四章(5)

 フィリップは目を伏せたまま後ろ手に扉を閉めると、その場に立ち尽くした。まるでどうするのが正しいのか迷う子どものような様子で視線をさまよわせる。


 アデライドはそんな彼をぼんやりと見つめていた。


 ……ほんのりと予感は感じていた。フィリップは自らの父が間違っていると思いたくなくて反革命派として活動しているけれど、本当はそのことに疑問を感じているのでは、と。


 けれど、そうだと予感は感じていても、まさかこうしてアデライドの部屋にやって来るとは思ってもみなくて、驚きのあまり呆然としていたのだ。

 ぱちぱちと瞬きをする。どれだけ時間が経っても、扉の前にいるフィリップの姿は薄れなくて。


「――……お兄さま、どうしたの?」


 ゆっくりと口を開き、尋ねた。フィリップはのろのろと視線を上げてこちらを向く。


 彼らしくない不安定な瞳。若干青白い肌。

 彼は二、三度口を開き、ためらうように閉じたあと、しばらくして今度こそ声を発した。


「……アデラは、自分たちの『正義』が、必ずしもこの国の人たちにとっての『正義』とは限らないって言ってたよね」


 いつそんなことを言ったのだろうか、と一瞬思ったが、すぐに思い出す。昨日、フィリップの部屋で言い争いをしていたときにそんな言葉を発していた気がした。

 そのときは説得しなければという気持ちでいっぱいいっぱいで、どんなことを口にしたのか覚えていないのだけれど。

「ええ、そうね」とアデライドは頷く。


「……どうしてそう思ったの?」


 どうしてそんなことを尋ねるのかと思いつつ、口を開く。


「簡単なことよ。お兄さまは以前の王政を正しいと思うけど、わたしは今のこの国が正しいと思うでしょ? そんなふうに人によって正しいと思うことは違うから、この国の人たちにとっての『正義』がお兄さまの『正義』とは限らないっていうこと」

「……確かに、そうだね」


 フィリップは顔を伏せ、ぐっと手を握りしめた。そして黙りこくる。

 アデライドはなにも言うことなく、格子の隙間から見える窓の外に視線をやった。外はひっそりと静まり返っている。


 ……煌々こうこうと灯っているはずの明かりがあまり見えないのは、ただの気のせいだと思いたいけれど、そうではないだろう。昼間のあの事件により人々が怯えているのか、はたまた家に帰れないのか――


 そう思うと胸の内で焦りが膨らんでいく。今すぐフィリップに声をかけてしまいたくなる。

 けど。

 ちらりと彼のほうを窺えば、彼は先ほどから一切動いていなかった。


 これは彼にとって大切な選択。だったら考えを押しつけるのではなく、彼自身が答えを出すべきだろう。


 エリクだってそうしてくれたのだから。

 今度はアデライドがそうする番だ。


 窓の外を眺めながら静かに待つ。そうしていると――


「――アデラ」


 フィリップの声が耳朶じだを打った。その声は固く、緊張しているのが容易にわかるものだった。

 ゴクリと唾を呑み込むと、アデライドはそちらを向く。

 彼は先ほどまでとは違い、まっすぐな眼差しをこちらへ向けてきていて。


「僕は――」


 そう口を開いた、まさにそのとき。


「襲撃だ――!」


 誰かの声が屋敷に響き渡った。


 一瞬の静寂後、屋敷が騒がしくなる。おそらく襲撃者を撃退するために、護衛たちが動き出したのだろう。


 アデライドはパッと窓際に身を寄せた。ここから襲撃者が見えるとは限らない。だけど、でも、反革命派に対する襲撃者となるとこの国の軍しか考えられなくて。


(もしかしてエリクが……?)


