二章(7)
「――リク? エリク?」
声をかけられ、エリクはハッと我に返った。薄暗い路地裏。道の端には多くのゴミが捨てられており、やせ細った野良犬がうろつくそこで、先輩の軍人が心配そうにこちらを見つめていた。その瞳を見つめてようやっと現在の状況を思い出す。軍の職務の一環で、先輩と一緒に街の巡回をしていたのだった。
慌てて謝罪の言葉を口にする。
「すみません、ぼうっとしていて」
「いや、別にいいけどさ……おまえ最近どうした? おかしいぞ? ……あ、もしかして以前言ってたあの女の子か!?」
興奮したように目を輝かせて先輩に、エリクは笑ってごまかす。
エリクが巡回しているのは主に裏通りだ。そのためアデラとよく通る大通りは範囲に入っていないのだが、ちらりとその大通りが見えてふと昔を思い出していたのだ。
彼女と再会し、案内することになったときのことを。
――アデラに案内しようと提案したのは、反革命派の彼女に張りついていれば、なにか反革命派の情報が得られるのでは、と思ったからだった。
けれどすぐに後悔した。
彼女は本当に何も知らなさそうだったのだ。
純粋で、無邪気で、なにも知らない。知らされていない。
――だったらもう案内はやめるべきだ、と理性が叫ぶ。必要ないのだから次の手がかりを求めて別れるべきだ、と。当人に自覚がなくとも反革命派に近しい彼女と関わっていれば、反革命派に目をつけられてしまう可能性があるのだし、と。
けれど。
『――エリクは自分のことを優秀じゃないと思っているみたいだけど、わたしはあなたのこと優秀だと思うわ。尊敬する』
そう言ってくれたり、愛らしく笑う彼女の隣は居心地がよくて、離れがたくて。
結局、あれから二週間経った今も、彼女を案内し続けていた。はあ、とため息がこぼれる。
(別れなきゃ、いけないのにな……)
彼女は反革命派と関わりがある。本人にそのつもりがなくても、だ。元貴族とはいえ、エリクが革命の指導者の息子であると知られたら、周囲によって会うのを妨害されるに違いない。
それに彼女はこの国の者ではない。あと一週間も経たないうちに他国へ戻らなければいけない、と以前言っていた。
だから別れは必然なのに。
どうしても彼女とともにいたいと願う自分がいて。
「どうした? 恋の悩みなら相談に乗るぞ?」
「…………いえ、いいです。どうせみんなに言い触らすんでしょう?」
「よくわかってんじゃん」
ニヤリと笑う先輩に、エリクはそっとため息をついた。この先輩なら、自身の現状を知ったら面白おかしく話を盛って広めるだろうとは、前々から思っていたことだ。おそらく関わりのある者なら容易に想像がつくだろう。だが、そんなふうに堂々と認めるのはいかがなものか。
呆れた眼差しを向けていれば、先輩はよりいっそう笑みを深める。
「ま、仕事のときは集中しろよ。ただでさえ最近はピリピリしてんだから、もっと警戒しなきゃ怪我すんぞ」
「……ご忠告、ありがとうございます」
「どーいたしまして」
軽薄そうな笑顔を浮かべてひらひらと手を振る先輩。しかしその双眸は抜け目なく周囲を観察していて。
このままではいけないとエリクもしっかりと巡回を行う。
近ごろ反革命派が活発化してきているという情報は、少し前に軍に所属する者全員に通達されていた。よりいっそう取り締まりを強化するよう上司から言われており、軍内はピリピリした雰囲気に満ちている。
しかももう間もなく革命祭が開催される。そのため通常より多くの人々が国中から集まってきていて、トラブルも多いこの時期だ。軍はいつも以上に忙しい。
無言で巡回をしていると、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。先輩と顔を見合わせて頷くと、足早にそちらへと向かう。
徐々に大きくなる怒声。
「どうして裏切った!? おかげで俺が恥をかいたじゃねえか!」
「いいからやめておけ」
「どうしてだ!? あんなに儲けのいい話なんてめったにないだろ? バカか!?」
「バカはおまえだ。いいか、荷馬車で大量に空き箱を運ぶだけだとか、そんなにいい話なんて世の中にはねえんだぞ! もっと警戒しやがれ!」
聞こえてくる会話からして、どうやら喧嘩というよりは、明らかに怪しい依頼を受けようとした男を、もう片方の男が怒りながらもなだめようとしているらしい。
珍しい言い争いだ、と思いつつ、エリクは先輩とともに喧嘩している二人の前に顔を出す。
「おまえら、なにをしている?」
尋ねたのは先輩だった。
奇妙な喧嘩をしていた二人は顔を見合わせると、お互いに対して舌打ちをして、それぞれ反対方向に去っていく。喧嘩は終わったらしい。
ふう、と息をつきつつ、エリクは先輩とともに巡回を再開する。
その後はなにごともなく時間は過ぎ、やがて大通りに出た。先ほどまでいた路地裏とはまったく違う音や空気に解放感を覚えると同時に、眩しさに目がくらむ。思わず目を細めて周囲を見回した。
隣にいた先輩が大きく伸びをする。
「よーし、帰るか!」
「そうですね」
今日の巡回はこれでおしまいだった。珍しくほとんどなにもなかったため、予定より早い帰りになりそうである。
それだったらアデラとの時間が多く取れるな、と思ったが、慌てて首を振ってその考えを避ける。彼女とは別れなければいけないとわかっているのに……。
