四章(6)

「離して!」


 ファルシェーヌ卿に腕を引っ張られながらアデライドは屋敷の廊下を進む。なんとか振りほどこうとするものの、そのたびに掴む力を強められてしまい、なにもできない。


 ずるずると引きずられ、階段を降りて一階へ。そのままエントランスから屋敷を出るのかと思いきや、ファルシェーヌ卿は屋敷の奥へと向かっていく。もしかしたら隠し通路があるのかもしれない。


(どうしよ……)


 隠し通路から逃げれば、軍はファルシェーヌ卿を追えないかもしれない。アデライドは無事でいられないのかもしれない。


 焦りや不安、恐怖など、様々な感情が膨らみ、入り混じり、胸を支配する。もういっぱいいっぱいで、冷静に判断などできなくて。


 ファルシェーヌ卿は進む。迷うことなく進んでいく。


「……けて」


 か細い声がこぼれ落ちた。それはみっともなく震えていて、今にも泣きそうなもので。

 怖い、このままは嫌だ、止めて、お願い、誰か――


「たすけて……」


 そのとき。


「アデラ!」


 声が、した。ずっとずっと待ち望んでいた声が。

 アデライドはすぐさま声のした背後を振り返る。

 そこには軍服姿のエリクがいて、今まさにこちらに駆け寄ってきているところで。


「エリク!」


 空いていた手を伸ばす。彼の手を掴み、彼の胸に飛び込みたかった。


 けど。


 彼の存在に気づいたのだろう、ファルシェーヌ卿が方向転換をしてエリクと相対する。そのせいでぐいっと引っ張られ、アデライドはファルシェーヌ卿の背後にまわることになった。

 それを見てかエリクは立ち止まり、睨みつけるようにファルシェーヌ卿を見つめる。

 ファルシェーヌ卿は小さく舌打ちをした。


「やれ」


 周囲にいた護衛数人に命令を下す。するとすぐに護衛たちが飛び出し、エリクに襲いかかった。


 ひゅっと息を呑む。

 一瞬頭が真っ白になった。もしかしてと思ってしまった。彼が死んでしまうのではないか、と。傷ついてしまうのでは、と。


「エリク――!」


 手を伸ばす。彼の元へ向かって駆け出す。

 けれどそれはファルシェーヌ卿によって止められた。彼はアデライドの手首を掴むと、屋敷の奥へと向かっていく。


「離して!」


 できないとはわかっているけれど、なんとか手を振りほどこうとした、まさにそのとき。


 なにかの倒れる音がした。それは一回きりでは終わらず、何度も何度も繰り返され。


 手を振りほどこうとするのをやめ、アデライドは背後を振り返った。

 目に飛び込んできた光景は。


「エリク!」


 護衛の男たちが倒れ伏す中、エリクとほか数人、軍服を着た男性が立っていた。一人だけ見知った顔がある。以前一度だけ会ったことのあるエリクの先輩だ。

 いつの間に人が増えていたのだろう? と疑問に思うが、とにかくエリクが無事でほっと胸をなでおろす。


(よかった……)


