四章(2)

「エリク!」


 父の部屋を出てしばらくすると兄の声が聞こえた。エリクはゆっくりと通ってきた道を振り返る。


 兄はどこか慌てた様子でこちらに駆け寄ってきたあと、深呼吸を繰り返す。そして「父上のこと許してやってくれ」と言った。


「父上は高官だから、そんな簡単に人のことを信用したらいけない立場なんだよ。だからエリクの言葉も信じられないし、会ったこともない君の友人の言葉なんてもってのほかなんだ」


 エリクはぐっと両手を握りしめる。

 兄の言うことは、わかる。父がそう簡単に人を信用できないことも、アデラ反革命派のことなんて絶対に信用しないってことも。


 でも。

 アデラは反革命派を止めようと、自分にとって正しい道をまっすぐに歩んでいったのだ。


 なにも知らない父に、彼女のことをバカにされたくなかったし、ましてや否定なんて絶対に許せない。


 唇を噛み締めて黙りこくっていると、兄はエリクの気持ちを察したらしい。小さく「……そうか」と呟き、うなだれる。


「でも、エリク。父上は反革命派に関する情報を集めるつもりなんだ。さすがに軍が動き出すほど証拠が出ていないから、秘密裏になるけれど……だから、」

「兄さん」


 兄の言葉を、エリクはさえぎる。

 胸の中で渦巻く感情を押し殺し、口を開いた。


「それはいつになるんです? 証拠を集めきって、軍を動かせるようになるのは」

「…………」


 兄は黙りこくった。それがかなり先になるであろうことは明らかで、おそらく反革命派の計画に間に合わない。兄もそれをわかっているからなにも答えられなかったのだ。


 沈黙が二人の間に満ちた。居心地が悪くなり、エリクはさっさとその場をを去ろうとして――


「……エリクはこれからどうするつもり?」

「…………」


 アデラの望みを叶えたい、と思う。そのための行動をしたい、と。


 でもどうすればよいのだろう? 別の誰かにこのことを伝えたところで、父の二の舞になるかもしれないし、急がなければ計画が実行されてしまう。アデラの身にもなにかが起こるかもしれない。


 それだけは絶対に嫌だ。

 と考えたところで、気づいた。


 アデラの言葉だけでは確たる証拠にならないから、誰も信じず、反革命派の計画を止めるよう動きかけることができない。


(だったら、アデラの言っていたことを信用させるだけの、絶対的な証拠があればいい)


 それさえあれば軍を動かすことができ、計画実行の前に反革命派をどうにかできるかもしれない。アデラの望みを叶えられるかもしれない。


 軍人でシャレット家の者という以外特に取り柄のないエリクだ、そんな証拠を見つけられる可能性は低いけれど、たとえほんのわずかとはいえ可能性があるのならそれに賭けたかった。

 だから。


 エリクは真剣な眼差しで兄を見つめた。それだけで兄は察したらしい、「そっか」と言って儚げに微笑む。


「僕にもそんな時期があったからね……止めないよ。気をつけて。――ただ父上は、エリクのためを思ってああいう態度を取っているんだ。だから嫌わないでほしい」


 悲しげに眉を下げ、兄はそう言う。

 ……確かに父はエリクの成長を促すために、あえてあんな態度を取っているのかもしれない。可能性はあるにはある。

 けれど、いやだからこそ。

 エリクは一人で向かうのだ。


「――兄さん、行ってくる」

「うん、行ってらっしゃい」


 兄の言葉に背を向け、エリクは駆け出した。

 アデラの言葉が脳裡のうりよみがえる。


『――あ、エリク、気をつけて。エリクのことは知られているから、もしかしたらあなたも危険になるかも』


 心配げな表情を浮かべ、彼女はエリクが害させる可能性を示唆しさしていた。こうして行動を起こすとなると、その可能性は余計高くなるかもしれない。


 それでも。

 彼女を救いたいと思うから。


(アデラ、待ってて――)


 絶対に証拠を見つける。なんとしても。



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「いっ――!?」


 薄暗い地下室。床に乱暴に投げ捨てられ、アデライドは思わず声を漏らした。しかし投げ捨てた護衛は一切顔色を変えることなく一歩下がる。

 代わりに前に出てきたのはファルシェーヌ卿だった。


「女王陛下、あなたには失望いたしました」


 彼はわざとらしくため息をつく。おそらく心の底からそんなことを思っているわけではないだろうが……よくわからない。彼がなにを思っているのか、アデライドにはまったくわからなかった。


(こんなところに連れてくるし……いったいなにを考えてるのかしら?)


