恋のカクテル
屑原 東風
恋のカクテル
私が初めてそこに行ったのは、仕事で失敗をした日だった。任されていた会社との契約が取れず挙句ライバル社にその会社の契約を取られ、新しいプロジェクトの責任者になったのに一部プレゼンテーションを発表するのに上手くパワーポイントを操作できなくて怒られて、とにかく駄目な日だった。失敗ばかりでやりがいが感じられない。なんで働いているのかなんて考えて、つまりそんな日だった。どうせ帰っても待つのは一人きりの部屋。足は自然と家とは別に向いていた。帰りたくない。
普段通らない細道。街灯すら差し込まない暗い路地裏を抜ける。服が汚れることも厭わず。この先に何があるのかを知る方に興味を惹かれていたのだと思う。そうして更に細い道を右に曲がったところにそれはあった。
『Kの家』。居酒屋だろうか。扉の横。少し古びた椅子の上にぼんやりとした光りを放つ猫の置物。
ごくりと一つ唾を飲み込み取っ手に手をかけ引いた。カランカランとベルの音。
「いらっしゃい」
それがこの『Kの家』のマスター、高梨和馬との出会いだった。
「初めましてだね」
「あ……えっと…」
「どこでもいいから掛けて下さいな?どんな人だろうと歓迎するよ」
そう言われてもどこに、と入り口に立ち尽くしたままにしていたらその人は笑いながら私を手招きしてカウンターに促した。どうやら店にいた常連の客が私を物珍しい顔で見ていたらしかった。ああ、なんて恥ずかしい。顔を赤くする私の目に映ったのは氷の入ったタンブラーに注がれるオレンジジュースと何か。
「リキュールの一つだよ。苦味があるからこうしてオレンジジュースと混ぜて作るんだ」
そう言った彼はマドラーを使いくるくるとオレンジジュースと名も知らないリキュールを混ぜていく。
「はい。どーぞ」
「いただき、ます」
こうしたバーで飲むのは初めてだ。そっと飲み口に口に付けると苦味はあまりなく、オレンジジュースと合わさって甘みの方が強い気がした。
「甘い…」
「でしょ?疲れた時によく効くんだよ、それ」
笑顔の混じってそうな声でそう言われて私は驚いて彼を見た。私はここにきて、一言でも疲れたなどと果たして口に出しただろうか。
「僕は結構長いことここに勤めてるけど、お客さんはこの辺じゃ見ない顔だし、大方路地裏奥にあるこの店が気になったんじゃない?例えば仕事とかでなにか嫌なことがあって、家に帰りたくない、とか?」
「え………えっと…」
「ああ、ごめんねいきなり。紹介もまだだったね。僕は高梨和馬。ここの…一応バーテンダーになるのかな?ここのお客さんからは和馬って呼ばれてるよ」
「和馬、さん」
「あはは、和馬でいいよ。僕、お客さんと年変わらないでしょ?いくつ?」
「23歳…」
「なんだ、同い年じゃん」
「え!」
ここで勤めてるくらいなのだから当然20歳は超えているとは思っていたがまさか同い年だったとは。彼、和馬は同い年がいて嬉しいのかより笑みを深めて私を見た。見られることに慣れてなくて、隠すようにもう一口、渡されたそれを飲んだ。
「で?どうしたの?なんか嫌なことあったんでしょ?」
「う……」
見透かされている。初対面の男に心の内を簡単に読まれている。言うべきか、言わないべきか。
「言いたくなかったら言わなくて大丈夫だよ。それは僕の奢り。ゆっくり飲んで下さいね」
「えっ……でも…」
「いいっていいって!お客さん美人さんだからサービス!」
「びっ…!?…」
「おおーい、和馬!俺が来たときはサービスなんかなかったぞー!」
別のテーブル席から顔を赤くし、ネクタイを緩めた男性がグラス片手に和馬に向かって指を差す。
