三章(8)

 走る、走る、走る、走る。ざあざあと雨の降る中、ただひたすらに駆ける。

 目的地なんて決まっていない。なにせエリクの居場所などまったく知らないのだから。


 がむしゃらに走っていると、いつの間にか革命広場にまでやって来ていた。急な雨で客足が途絶えたからだろうか、屋台の店主がそこかしこで閉店の準備を進めている。


(エリクは……)


 雨で目が開けづらいけれど、アデライドは必死に瞼を押し上げて周囲を見回す。


 しかし、エリクらしき人影は見当たらない。


 やっぱり……と落胆し、次はどこに行こうかと思っていると、「おい、嬢ちゃん!」と声がした。そちらを向けば、つい数時間前に革命について尋ねた、あのワッフルゴーフルの屋台の店主がいて。

 彼は焦った様子でこちらに近づいてくると、自らが羽織っていた外套がいとうをアデライドに巻きつけてきた。


「え、あの……!」

「いいから着とけ! 風邪をひきたいのか!?」


 アデライドは静かに首を横に振る。風邪をひいて寝込んでいる暇なんてない。一刻も早くフィリップを説得して、反革命派の計画を止めなければならないからだ。

 店主はアデライドが外套を着やすいように調整するのを見ると、ほっと息をついた。そして。


「そんで、あの兄ちゃんはどうした?」

「……はぐれたんです」


 本当はきちんと別れまで済ませているのだけれど。

 店主はやはり怪しいと思っているのか、若干疑わしそうな視線を向けてくるが、深く追求してくる気はないらしい。「ふうん」とよくわからない声を発しつつ、視線を革命広場の奥へと向けた。


「とりあえず屋台で待っとけ、探してきてやる」

「え、でも……」

「こういうときは助け合いだろ? 申し訳なく思うのならまた買いに来てくれ」


 そう言うと、店主は雨の中どこかへ駆け出した。


「あ、外套……」


 体を覆うそれを見下ろしてぽつりと呟く。あまりの展開の早さに返しそびれてしまった。


(……離れられなくなったわね)


 はあ、とため息をつく。外套を返すためにも店主にもう一度会わなければならない。屋台に置いて言ってもいいのだが、そうなると盗難される可能性があるからあまり得策ではないだろう。

 とりあえずとぼとぼと歩き、あの店主の屋台で雨宿りをする。以前来たときはもう一人店員と思われる女性がいたのだが、彼女は帰ったようで今は誰もいなかった。


 ぼんやりとその場で待つ。バシャバシャと水の跳ねる音が聞こえるたび、ビクリと肩を跳ねさせた。

 アデライドはそっと自らの体をかきいだく。

 おそらくもうそろそろ、屋敷でもアデライドがいないことに気づかれたのではないだろうか? そうなると捜索隊が出されて見つかるのも時間の問題となる。


(せめてエリクには会いたいんだけど……)


 探しに行きたいが、ここを動くわけにはいかなくてじれったい。焦りばかりがどんどん降り積もっていく。

 どうしよう……と思っていれば。


「ァ……ラ!」


 かすかに聞こえてきた声に、アデライドはバッとそちらを向いた。

 雨の降りしきる中、一人の人物が革命広場に入ってきたところだった。外套をまとうことなく、びしょ濡れになりながらこちらへと走ってくる。

 その人物は。


「エリク!」


 外套をなびかせ、アデライドは彼の元に駆け寄った。そのままの勢いで彼に抱きつき、胸元をきゅっと握って見上げる。そして彼の言葉を待つことなく口を開いた。


「反革命派がなにか計画を起こそうとしているわ」


 彼はピシリと固まった。目を見開き、じっとこちらを見つめる。


「あと計画はこの街で起こすものじゃないと思う。なにか移動準備をしていたから……。お願い、伝えて。わたしは反革命派を止めたいの」


 しばらく呆然としていたものの、エリクはハッと我に返って「……わかった」と頷いた。

 そのことにほっと安堵の息をつく。


「ありがとう、エリク」

「アデラの頼みだからな。それくらいはするよ」


 アデライドを安心させるためか、そう言ってエリクはニカッと笑う。その笑みが頼もしい。

 これで、これで大丈夫。なんとかなる。

 そう思ったところで気がついた。


「――あ、エリク、気をつけて。エリクのことは知られているから、もしかしたらあなたも危険になるかも」

「わかった。注意するよ」


 神妙な顔で頷くエリク。これでもう言い残したことはないはずだ。


(早く戻らないと)


 ここにいたら見つかったとき、エリクも害されてしまうかもしれない。下手したら親切に外套を貸してくれた店主だって。

 そんなのは絶対に嫌だ。

 そう思い、エリクから離れて屋敷のそばへ戻ろうとした――けれど。


 エリクの両腕が背後に回り、きつく、きつく抱きしめられる。それが震えているのは、寒さからだろうか?