 じわじわと喜びが広がる。彼が無事でいて、しかも反革命派を止めるために行動してくれた。それはまだ確定したことではないけれど、その可能性だけでもう嬉しくて。

 なんとかしてエリクがいるのか確認しようとしていると、ざわめきと大きな足音が部屋に近づいてきた。


「アデラ」


 フィリップがアデライドを守るかのようにこちらに背を向け、扉のほうを睨みつける。

 その背は大きくて、いつも頼りにしていた従兄いとこのもので。


「お兄さま」


 思わず声を漏らしたその瞬間、勢いよく扉が開けられた。

 そこにいたのは――


「……いきなりどうかしたのですか、ファルシェーヌ卿?」


 ファルシェーヌ卿だった。

 彼はいつも浮かべている笑みを消し、険しい面持ちでアデライドとフィリップを見ている。


「……それはこちらのセリフですよ、オブラン卿。どうしてこちらへ? あなたは自室にこもっているはずでは?」

「……アデラに聞きたいことがありましたので。それでファルシェーヌ卿、あなたはどうしてこちらに? しかも慌てた様子で。貴族らしくありませんよ」


 フィリップが硬い声で問いかける。

 アデライドは彼の質問に静かに同意した。襲撃があり、しかも襲撃者がどこにいるのかわからないこならば、まずは自室で大人しくしているべきである。


 それなのに彼は危険を冒してまでアデライドの部屋へとやって来た。彼の部屋も同じく二階にあるとはいえ、屋敷の反対側と言ってもいいくらい離れているのに、だ。普通ならばわざわざ来る必要などない。


 ファルシェーヌ卿がなにかたくらんでいるように思え、警戒の眼差しを向けていれば、彼はチッと舌打ちをした。貴族らしくない所作は、それだけ彼が焦っているということだろうか。


(でも、なにに?)


 そのことを不思議に思っていれば、ファルシェーヌ卿が乱暴な足取りでこちらに近づいてくる。


「はっ、そんなの決まってるじゃないですか。彼女を連れていくためですよ。軍に見つかりましたが、さえいれば何度でもやり直せる!」


 そう叫ぶと、フィリップの隙をつき、ファルシェーヌ卿がアデライドの手首を掴んできた。ぐいっと力強く引っ張られる。


「アデラ!」

「私の邪魔をするな!」


 手を伸ばしてきたフィリップにファルシェーヌ卿が蹴りを入れた。どうやらそれがちょうどみぞおちに入ってしまったらしく、フィリップは苦しげな声を漏らして床の上にうずくまる。


「お兄さま!」

「この機会だから言わせていただきますけど、いつもいつもあなたにはうんざりしてたんですよ! この国の民のためだとか綺麗ごとばかり述べて、計画を反対してきて!」

「……っ、では、あなたはっ、なんのためにこの国を――」

「そんなの決まっているじゃないですか。そっちのほうが都合がいいからですよ! あのときの暮らしのほうが楽だった。ただそれだけです!」

「ふざけるな!」


 フィリップが叫び、のろのろと立ち上がる。その瞳は爛々と輝き、ファルシェーヌ卿を捉えていて。


「そんな、そんなくだらない理由で……。あなたには貴族のプライドがないのか!」

「そんなプライドはもう捨てましたよ。そんなくだらないものを持ったままでは生きていけないのですから!」

「そんなことない!」

「あるんですよ! あのころをなにも知らない子どもが口答えするな!」


 ファルシェーヌ卿がフィリップを蹴る。しかしフィリップはそれを避け、掴みかかろうとして――


「お兄さま!」


 近くにいた護衛が俊敏に動いたかと思うと、フィリップを抑え込んだ。彼を助けようとしたかったけれど、ファルシェーヌ卿の力は強く、どうしても手を振りほどくことができなくて。


「離しなさい!」

「嫌ですよ。あなたにはこれからも役立ってもらいますから」


 そう言うと、ファルシェーヌ卿は部屋の出口へ向かって歩き始めた。なんとか抵抗したがその甲斐なく引きずられていく。


「お兄さま!」


 手を伸ばす。

 しかしその指が届くことはなかった。

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