「美人だって言ったよ僕。それに、お客さんはもう常連さんでしょ?サービスしなくても、いつも来てくれるんだもんね」
「そりゃー、おめぇ……あれだよ…おめぇの作るモンがうめえのがいけねえ……」
「あはは、ありがとう」
途切れない笑み。人当たりのいい笑顔。嫌味なんて入ってない優しいそれを見ると心が温まるようだった。
「あっ…っと、そうだ。これ」
私は鞄の中に入れていたカードケースを開いて和馬に名刺を渡した。
「雨宮なつき、さん?」
「なつきでいい。私も呼び捨てなんだから」
少し考えた後、私は別の客のために作る和馬を見ながら口を開いた。少し聞いてもらっていいかなって。さっき和馬が聞いてくれた、今日あった嫌なこと。
「いいよ。なんでも聞く」
和馬の言葉に促されるがままにポツリポツリと話し始めた。今日失敗したこと、それからやりがいが感じられないこと。和馬が入れてくれたそれを飲みながら話していくうちに少しずつ感情が込み上げて来て、気付けば私は泣いてしまっていた。和馬は何も言わずに紙ナプキンを渡してくれて、私は遠慮なく泣いた。私、今の仕事向いてないのかな。
そう最後に口に出した。気づけば周りに客はいない。いるのは、和馬と私の二人だけだ。
「仕事が向いてる、向いてないはなつき自身が決めることだよ」
「私、自身?」
「僕だってね、高校を卒業してからいろいろ勉強してきた。知り合いがきっかけでどうしてもバーテンダーになりたくて、でも高卒を雇ってくれるところなんて早々ない。一からの酒の勉強も、接客としての勉強も積んで、そしてやっと店を任せられるようになって、お客さんがきてくれて、そのお客さんが常連さんになってくれて」
語る和馬は、私とは同い年なんて思えないほど大変なものだった。私が大変って思うより、和馬の方が大変そうに思えて。なんだかこうして悩んでる自分が情けなくなる。
「大変かそうでないかなんて、そう感じるのは個人個人だ。きっとこれからだよ。躓くのはいいこと。そうして成長できるんだからさ。だから何か一つでも自分の中でやり遂げてごらんよ。一気に楽しくなるよ。仕事ってのはそういうものさ」
底に残ったそれを一気に飲み干してタンブラーを和馬に渡すと、それを受け取り、同時に頭を無造作に撫でられた。
その手はどうにも優しい。そのまま寝てしまいそうなくらい。だけどそろそろ帰らなくては。私は椅子から腰を上げる。ここに来た時より随分と足取りが軽い気がするのは酒のせいなのだろうか。
「大丈夫?」
「うん、だいじょーぶ」
正直そこまでフラフラはしない。酒には結構強い方だと思っている。和馬が入り口まで出て来てくれた。
「気をつけて帰りなよ?またいつでもおいで」
帰り道はご機嫌に鼻歌なんて歌いながら。飲む前とは大違いなくらい今は楽しくて。口に残る甘い味にふわふわと浮かぶようだ。
「あれ、なんていう名前だったんだろ……」
リキュールと、オレンジジュースを混ぜたやつの名前。そういえば聞いてない。また飲みたい、なるほど、こうして和馬の店に通う常連さんが増えて行くのだ。客が増えてたらきっと和馬はまた嬉しそうに笑う。その笑った顔を思い出して、私まで笑いを浮かべる。初めて会った人なのに、なぜだかそう思えたんだ。
早く、早く早く。足取りを早めて、まだ慣れない道をくぐり抜けて、扉の取っ手をひっつかんだ。
「和馬!」
真っ直ぐ和馬のいるカウンター席へと向かう。右の端っこから二番目の席。
「久しぶり、だね?といっても一週間振りくらい?名前は、なつき、だったよね」
「そんなことより!和馬!聞いてくれよ」
私は席から立ち上がらん勢いで身を乗り出す。和馬もなになに、耳を傾けてくれた。
「あのな、会社との契約が取れたんだ!」
「へえ?すごいじゃん」