「……エリク?」

「……戻るつもりなのか?」


 ざあざあと雨が降りしきる中、か細い声が雨音に混じって耳に届く。

 その問いかけに、もしかして、という予感が生まれる。もしかして、彼は。


 ためらいがちに「ええ」と頷けば、ぎゅうっと腕の力が強くなる。体がぴったりとくっつくけれど、まったく力を弱める気配がない。


「エリク」


 彼の腕を振り解こうとしたけれど、余計に締めつけられて一向に離されない。

 そんなことをしている間にも、追っ手が来るのかもしれないのに。


「エリク、お願い、離して」

「いやだ」

「どうして?」

「……もう二度と、アデラと会えないかもしれないから」


 ぎゅうっと締めつけられる。

 彼の言葉に、不謹慎だけれど胸が温かくなった。じんわりと目頭が熱くなって、幸せだという気持ちが溢れてくる。

 アデライドだって、このまま彼と一緒にいられたらいいと思う。フィリップの説得を諦めてしまえば? と、誰かが囁く。


 でも。


 とめどなく溢れてくる感情を握りつぶし、「エリク」と呼びかける。


「ありがとう。そんなふうに思ってくれて」


 おそらく彼はずっと心配してくれていたのだろう。だからこんな時間にもかかわらず、この近辺にいたに違いない。それがとてつもなく嬉しかった。


「でも、わたしは行かなきゃいけないの。……いえ、行きたいの。それが、わたしにとっての正義だから」


 世間一般から見れば、アデライドの選択は間違いかもしれない。このまま戻ったところでフィリップと会う機会などできず、説得できないまま計画が実行されてしまうのかもしれない。


 それでも。

 これがアデライドにとっての正義だから。正しいことだから。

 それに従って行動をしたかった。


 ――エリクの隣にいられる自分であるために。


 そうしなければわたしは一生後悔する。エリクの隣にいられる自信がなくなる。

 だから。


「エリク」


 なんとかして腕を持ち上げ、彼の頬に触れる。雨に濡れた肌はひんやりとしていて、血の気を失っていて。


「お願い」


 アデライドは安心させるように笑みを浮かべた。これで背中を押してくれればいいと思いながら、自然に見えるように。

 ……雨音だけが世界に満ちた。いくつもの雫が彼の頬を伝っていて、その表情も相まって、まるで泣いているかのようだった。

 じっとエリクを見つめていると、やがて彼はそっとため息をついた。


「………………わかった」


 しぶしぶといった様子の声。それで充分だった。

「ありがとう」と言えば、彼はそっと目を伏せる。


「……アデラ、絶対に戻って来いよ」

「もちろんよ。まだあのパティスリーのケーキを食べ切れていないもの」

「そっか」


 エリクは小さく苦笑するけれど、それはどこか泣き笑いのようにも見えて。

 アデライドは静かに彼を抱きしめた。


「ねえ、エリク。また会いましょう」

「……あー、もう。そんなことされると離したくなくなるんだけど」

「それはダメよ。わたしはわたしの正義を貫くために行くんだから」

「わかってる」


 しばらくお互いの感触を堪能すると、どちらからともなく体を離していった。別れの言葉を口にしようとして、ふと外套の存在を思い出す。


「あ、エリク。これを返しておいてくれるかしら? あなたを呼びに行った屋台の店主に借りたのよ」

「わかった。絶対に返すよ」


 そして。

 アデライドは意識して笑みを浮かべた。


「……行ってきます、エリク」

「行ってらっしゃい、アデラ。絶対、また会おうな」

「もちろんよ。エリクもお願いね」

「当然」


 こちらを安心させるかのように、余裕たっぷりの笑みを浮かべるエリク。

 彼と離れたくはなかったけれど、その思いを断ち切り、アデライドは駆け出した。


 あの屋敷へ戻るために。フィリップを説得するために。

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