどれだけ歩みを速めても、ずっと斜め後ろに付いて離れない。

「…どうして観光客だと?」

「なんだか、ローマっぽい身なりだなって」

「…はずれね。私はナポリ出身よ」

「ああ、そうかもしれないって思ったところだったんだ」

「もういいでしょ、ついてこないで」

 構っていられない、雨にも、この男にも――ディーナはまとわりつく鬱陶しさをはね除けながら大股で通りを抜けていく。もうハイヒールの中までぐっしょりだった。

「ナポリの女性はもっとノリがいいとばかり思っていたよ」

「…」

「こんな雨の中、あんなところで何をしていたの?」

「…」

「誰かを待っていたんだろ?」

「…」

「君を振るなんて見る目のない男もいたものだ」

「だからっ、そういうのじゃないって言ったでしょう!」

 息を切らしながら、とうとうディーナは横顔で怒鳴る。鋭い目を向けつつ、頬に絡まるアーモンド色の髪を、涙痕ごと忌々しそうに引っ掻いた。

「やっとこっち、見てくれた」

「…」

 とにかくその笑った顔が癪に障るとディーナは思った。ぶつけてやるつもりで長い髪と雨雫をばらまきながら勢いよく前へと向き直る。

「そんなに俺と歩くのが嫌なら、傘だけでもどうぞ」

「…遠慮するわ」

「そう言うなよ。でないとまた別の男に声、掛けられちゃうだろ?」

 それもまた面倒だ、とディーナはその一言にだけは素直に同意した。傘を受け取る代わりにこの男が引いてくれるのなら、願ったりかなったりだ。

 ディーナは踵を鳴らして振り返る。

「おっと」

「じゃあ、もらうわ。傘」

「いいよ」

 まったく呼吸を乱さず涼しい顔をしている青年を、ディーナは少し恨めしい目付きで見た。自分はこんなに肩で息をしているというのに、この男ときたら――その代償として、傘をありがたく受け取るくらい、バチは当たらないだろうと思うことにする。

 しかし、ディーナがその取っ手を握る直前、青年はひょいっと躱すように腕を高く掲げた。

「…何のつもりよ」

 空を掴まされて余計に機嫌を悪くしたディーナの睨みにも、青年はまったく怯む様子がない。にっと口の端を上向かせ、今度こそ柄を譲る。

「もし返したくなったら、またあそこに来てよ」

「え?」

「クァットロ・カンティ。俺も大体、そこにいるから」

「くれるんじゃなかったの」

「あげるよ。返したくなったら、って言ったろ?」

「…」

 決して崩れない笑顔に、ディーナはその真意をはかりかねていた。返事はせず、ただ怪訝な眼差しだけを上目でくれてやる。

「じゃ、気をつけてね」

 言い終えぬうちに身を翻し、青年は来た道を走って戻って行った。歩道の真ん中にぽつんと立つディーナを、いくつかの傘が避けて過ぎる。

「…返して欲しいなら素直に言えばいいのに」

 この傘は、ディーナには大きすぎた。一層強まる雨脚は、メインストリートの景色を容赦なく削り去っていき、彼の背中はもう見えなくなっていた。




 翌日、ディーナはやはり同じ場所にいた。途切れない人混みも相変わらず。いや、今日は休日だから尚更だった。そこから一歩引いた定位置。雲も消え入りそうな晴天にもかかわらず、手には大きなプルシャンブルーの傘。

「ついでよ、ついで」

 誰に聞かせるでもなく独りごちる。旅程は今日もここで雨を待つことだった。しかしそれは昨日果たしてしまっている。母のことだから、きっと晴天続きになるに違いないと踏んで予定を組んだのだろうと、ディーナは軽くため息をついた。

 そして、これ以降は空白だった。

「…」

 いや、ディーナは知っているはずだった。雨の中泣いているヒロイン、傘を差しのべる青年――これは母の思い出、すなわち何度も演じ聞かされたあの映画をなぞる旅なのだ。だとしたら確か次はその青年と、そう、カフェに行く。そしてその後は――。