前取ろうとしてたとこよりは小さい会社だけれど、当たり前のことだって上司からは言われたけど。私はそう言ったけど和馬は相槌をうちながら真剣に聞いてくれた。
「それでもすごいことじゃん」
「だろ?私、ほんと嬉しくて、和馬に報告したくて…」
「なつき」
言葉を途中で止められて思わず口を噤んでしまって、出しかけた言葉をそのまま飲み込んだ。
「仕事に、やりがい感じた?」
「仕事……」
自分の中で何かやりとげて。和馬は私にそう言った。やりがい。今回、仕事で初めて契約が取れた。同僚には頭をぐしゃぐしゃにされるほど褒められて、どうしようもなく嬉しくて。
「ああ…感じれた…やっと…私にもそういうのを感じれたんだ」
「うん、よかった」
渡されたメニューからこの間飲んだ飲み物を探した。苦味と、甘みのカクテル。名前がわからなくて探していたら和馬は私が注文するよりも先に出した。タンブラーに入れられた、前のと同じやつ。
「これでしょ、きっと。カンパリ・オレンジだよ」
前に味わったそれを口に含む。仕事の疲れを取るようなほろ苦い味が体の中に染み込んでいく。
「お腹は?空いてない?」
「…空いてる…」
「簡単なものでいい?」
「え?」
和馬が私に背を向けたと思ったらグラスが並ぶその奥の小さなキッチンに小さな鍋を置き、慣れた手つきで何かを作り始めた。ふわふわと香る味噌の匂い。それから、チーズ。
「お待たせ」
和馬が机に置いたのはグラタン皿に入った豚肉。その上にネギ、それから先ほども香った味噌とチーズ。
「熱いからね、気をつけて」
「い、…いただきます」
私自身一人暮らしで、手料理くらい作れる。しかし、今食べたそれは美味しかった。和馬はこれをパッと作ってくれたが、かなり手の込んだもののように思えた。
「おい、しい…」
「でしょ」
「和馬は料理もできるんだな…」
「んー、料理の方はお酒のつまみとしてさ、やっぱりこれくらいは嗜んでないとね」
和馬の笑顔、お酒の美味しさ、それから料理の美味しさ。
全てが合わさってお腹が空いていたというのも相まって、食べる手が止まらなかった。
「ふふ、ゆっくり食べなよ、おかわりならいくらでも作ってあげる。そんなにお腹が空いていたの?」
一人前とは言えないが、仕事を成功できたこと。それを一番に伝えたくて走って来た。空腹も忘れてしまうほどに。見られて顔が赤くなった。だから、今度は少しだけ遅めにスプーンを進める。タンブラーの中に入った氷が、まるでここに私がいられる時間を長くするようにゆっくりと溶けていた。
すっかり常連となってしまった私は仕事帰りに、残業がない限り毎日その店に通った。そして、店に行って飲むのは、最初に飲んだカンパリ・オレンジだけ。お腹が空いていた日には和馬の手料理もつけてもらって。そうやって店での時間を楽しむ。話しても話が尽きない。次から次へと話題が出てきて、楽しくてしょうがなかった。
和馬と会えるのが楽しみで仕方がないのだと気付くのは一体いつだったかもう忘れてしまった。もしかしたら最初に行った時からかもしれない。あの笑顔をみたときから。23歳にもなって未だ恋の一つもしたことはなかったけれど、この初めての胸の高鳴り。これは恋だと思う。だって、みんなに笑顔を振り撒く和馬を見てたらドキドキして収まらない。けれど、独り占めしてみたい。そんな想いを抱きながら、私は定位置になったカウンター席に座っていた。