 そんなことを思いながら、アデライドはこっそりと周囲を見回す。


 なにもない地下室。窓もなく、空気はどんよりとしていてからみつくかのよう。おそらく長年使われていなかったに違いない。


 エリクと分かれたあとアデライドが屋敷の門に戻って来ると、フィリップに会う暇すらなく、すぐさまファルシェーヌ卿に捕らえられてここに投げ込まれたのだが、どうして彼がアデライドをここに放り込むのかまったくわからなかった。

 というか彼はアデライドのことを『女王陛下』と呼んでいる。しかし服を着替えさせることもなく、びしょ濡れのままここに連れて来るのはどうしてだろう? アデライドをうやまっているようでその実まったく敬っていない。彼の行動が不思議でならなかった。


 と、そんなことを思っていると。


「女王陛下……私も心苦しいのですよ。陛下をこのような場所に入れるだなんて……。ですがこれも陛下のためです、どうか一日ここで反省してください」


 そう言うとファルシェーヌ卿は部屋を出る。最後に護衛が出て、鍵のかかる音がした。

 一寸先も見えないほどの濃密な暗闇。アデライドはゆっくりと体を起こすと、手探りで壁へと向かう。


 しかし、なかなか壁にたどり着かなくて。


(……ここって、さっきまでいた地下室、よね?)


 そのはずである。けれどこんな真っ暗闇の中では確証が持てない。

 もしかしたら地下室ではないのかもしれない、という非現実的な考えが脳裡に浮かぶ。いつの間にか変な空間にやって来てしまったのでは、と。先ほどのファルシェーヌ卿たちはまぼろしなのでは、と。


「そんなはず、ない……」


 耳に響く声は、やけに反響しているように聞こえた。空間の広さが、わからない。


「さむい……」


 壁を探すのを諦め、そっと自らの体をかきいだく。ぐっしょりと雨に濡れた体に濡れそぼったドレス、そしてなにもない寒々しい地下室という状況。雨の中走っているときには感じなかった寒気が今更ながらに襲いかかってきて、ぶるりと身を震わせる。


 寒さをこらえようとするけれど、ひんやりとした冷気が床から這い上がってきてどうしようもない。なるべく体を縮こまらせ、ひたすら耐えていると。


 コツコツという足音が聞こえてきた。一つ分だからおそらくファルシェーヌ卿ではないだろう。彼はいつだって護衛を連れて歩いていたから。


 しばらくして鍵を開ける音がしたあと、ゆっくりと扉が開かれる。

 差し込んできた光のまぶしさに、アデライドは思わず目を閉じ――


「――……アデラ」


 聞こえてきた声に思わず目を見開いた。


 そこにはカンテラを持つフィリップがいた。彼は苦しんでいるような悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべて地下室の中に入ってくる。

 そして目線を合わせるかのようにアデライドの前にひざまずいた。


「お兄さま……」

「……少ししたら出られるから、待ってて」


 そう言うと彼はそっと頭を撫でてきた。その手の温かさに目をぱちくりさせていると、彼はカンテラを置いたまま立ち上がり、部屋を出ていく。鍵がかけられた。


 けれど先ほどまでの闇は来ない。

 カンテラがぼんやりと周囲を照らす。


 足音が遠ざかっていき、やがてなにも聞こえなくなった。そのときになってやっと、アデライドはぽつりと呟く。


「……どういうことかしら?」


 反革命派として行動を起こそうとしているフィリップと、それを止めようとしているアデライド。敵対する状況にあるはずなのに、先ほどの彼の行動はどうしてか優しいもので。


 もしかしたら本当に、アデライドの言葉が届いていたのかもしれない。

 胸の内に、ぽうっと明かりがともった。

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