ズキズキと痛みを発する胸。それを無視してエリクは軍の詰所へ戻り、そのままいつもより早い帰宅時間となった。軽い足取りで向かうのは、この街で一番の大通り、正確にはそこにあるパティスリーである。
最初こそ、男である自分が一人で入るには躊躇いがあったものの、今ではそんな事気にせず毎日通うようになっていた。
アデラと会うために。
今日もそこに入ると、すでにアデラがいた。うっとりとケーキを口に含んでいるさまは、見ていてとても愛らしい。どきりと胸が高鳴る。
(本当どうしようもないよな、俺……)
ふっと自嘲しつつ、エリクは彼女の元へと向かった。
「アデラ」
「エリク!」
自分を見た途端、ぱあっと目を輝かせる彼女。心臓がやかましくなるのを自覚しつつ、エリクは口を開いた。
「いつも待たせてごめん」
「大丈夫よ。ここのケーキ、とっても美味しいもの!」
本当にそう思っていることが見ただけでわかる、感情の明け透けな笑み。
可愛いな、と思いながらも、エリクはそれを押し殺した。彼女とはあと六日の関係。お互いの立場を考えると、それ以降はきっと手紙のやり取りさえ不可能だろう。周囲に知られたら、おそらく止められる。
「――そういえば、アデラ、君って革命祭の日はいつまでいる? 確かその日が帰国日だったよね?」
アデラの対面に座って、エリクは彼女に問いかける。いつだったかそんなふうに話していたはずだ。
彼女はケーキを頬張りながら小さく頷く。そしてきちんと咀嚼し終えると口を開いた。
「ええ、そう。えっと……その日の夕方にこの国を発つってお兄さまが言ってたわ。……たぶん」
その言葉に思わず顔を顰めた。
「じゃあ革命祭は昼間しか無理なのか」
「そうなるわね。どうして?」
「革命祭は夜からが本番なんだよ。花火も上がるし……」
すると彼女はあからさまにがっかりした様子を見せた。あまりの落ち込みように、エリクは「ほら、食べないのか?」とケーキを指し示す。アデラは「食べるに決まってるじゃない!」と言ってケーキを口にし、うっとりとした笑みを浮かべた。元気が出たようでなによりである。
「……でも、本当に残念ね。わたしも楽しみたかったわ」
ケーキを食べ終えると、アデラはカトラリーを置きながらそう呟いた。エリクは彼女の皿などを持つとカウンターへ返しに行く。
「……また来ればいい」
店を出る間際、エリクはそう口にした。
「革命祭は来年も、再来年も、ずっとあるんだから。それで来ることになったら連絡してくれ。案内するから」
「――ええ、確かにそうね」
アデラはエリクを見上げると、ふわりと幸せそうな笑顔を浮かべた。
「そのときは案内をよろしくね、エリク。わたし、あなたと一緒に回りたいわ」
「っ、あ、ああ、もちろん」
頬が熱を持つ。全身が熱くなる。
思わず口元を押さえ、彼女から目を逸らした。――そのとき。
「どけ、どけぇええ!」
路地裏から飛び出してきた一人の男。それが人々を押しのけ、なにかから逃れるかのように全速力で走る。
「待て! 大人しくしろ!」
男に続いて飛び出してきたのは三人の軍人だった。彼らは脇目も振らず男に飛びかかり、取り押さえる。
「くそ、くそっ!」
悔しげな表情を浮かべて叫び続ける男。軍人は男性になにか声をかけると無理やり立たせ、連行していく。おそらく詰所で取り調べを行うのだろう。
シンと静まり返っていた大通りは、少しして活気を取り戻した。しかしあんな場面に遭遇してしまったからだろうか、「最近物騒ねえ……」と不安げな声があちらこちらから聞こえる。
「アデラ、これから――」
どうする? と声をかけたかったのだが、エリクは思わず声を呑み込んだ。
彼女は蒼白な面持ちで先ほどの男と軍人の向かった先を見つめている。その顔色は今にも倒れてしまいそうで。
「……エリク、あの人はなにをしたの?」
震える声。視線を下に向ければ、ぎゅっと握られた血の気のない拳。
彼女はどうしたのだろう? そう疑問に思いつつも、深く考えることなくエリクは口を開く。
「……わかんないけど、普通に盗みを働いたんじゃないか? あと殺人とか違法な薬物を売ったりとか?」
「……それ以外には、なにかある?」
「うーん、あとは……反革命派と接触して、なにか依頼とかを受けたとか? それを軍が嗅ぎとって、捕まえようとしたらあの男が逃げ出した可能性も、まああるよな……」
そこまで言って気づいた。アデラは反革命派に近しい。もしかしたらあの男を見かけたことがあったのかもしれない。
「……そう」
感情を押し殺した声だった。彼女でもこんな声を出すんだと、少しだけ驚く。
「アデラ――」
「エリク、ごめんなさい。今日はもう帰るわ。また明日」
そう言ったかと思うと、アデラはくるりと踵を返して歩き始めた。
――彼女の相談に乗るべきだろう。そう頭の片隅で思う。
けれど。
この関係を崩したくなくて。
反革命派と関わりのあることを彼女から聞いてしまえば、エリクは軍人として見ないふりはできなくなるから。
だから。
「……ああ、また明日」
そう声をかけることしかできなかった。
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