二章(5)

「す、すみません!」


 エリクは慌てて謝罪をする。こんな少女にぶつかってしまったなんて他家の者に知られたら、「これだから元貴族は」と嫌味を言われてしまうだろう。それは避けたいから、できるだけ丁寧な対応をしなければ。


 それにしても、かなり整った顔立ちをした少女だ。かなり質のよいドレスを纏っていることからも、もしかしたら他国の貴族なのかもしれない。たとえ貴族ではなくとも、それなりに裕福な家柄だろう。

 それこそ他国の高級官僚と懇意にしている商人の娘、とか。


(あ、だったら結構やばいんじゃ……)


 さあっと血の気が下がる。もしそうだった場合、下手したら家に、ひいては国に迷惑がかかる。それだけは絶対に避けなければならない。

 どういう対応を取ればいいのか悩んでいると、「こちらこそごめんなさい」と謝罪をされる。


「ちゃんと前を見てなかったわ」

「い、いや、俺も走ってたから……」


 そのときふと、どうしてこの道を進んでいたのかを思い出した。


 そう、馬車だ。あの馬車はいったいどこへ行ってしまったのだろう?


 慌ててエリクは周囲を見回す。しかし視界に映るのは人、人、人、人。馬車なんて影も形も見えない。


(まじか……)


 どうしよう。どうすればいい? 目の前の少女を無視するなんてことはできないし、馬車だって追いかけないわけにはいかない。しかし二つ同時に成すことはできないから、どちらかを切り捨てなければならなくて……。

 脳内が大混乱に陥った、そのとき。


「引き止めてしまってごめんなさい。特に怪我もしてなさそうだし、もう行ってもらって大丈夫よ」


 そんな声がして、エリクはハッとそちらを向いた。ぶつかった少女は尻もちをついた体勢のまま、にこりと笑みを浮かべていて。


(俺は軍人だ。軍の役目は、国を、国民を守ること。だったらこの子を見捨てるわけにはいかない)


 そう決意し、あの怪しげな馬車に後ろ髪をひかれつつも、エリクは少女を見やった。そして彼女の言葉に返事をするため、小さく首を横に振る。


「いえ、本当に怪我がないのか確認させてください」


 すると今度は少女が驚く番だった。しきりに目をぱちくりさせている。


「あら、大丈夫だって言っているのに」

「紳士として当然のことです」


 軍人として、のほうが正しいだろうが、他国の貴族とかならばこちらのほうがよいだろう、と判断してそう言う。

 少女は少し迷った様子を見せたあと、エリクの言葉も一理あると思ったのだろう、ゆっくりと立ち上がろうとする。

 しかし。


「いっ――!」


 彼女は痛みをこらえるような表情を見せたかと思うと、すぐさま先ほどまでと同じように地面に座り込んだ。おそらく足を怪我してしまい、その痛みのせいで立てなかったのだろう。まだ痛むのか眉根を寄せてきゅっと口を引き結んでいる。