「…ちょっと待って」

 そこまで考えて、ディーナはうねるように肩を震わせた。

「冗談じゃない!私があの軟派男と?」

 つい声になっていた心の叫びに、慌てて口をつぐむ。隣で立ったまま新聞を読んでいた妙齢の男性に好奇の目を向けられてしまった。ディーナはいたたまれず、一つ隣の角へ移動することにした。

 ――春の噴水前でのシーンはもう済んだのだし、あの男にも会わなくたって構わない、そう、ちっとも。

 ピンと伸びた脚が日向に現れ出る。捲れたジャケットを撫で留めた。

 ――そもそも昨日、カフェに行かなかった時点ですでにストーリーを逸れているのだ。母には悪いが、旅程通りここで一日待ちぼうけをして――。


「…!」


 休日のクァットロ・カンティ。人の切れ目などないはずだった。なのに何故――風にざわめいたのはおそらく、長い髪だけではなかった。ハイヒールの残響に乗せて、緑のシャツ、白のワンピース、赤いストール。目まぐるしく引いては流れ込む色の隙間から、その二つの瞳だけはディーナを捉えて見失わなかったから。

 彼はここにいるとしか言わなかった。

 ディーナもまた、行くとは言わなかった。

 それでも綺麗に折り畳まれたプルシャンブルーをそうっと掴み上げて笑う顔は昨日と同じで、この再会に満足そうな分、日射しを受け一層輝いていた。




 青年はテオと名乗った。ディーナもきちんと傘を携えていた手前、邪険にもできず、テオに誘われるままカフェへと連れられた。驚いたことにそこは、昨日入るつもりだった店であった。何十年と続く老舗のカフェの看板メニューはカンノーロと特製のエスプレッソで、昔初めて訪れたときも、母と共にそれを愉しんだ。

「カンノーロとエスプレッソを」

 ディーナがカウンターの向こうへ注文を投げると、口髭を蓄えたマスターは眉をぴょいと跳ね上げた。そして彼女の奥からやってくるテオと目を合わせると、ふっと口元に柔らかく皺を刻む。

「君の分はすでに頼んであるよ」

 後ろからテオに肩を叩かれ、その手を跳ねっ返すように振り向くと、ディーナはすぐさま眉根を寄せた。

「どういうこと?」

「いいから。席はこっち」

 まるで掴み所のない笑顔に振り回されている。それがなんともむず痒くて、カウンターに預けたディーナの上体は次第に沈む。文句を言ってやろうとしたときにはすでにテオは店の奥へと入ってしまっているし、オーダーが済んでいると言うのならここに留まる理由もない。ディーナの快活な唇は無意味にぱくぱくと、何もない水面に顔を出した間抜けな鯉も同じだった。




「どうぞ」

 そのひとつの小さなカップがテーブルにすっと降り立つ瞬間から、甘くふくよかな香りが舞い上がる。ミルキーなコーヒー色が揺らぎをおさめる頃には、二人をくるむように、その香りが一帯に染み渡っていた。

「これ…」

 ディーナは驚いた。これがヘーゼルナッツのものだとすぐに分かったからだ。彼女の母親が好んで通っていたナポリの名店の名物が、今、海を渡って目の前にある。

「そう。ノッチョーラ」

「どうして、これが、ここに…」

「お願いして、特別に作ってもらったんだ」

「だから、わざわざどうして…」

「君と俺がここで飲むのは、これだと決まっているからだよ」

「え…」

 ゆるくくねらせながら上っていく湯気の向こうで、テオの眼差しが真剣な色を持ち始めたことに、ディーナはまず戸惑った。そうやって視線を離せないでいるうちに、苦いのに甘い香りはだんだんと濃く、それを吸い込むほどに頭の内側からしびれていく。思考は徐々におろそかになる。だから彼の話に、ある種しおらしく、耳を傾けることができたのかもしれない。

