四章(1)
ゆっくりとアデラの背中が遠ざかっていき、やがて見えなくなった。
エリクはしばらく彼女の消え去った方向を見つめ――しかし少しして思いを断ち切るかのように首を振ると、くるりと
そのことを少々気恥ずかしく思いながらも、彼に「ありがとうございました」と言って
「兄ちゃん」
しかし店主に呼び止められ、エリクは彼のほうを振り返った。店主は真剣な面持ちを浮かべていて、ゆっくりと口を開く。
「状況はよくわからねえが、頑張れよ」
「……はい」
胸の中にじんわりと熱が広がる。
エリクは静かに
アデラと別れたあと、エリクはなかなか帰る気になれず、いつものパティスリーで時間をつぶしていた。彼女になにかあったらきっとここに来ると、確信に近いものがあったのだ。
……結局やって来たのは店主だったのだけれど。
エリクに気がつくと、店主はパティスリーの店員に嫌な顔をされることをものともせず、店に入って来た。
『革命広場へ行け』
『嬢ちゃんが待ってる』
(あのときは本当に
水たまりをバシャバシャと跳ねさせながらエリクは雨の中を進む。
そして。
たどり着いたのは一つの屋敷だった。エリクの生まれ育った、シャレット家の屋敷。
門と庭を通り抜けて屋敷に入ると、エリクはすぐさま着替えるように言ってくる使用人たちを無視し、父であるユーグの執務室へと向かった。軽くノックをすると返事があったため、勢いよく扉を開ける。
部屋の中には父と、父の部下として働く兄だけがいた。二人ともかなりの高官だし、あまり言い触らしてはよくないだろうから、この二人だけという状況は好都合だ。
そんなことを思っているエリクを見ると兄は目を見開き、父は不快げに表情を
「そんな格好でどうした。緊急でないならば帰れ」
その態度に、無性に
「緊急ですよ。じゃなきゃ来ません。そんなこともわからないんですか?」
「はっ、本当にそうなのか? おまえのことだからどうでもいいことでも緊急だと思うのだろう?」
「父上」
たしなめるように兄が声を発すれば、父は不機嫌そうに黙り込んだ。やはりエリクと兄とでは扱いがまったく違う。そのことがよりいっそう怒りに拍車をかけ、今すぐ回れ右をしてこの場を離れたくなった。
でも。
(……アデラのためだ、耐えろ、俺)
ぎゅっと手を握りしめ、目を閉じる。
アデラに頼まれたことを果たさなければならない。父に歯向かうのはそれが終わってからだ。
そう自らに言い聞かせ、呼吸を落ち着かせていく。まだ怒りがくすぶっているけれど、我慢できないほどではない、はず。
三つ数え、エリクは
それに、形容しがたい感情が胸に広がった。嬉しいけれど、手放しに喜べないような複雑な感情――
「エリク、とりあえず話してみて。緊急ってことなら早くしないといけないだろうし、手短に」
兄の言葉にそっと頷き、エリクは父を見つめて言った。
「反革命派が、なにか計画を実行に移すそうです」
その瞬間、部屋の中にピリッとした緊張感が走った。父も兄も表情を消し、真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。
「……具体的には?」
「……この街で起こることではないそうです。どこで、なのかはわかりませんが、急ぎで移動準備を始めているそうです」
「……それだけか?」
「はい」
すると父はあからさまに落胆したようだった。はあ、と盛大なため息をつく。
「それで、その情報はどこから?」
その質問にどう答えればいいのかわからず、エリクは視線をさまよわせた。
アデラのことをどう説明すればいいのだろう? 反革命派の女の子? それだと彼女自身も反革命派だと思われてしまうのかもしれない。だけどそうではないのだ。かといってほかの単語も思い浮かばず、黙りこくることしかできない。
すると。
「――なるほど、おまえがいつも会っている娘か」
どきりと心臓が跳ねた。一瞬思考が真っ白になる。
……どうして父が彼女のことを? それだけしか考えられなくなって、呆然としていると。
父がふっと
「知らないわけがないだろう? あんな反革命派の娘を。……しかし、そうか。ならおまえの情報に
「……は?」
父の言葉に、エリクは思わず声を漏らす。
なにを言ったのか理解できなかった。時間をかけて噛み砕き、理解して――叫ぶ。
「なんでですか!?」
父は小首を
「当たり前だろう? 反革命派の言葉を信じられるとでも? 大方ニセの情報を流して信じさせようとしているのだろう」
「彼女はそんなことをしない!」
「はっ、軍人のくせに人を信用しすぎだ。まだまだだな」
こちらを嘲笑う父に、怒りが胸の中で爆発する。そのまま胸ぐらを掴んでしまいたかったが、そうなってしまえば父は絶対に動き出さない。アデラの願いが叶えられなくなってしまう。
それだけは絶対に嫌だったから、怒りを堪えるしかできなくて。
でも。
「彼女のことをなにも知らないくせに」
つい悪態をつけば、父は呆れたような眼差しを向けてきた。
「知っているが?」
「違う、彼女の人柄についてだ」
「そんなのはただの主観だろう? 信用できん」
確かに主観かもしれない。
それでも二週間以上ずっと会っていたのだ。ずっとずっと彼女を見てきて、彼女のことを考えてきた。
だから絶対に彼女はそんなことしないと言い切ることができて。
それなのに認められない現実がつらいし、不満がぐるぐると胸の内で渦巻く。
と、そのとき、「そういえば」と兄が口を開いた。
「その女の子をどうして連れてこなかったの? 彼女に証言してもらえば、まだ……」
「……彼女が、戻りたいと言ったからです。もう一度説得をしたい、と」
すると父がはんっと鼻で笑った。
「考えが甘い。そんなのは明らかに嘘だろう? おおかた、反革命派にきちんと嘘の情報を伝えられたと報告するためでは?」
「そんなことない!」
エリクは反論するが、父にはまったくこたえた様子がない。馬鹿にするかのようにエリクを見て嗤う。
「もしそうでなかったらただのバカだ。あの娘さえいなければ、反革命派がなにかしらの行動に移すことはほぼ不可能になるのだからな。周囲が見えていない」
「……どういうことです?」
父の言葉がよくわからず、エリクは父に尋ねた。
彼は一瞬不思議そうな表情を浮かべたものの、すぐに思い当たったのか納得したように頷く。
「あの娘はブランダン王国の王女だ。最後の王族であるあの娘が反革命派の元にいなければ、反革命派は大義名分を掲げることができなくなる。……おまえは知らなかったのだな」
エリクは目をぱちくりさせた。父の言葉が上手く呑み込めず、思考が真っ白になる。
……反革命派に近しいのだとは思っていた。けれどまさか、彼女が最後の王族だったなんて。そこまでは想像していなかった。
けれど。
エリクは。
「それがどうしたのです? 彼女がいてもいなくても、反革命派は動いたはずです」
たとえば彼女をこちらで保護したとしたら、反革命派には王女の救出という大義名分も生まれるのだ。
だから。
「俺は彼女のことを正しいと思う。彼女のことをなにも知らないあなたが、彼女を否定する権利なんて、ない」
父は驚いたように目を見開く。
しかしその顔を見ても気分は悪いままで、エリクはくるりと踵を返すと「失礼します」と言ってその場を去った。
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