 人々を守る軍人なのに、申し訳ないことをしてしまった。自分の迂闊うかつな行動を後悔をしつつも、素早くエリクは少女に尋ねる。


「どこを怪我しましたか?」

「……右足よ」

「足首を確認してもよろしいでしょうか?」


 すると彼女は小さく頷き、ドレスの裾を少しだけ持ち上げた。

 断られると思っていたため意外に思いつつ、エリクはじっと彼女の足首を見つめる。触るのはさすがに不興をこうむるだろうから、見て判断しなければならない。


 とりあえず腫れている様子はないし、骨折したときのように足がおかしなことになっているということもなく、今のところ目立った外傷はなかった。

 こっそり胸をなで下ろしつつ、エリクは口を開く。


「……折れてはないようですから捻挫でしょうね。安静にしたほうがいいでしょう」

「まあ、これが捻挫なのね!」


 あまりにも場違いな声に、思わず目の前の少女を見つめた。怪我をしたにもかかわらず、なぜか彼女は目をキラキラと輝かせて口角を上げている。

 ついドン引きしてしまった。


「……捻挫で喜ぶ人初めて見た」

「あら奇遇ね、私もよ」


 思わず呟けば、彼女は可愛らしく笑った。

 その笑みは、エリクが今まで見たもののなかで一番美しいもので。


 思考が停止する。

 なにも考えられなくなる。

 ただただ、その笑みに恋焦がれて。


「どうしたの?」と彼女が不思議そうに首を傾げる。


「な、なんでもない!」


 気持ちを切り替えるため、慌てて返事をした。そうしなければずっとずっと、彼女の瞳を見つめてしまいそうで。

 すると彼女はまた笑った。どこか上品さを感じさせる、けれども屈託のない純粋な笑みを浮かべる。


 ぼうっと見とれてしまうと、途端、「アデラ!」と、人混みの中でもよく通る声がした。

 目の前の彼女はその声にビクリと肩を跳ねさせると、おそるおそる声のしたほうを向く。


「あ、お兄さま……」


 エリクもそちらに視線を向けた。そこにいたのは少女と似たような色合いを持つ青年だった。彼はどこか焦った様子でこちらへと近づいてきている。


 そんな彼を見つめ、エリクはずっと目を細めた。少女が「お兄さま」と呼ぶわりには、あまり似ていない気がする。ただ単に父親似と母親似で差ができているのだろうか?

 そのことを訝しんでいると、青年はエリクのことなど視界に入っていないかのような態度で少女の前に立ち、彼女を見下ろす。


「アデラ、どうして座り込んでいるのかな?」

「え、えへへ……」


 圧をかけてくる青年に対し、彼女はぎこちなく笑ってごまかす。この様子からしておそらく叱られなれているのだろう。

 けれど、今回彼女に非はない。ぶつかってしまったのはエリクなのだから。


「申し訳ありません!」


 二人の間に割り込むようにして、エリクは青年に対して頭を下げる。


「私がぶつかってしまって、怪我をさせてしまい……」

「ああいや、大丈夫だよ。君だけのせいじゃないだろうし」


 その後も言い募ろうとしたのだが、当の青年が止めてきた。エリクは顔を上げ、彼の碧の瞳を見つめる。


「ですが、」

「大丈夫だから」


 不自然なくらい、青年は謝罪を拒絶してきた。

 なにか、怪しい。

 なんの根拠もなくそんなことを思っていると、青年は少女の前にしゃがみ込んだ。


「怪我の具合は?」


 淡々と尋ねた青年に、少女は「……捻挫ですって」と答える。その笑顔がどこか怯えているように見えるのは、叱られるのを恐れているからか。

 すると青年が優雅な動きで立ち上がった。そしてまるで牽制でもするかのように、警戒心を覗かせた双眸をこちらに向け、にっこりと笑う。


「うちのアデラが迷惑をかけたね。ありがとう。それじゃ」


 そう言うと、青年はスタスタと歩き始めた。彼についてきていた護衛と思われる男性はしゃがみ込み、捻挫をしてしまって歩けない少女を背負うと慌てたように青年を追う。

 と、そのとき。


「ねえ!」


 背負われた少女がこちらを振り向き、声をかけてきた。彼女はにんまりと笑みを浮かべる。


「ありがとう!」


 その言葉に。

 エリクは頬を緩めると大きく手を振り返した。




(さて、どうするか……)


 一人きりになり、エリクはため息をつく。結局あの妖しげな馬車を見失ってしまった。それならばどうするべきか。


「……とりあえず、ぶらぶら歩くか」


 そう呟き、エリクは歩みを進める。なにも考えることなく適当に進んでいると、港が見えてきた。

 ブランクール共和国でも有数の大きさを誇る港だ。ここから大陸の商品が輸入されて各地へ運ばれたり、観光客がやって来たりする。もちろん各地から集められたものを輸出することも。


 ゆっくりと周囲を見回していると、偶然にも遠くに馬車を見つけた。頭を切り替え、そろりそろりと近づいていく。

 あの馬車が先ほどのものと同じとは限らない。

 それでも、どこか確信めいたものがあって。

 エリクはゆっくりと怪しまれないよう近づく。そして――


「…………」


 すっと目を眇めた。

 ちょうど馬車の扉が開き、乗り込んでいく人物。

 それは反革命派だと断定されながらも、一切証拠がないため捕まえられていないファルシェーヌ元侯爵と、先ほどの青年と少女だった。

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