 つい気を抜いてしまったのだが、エリクたちはそうではなかったらしい。勢いよくこちらに駆け寄ってきたかと思うとアデライドの横を通り過ぎ、ファルシェーヌ卿のほうへ。

 つられてアデライドも彼のほうへ視線を戻そうとしたのだが。

 そっと目元を覆われる。


「見なくていい」


 エリクが耳元で囁く。鈍い音と、うめき声と。

 でも。


「エリク、離して」

「アデラ」

「わたしは見なきゃいけないのよ。これがわたしの『正義』の結果だもの」


 自分の正しさを貫いた先。それを見つめなければならない。

 そうでなければ自分の『正義』が正しかったのか、わからないままだ。

 だから。


「エリク」


 もう一度口にすれば、ゆっくりと視界が開けていく。

 鮮やかとは言いがたい視界の中で、ファルシェーヌ卿は床にうずくまりうめき声を漏らしていた。


 きゅっと手を握りしめる。

 彼にも彼なりの『正義』があった。それをはばんだのはアデライドの『正義』だ。


 ……胸に形容しがたい感情が広がる。これでよかったのか、という不安に、彼は間違っていたのだからこれは正しかったと主張する気持ち。

 でも、確かなこともあって。


 軍人たちがファルシェーヌ卿に縄をかけ捕縛していく。ファルシェーヌ卿は「くそっ」と悔しげな表情を浮かべていた。


 アデライドにとっては間違ったことをした彼だけれど、彼にも彼なりの『正義』があったし、アデライドの『正義』も彼から見れば間違っているのだ。

 だからこそ自分の『正義』を盲目的に信じてはいけない。常に考え続けなければならない。

 それだけは確かで。


 自身の選択の結果を目に焼きつけるように見つめていると、やがてファルシェーヌ卿が立ち上がらせられた。おそらくどこか別の場所に連行するのだろう。


「エリク、おまえは残ってもいいぞ」


 連行する一人、エリクの先輩が声をかけてきた。


「ですが、」

「お嬢さんと一緒にいてやれよ」


 そう言うと彼はポンとエリクの肩を叩き、ほかの人たちと一緒にこの場を立ち去っていった。

 二人きりになり、どうすればいいのかわからなくなる。なにか口にしなければ、と思って――


 そのときふと、先ほどまで彼が戦っていたことを思い出した。


「そういえばエリク、どうしてここに? さっき襲撃者がって誰かが叫んでいたけど、あれもエリクなの?」

「ん? ……ああ、そうだよ。うーん……長くなりそうだけど、アデラと別れたあとから話をしても大丈夫か?」

「ええ、もちろんよ」


 頷けば、エリクはゆっくりと語り出した。


 彼曰く、どうやらあのあとアデライドの告げた情報を報告したらしい。しかし証拠がないと突っぱねられたため、だったら証拠を集めようとファルシェーヌ卿の屋敷を観察し続けていたとのこと。

 すると今日、二台の馬車が護衛を引き連れて屋敷を出た。それを追っていくとこの街に入っていき、そしてあの事件である。


 どうやら小銃を持った男たちによって街の人々は混乱し、そのまま街の外へと追い出されてしまったらしい。そのあとどうしてか街の門も勝手に閉められ、多くの人々がなんの用意もないままに野宿をする羽目になった。


 反革命派が市民を追い出し、街に立てこもっている。


 さすがにこの現状はまずいと思い、エリクは馬で首都へと戻った。そしてそれを報告し、軍に動いてもらったとのこと。


 話が終わり、ふと尋ねる。


「……それって、エリク大丈夫? ずっと動きっぱなしだったのよね? 疲れてない?」


 エリクに支えられて初めて馬に乗った日、疲れ過ぎて馬車の中で眠りこけてしまったことがある。それだけ馬に乗るというのは疲れることなのだ。しかもエリクは首都へ戻ってからまたこちらにとんぼ返りしてきている。疲労もかなり蓄積されているはずだ。


 すると案の定、「うん、まあ、そうだな。正直かなり眠い」とエリクは頷いた。

 そして。


「……ちょっと体借りていい?」

「ええ、もちろん」


 なにをするのかよくわからなかったものの、助けになれるのならと了承すれば、彼はぎゅっと抱きしめてきた。

 突然の行動に、アデライドは呆然とする。ただどくどくと心臓がやかましくて。


「……え、エリク?」

「……しばらくこうさせて」


 耳に届いたその声はか細く、疲れているのが明らかだった。


「……わかったわ」


 シンとした静寂が周囲に満ちる。どこからか争うような弟がかすかに聞こえるのは、もしかしたら今も軍が反革命派を捕らえようとしているのかもしれない。

 そんなことを思い、ハッと気づいた。大切なことを忘れていた。


「エリク」


 少しだけ体を動かし、彼の顔を見つめる。そしてふわりと微笑んだ。


「助けてくれてありがと」

「いや、……どういたしまして」


 どこか照れたように視線を逸らすエリクが可愛らしくて、思わずくすくすと笑う。するとなんだか一気に日常に戻って来た気がして、ふっと緊張がほぐれた。

 細く長い息をつき、アデライドも彼を抱きしめる。


 二人揃って生きていることが、幸せだった。

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