そんなある日のことだった。いつものように仕事終わりではなく、今日は残業があって、いつもより遅い時間。家に帰ろうかとも考えたが、どうしても和馬の顔が見たくなった。ヘトヘトでも身体は自然と和馬の店へと向かう。カランと開けた扉。いつものように和馬の声が聞こえてくるかと思ったら、聞こえない。いつもの席へと向かおうとしたら、そこには先客がいた。長い黒髪を持つ少女が伏せている。初めて見る人だ。そして、カウンターの中に和馬はいた。けれど、いつも笑って迎えてくれる和馬はそこにいなかった。和馬はその先客へと目を向けている。とても優しい目で彼女を見ていた。あの様子じゃ、私が入ってきたことも気づいていないのだろう。
「あ、なつき。いらっしゃい」
やっと、私と存在に気付いた和馬は笑って私を見てそう言った。いつもの好きな笑顔のはずなのに、どうしてかそれは私の胸を強く締め付けた。痛い。その痛みに気付かないふりをしながら私は少女の横に座った。
「ごめん、いっつもの席、今日は先客がいるんだ…ほら、花蓮、もう、しっかりしてよ」
「んんー……」
花蓮と呼ばれた少女は、可愛らしい声を出しながら、そろそろと顔を上げる。眠たそうに目をこする姿は子供のようで、しかし彼女側のカウンターに並べられているのは大量のグラス。ふう、と息をはいた少女の口から酒気がした。カウンターから出てきた和馬は開けたはずの目を再び閉じようとする少女を揺さぶる。
「ほらー、だから言ったじゃん。飲み過ぎはだめだって…….ほら、帰りなよ」
「やだー、帰らないもん!和馬のとこにいるー!」
少女は突然立ち上がり和馬にぎゅうと抱き付いた。私は少女の行動に目を見開いた。和馬だって少女を引き剥がそうとはしない。それを見て、思わず音を立てて立ち上がる。
「ど、どうしたの?なつき」
「帰る」
「え?」
呼び止める声も無視して外へと飛び出した。そして和馬から離れるように家に向けて走る。
家の扉を開け放ち、真っ暗な玄関へと転がり込むように入った。荒くなる息と共に、嗚咽が漏れた。
「っ……ふぅ……」
好き、だなんてどうして自覚してしまったんだろう。和馬に『彼女がいた』だなんて、そんなことも知らないで勝手に舞い上がって。本当に馬鹿みたいだ。両想いになれたら、なんて浮かれて。涙はどうしたって止まらなかった。
その日を境に、私はあの店へ行かなくなった。仕事に打ち込んで、和馬のことなんてまるでなかったかのように。不幸か幸いか、連絡先は交換してなかったので私が行かなければ会えない。元々そんな関係だった。
「で、じゃあ…その人とはもう会ってないの?」
仕事終わり。某ハンバーガー店の窓側の席。私は頼んだコーヒーを啜っていた。その横には中学時から友人である美樹が隣に座って身を乗り出すようにしてハンバーガーを齧りながら私にそう聞く。
「会ってないよ」
「なんでっ…」
「なんでって…あんなとこ見せられたら…」
「見せられたとしても、ちゃんとなつきの気持ちを伝えなきゃ…何も変わらないよ」
「だって……」
伝えたところで私の望む返事は返ってこない。伝えたとしても、私が傷付くだけじゃない。和馬にとってもきっと重荷になる。だから、伝えたくなかった。
「それにしても、花蓮って名前…どこかで聞いたことあるような…」
「とにかく、私はあの店にはもう行かない。行け、ない…」
話は終えたはず。コーヒーも飲み終わった私はハンバーガーを食べ終え携帯をいじっていた美樹の手を引いて店を出た。
私と美樹の家は逆方向だ。分かれ道で彼女に背を向ける。明日も仕事だ。こうして仕事に打ち込んでいたらきっといつか忘れることができる。
「じゃあ……」
「なつき!」
背を向けて歩き出した私の腕を、美樹が強く掴む。おい、だとか。どこに行くんだ、とか。美樹は一切私の話を聞かずにそのままどんどん進んでいく。
細道、路地裏。通り慣れた道を美樹に引っ張られながら歩く。身体が拒否を起こすように固まる。この先に行きたくない。なのに美樹は足を止めない。道の奥にある店。もう行きたくなかったその店の扉を美樹は思いっきり開けた。
