三章(2)

 どんよりと曇り空の下、アデライドはとぼとぼと歩みを進める。近ごろは天気が崩れているようで、このような空ばかりだった。そろそろ晴れが見たい。


 はあ、とため息がこぼれる。

 結局昨日一日考えたけれど、結論は出なかった。そのため今の天気とは比べものにならないくらい、アデライドの胸はよどんでいて。

 もう、どうすればいいのかさっぱりわからなかった。投げ出したいけど投げ出したくなくて、相反する感情がぶつかり合って、胸が張り裂けてしまいそう。


(とりあえず……)


 今日もわずかな時間とはいえエリクと会える、はずである。彼といるときくらいはこういうことも忘れて楽しんでいたかったから、心配をかけないようにしっかりと笑顔を浮かべなければ。

 よし、と意気込んで今日もいつものパティスリーに入ろうとした、まさにそのとき。


「――アデラ?」


 ざわめきの中から声が聞こえ、アデライドはパッと振り返る。

 大通りの真ん中で立ち止まっている人物が二人いた。軍服を纏った片方は、この三週間毎日顔を合わせているエリクで。


「あら、エリク」


 意識して笑みを浮かべると、アデライドは彼らのほうへ向かった。

 上手く笑えているのか少しだけ不安だった。それにもし声をかけられる前、悩んでいる表情を見られていたら、きっと心配してその理由を訊いてくるだろう。それは、絶対に嫌で。


 頬が引き攣らないよう表情筋を働かせつつ、アデライドはエリクの前に立った。


「昨日はごめんなさい、急に帰っちゃって」

「いや、大丈夫だけど……」


 エリクはなにか言いたげにこちらを窺ってくる。やはり気づかれてしまったのかもしれない。

 ごまかすため、アデライドはすぐさま質問をする。


「今は仕事の帰り? それにしてはいつもより随分早いけど……」

「いや、巡回を終えて詰所つめしょに戻る途中さ、お嬢さん」


 返事をしてきたのはエリクではなく、彼の隣にいる青年だった。突然のことに驚きつつ、アデライドは彼のほうを見る。


 青年はエリクよりも何歳か年上に見えた。おそらくフィリップと同じくらいで、ちょっと軽薄そうな顔立ちをしている。エリクと同じく軍服を纏っているけれど、雰囲気が全然違った。

 アデライドが視線を向ければにこりと笑って手を振ってきた。見た目同様軽い態度である。


「ね、キミがエリクの言ってた子だよね? よろしく、オレは――」

「先輩、黙ってください」

「えー、いいじゃん」

「ダメです。あっち行ってください」


 ムッと頬を膨らませて拗ねる、たぶんエリクの先輩である青年。


 アデライドはそんな二人を見て目をぱちくりさせる。こんな辛辣な態度のエリクなんて初めて見たから、ものすごく驚いた。嫌っているのだろうか? でもなんとなく親しげだし……どうなのだろう?

 そんなことを思っていると、青年がはあと盛大なため息をついた。


「あーはいはい、わかったわかった。せっかく今日はもうここまでで詰所には戻らなくてもいいって言おうとしたのになー」


 ピシリとエリクが固まった。それを見た青年はニヤッと笑みを浮かべる。

 アデライドは状況がよくわからず、というかこの二人の間に入ってもいいのかわからず困惑していると、エリクがそっと息をついた。


「……ありがとうございます。ですが彼女には近づかないでください、絶対に」

「ケチだなあ」


 ケラケラと笑う青年。

 ひとしきり笑い終わると、彼はくるりと踵を返して軽く手を振ってくる。


「じゃ、報告はしとくから、デート楽しめよ〜」

「デッ――!?」

「先輩!」


 デート。その単語にぶわりと熱が頬に集まる。ぐるぐると血の巡りが早くなって、心臓がドキドキして、胸が苦しくて、もうどうにかなってしまいそう。

 やがて青年の姿は人混みに消え、アデライドとエリクが取り残された。ちらりと彼の様子を窺う。


 エリクは気まずそうにこちらを見下ろしていた。その頬は真っ赤に火照ほてっていて。

 視線が交わり、アデライドは慌てて自分の手元を見た。……恥ずかしい。恥ずかしすぎてもうこの場から逃げ出したい。


 うう……と心の中でうめいていれば、どこからか鐘の音が聞こえてきた。二回。午後二時。


 今日は随分と早い合流だと改めて思う。エリクに仕事がある日はいつも四時前後にしか会えなかったのに。

 そんなことを思っていると、「アデラ」と声がした。少し緊張しつつエリクを見上げれば、彼は真剣な眼差しでこちらを見下ろしていて。


「なあに? エリク」


 途端、彼はわずかなためらいを見せたものの、しばらくして意を決したように唇を開いた。


「――……悩みがあるのなら、聞くから。言って」


 その言葉に。

 アデライドはそっと視線を逸らした。

 悩みは、ある。けれどエリクに心配をかけたくないという気持ちのほうが強くて、言う気にはなれなくて。


 深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、アデライドは彼を見上げてにっこりと笑った。


「……大丈夫よ。なにもないわ」


 本当は、そうではないけれど。

 そう言うことしかできなかった。


 その瞬間、エリクは青い瞳を見開いた。動揺したように視線をさまよわせる。おそらく、断られるとは思っていなかったのだろう。


 ちくりと罪悪感に胸が痛んだ。ここは彼の好意を受け取って、相談に乗ってもらうべきだったのかもしれない。

 けれど迷惑だけはかけたくなかった。

 ――そう思っていたのに。


「……そっ、か。うん、わかったよ」


 一瞬表情を消したあと、エリクはぎこちない作り笑顔を浮かべた。なにも気にしていないとこちらに伝えようとしてくれているのだろう。


 だけど。

 取り繕うからこそ、彼の様子は痛々しくて。


「じゃあ、行こうか。今日はまだパティスリーに行ってないんだろ? だったらそこで軽く食べてから、またどっかに行こう」


 そう告げると、エリクは返事を待つことなくくるりと踵を返して、パティスリーへと向かおうとして。


「……まって」


 アデライドは反射的に軍服の裾を掴んだ。驚いたようにエリクがこちらを見下ろしてくるけれど、それはアデライドも同じで。


(わたし、なにを……)


 自分でもどうして引き止めてしまったのかわからず、頭の中が混乱する。

 確かなのは、このままエリクを行かせることだけは絶対にダメということ。そしたら取り返しのつかないことになるという、確信に近いものがあった。


 沈黙が二人の間に落ちた。どうしよう……と心の中で頭を抱えていると。


「――えーっと、アデラ? どうかした?」


 追い立てるかのようにエリクの声が降ってくる。

 アデライドはきゅっと目をつむり、そして覚悟を決めると視線を上げた。

 青い双眸に映り込む、自身の姿。


「……相談、乗ってくれる?」


 すると、エリクは。

 ふわりと破顔したかと思うと、「もちろん」と言った。

 それだけで、こうして勇気を振り絞ってよかったと思えた。

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