 吊り上がっていたディーナの肩からゆっくりと力が抜けていくのを感じ、テオは二人の間でアロマを振り撒くカフェ・ノッチョーラへと視線を落とした。

「俺の親父は昔、映画を撮っていたんだ。ああ、別に名の知れた監督だったわけじゃない。すぐに夢破れて会社員をしていたからね」

 普段なら、ゆきずりの相手の身の上話など右から左のディーナであっても、その単語だけは流すわけにはいかなかった。「映画」――それはディーナのこの旅の重要なキーワードのひとつでもあったから。

「それでもたった一つの小さな栄光を、彼は誇りにしていたよ。そして、大事に大事に守っていた」

 テオの父親は学生時代、ひとつの映画作品を創り上げていた。自らが主演、監督、脚本をつとめたもので、アマチュアコンクールで金賞を受賞した。

「俺も何度もそのフィルムを観た。古ぼけた映写機で、家の壁に映して。親父が死んでからも一人で、ずっと」

 鼻の先で組ませた両手は、テオの垣間見せたもの憂げな口元を見事に隠していた。降りきった太い睫毛をぎゅっと震わせると、重い幕が上がるように、ゆったりと瞼を開く。

「この店は、その劇中の舞台。そしてこれが、その時二人が飲んでいたもの」

 テオは指の腹で、中央に立つカップをすっとディーナのほうへ寄せた。その表情はとても柔らかく、ディーナの瞳には、数秒前の彼とはまったく違って映った。今初めて会ったような、でも、ずっと昔から知っているような。

「…」

 相槌に代えて、ディーナはカップを手に取った。瞼を閉じ一口、いや、キスをするようにひと舐め。彼女は自然とそうしていた。母がいつもして見せたように。

 この小さなカップの中身が、二人を繋ぐ深い香りが、無くなってしまわないように。少しずつ、大切に、はにかみながら分け合って。そんな、母の語る恋物語の二人がそこにいた。

 ディーナははっと目を開いた。それが、この続きが今まさに紡がれようとしていることに気づいたからなのか、胸にじんわり浸透していくカフェ・ノッチョーラと同じくらい優しくあたたかな指先が、頬に触れたからなのかは分からない。

「あなた…まさか…」

「先日、ある大女優の訃報を聞いた。ニュースでは、彼女の若い頃からの活躍ぶりを紹介していた。その映像を見て本当に驚いたよ」

 大きな窓に映る鼻筋の通った横顔、つんと上向きの唇は、彼女の面影そのままだった。

「まさか、親父が一番大切にしていた映画のヒロインが、あのテレーゼ・リッツォだったなんて」

 限りなく甘ったるさを感じさせる彼女とは違い、少しだけキリッと気の強さをあしらった目尻。その瞳の中にはもう、一人しかいない。

「昨日、雨に打たれながら涙を流す君を見つけて、まさにあのシーンそのものだと思った」

「…『クァットロ・カンティの憂雨』」

「そして君の目の前に立ったとき、言葉では言い様のない気持ちになった」

 そのままアーモンド色のすべやかな髪を弄ぶ彼を咎める気など、一切起こらなかった。ディーナは、ついに出会ったのだ。

「『会いたかったよ。ずっと、前から』」

「…『不思議ね。初めて会ったというのに、私も…そんな、気が…するの』」

 母とは違い、完璧な女優になることはディーナにはできなかった。ぎこちなさを残した微笑みを、横切る涙を抑えきれなかったから。


 深い苦みしか持たないエスプレッソが、ヘーゼルナッツの甘い香りに抱きしめられる。ふわり、手を取りゆっくりと、とろける優しさを連れてくる。


 セピア色のワンシーンに、生きた色がともった。鮮やかに、なめらかに。今、動き出した瞬間だった。

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