「いらっしゃ……え…」
聞き慣れた声。一瞬目が合ってしまい、私は思わず美樹の後ろに隠れる。彼は、和馬はカウンターから出てきて真っ直ぐこっちに近づいて来る。
「なつき……?」
伸びてきた手に思わず身体が震える。そんな私に気付いたのか、少し傷ついたような顔をして和馬は私に触れることなくそのまま手を下ろした。
「久しぶり、だね…元気だった?最近、全然見なかったけど…」
「お前が気にしなくても別に元気でやってる」
そっか、と和馬は小さく呟き、笑顔を見せて再びカウンターに戻る。
「飲みに来たん、でしょ?おいでよ。そのお友達も一緒に、さ」
「いや、私は…」
「はい、ぜひ飲ませてください」
美樹は素知らぬ顔をして私を引っ張り、半ば無理やり座らせる。座らされたのが私がいつも座っていた席で本当に帰りたくなる。
「この店、SNSでこっそり人気のバーですよね!なつきから和馬さんの名前聞いて、絶対ここだって思ってました!あ、私は美樹です!よろしくお願いします!」
「うん、僕が和馬です。よろしくね」
私の横で楽しそうに話す二人。やっぱり、どの人と話すときだって、和馬は笑ってる。私はやっぱり和馬にとってただの客でしかない。
帰る。そう言って立とうとした。二人が楽しそうに話してるなら私はここにいる必要はない。帰ろうとしたけれど、なつき、と和馬の声がして、腰をあげようとした俺の私は立つタイミングを失う。
「飲んで、いかない?だって、久しぶりに来たんだ。飲んでいってよ」
「私は…別に飲みに来たわけじゃ、ない…」
「いいから」
和馬とは視線を合わさないようにして俯いていると、私の前に注文もしていないカクテルが置かれた。タンブラーに入った色はカンパリ・オレンジより少し黄色がかった色。レモンが浮いていた。
「アプリコットフィズっていう名前だよ。飲んでみて」
「……」
「なつきに飲んで欲しくて、作った」
その言葉にカッとなり、グラスをつかんで和馬にそれをかけるように振った。周りの客も、隣の美樹も、私と和馬を見る。私に酒をかけられても和馬は目を伏せ、俯いているだけだった。ただ無性にイライラして、空のグラスを握る手が震えた。
「お前っ、の!そういう思わせぶりな言葉が!私をぐちゃぐちゃにするんだっ!」
行動も、大声も、全部店の迷惑になるってことはわかってる。けど抑えられなかった。ボロボロと涙があふれて、周りがぼやけて見える。
「ただの客だなんて!そんなのわかってる!私のことなんでどうでもいいなんて…そんなの!」
「なつ、き」
「けど……好き、なんだよっ……ほんと…どうしようもないくらい…」
和馬のことを考えると毎日が楽しかった。和馬と話す時間が本当の自分でいられた。最初に店へ訪れた日。もしかしたら、あの日から私は和馬に惹かれていたのかもしれない。
勢いで告白してしまったことはわかっている。今度こそ、もうこの店には来られない。
財布を取り出す。お酒代、それからクリーニング代も合わせてテーブルに置こうとしたら、その手を和馬に掴まれた。酒の所為で少し濡れた和馬の手の冷たさは、怒りで熱くなっていた私の手にじわりと染み込んだ。
「僕も、なつきが好きだよ」
「嘘だ!!」
「嘘じゃない。僕は君が好きだ」
「もうやめろよ!聞きたくない!」
「なつき!!」
今まで聞いたこともなかった和馬の大声に涙は余計に溢れてきた。ごめん、と和馬は謝りながらより私の腕をつかむ力を強める。離さないとでもいうように。
「何度でも言うよ。好きだ、なつき。僕はなつきが好き」
私は、そろそろと顔をあげた。
「やっと、顔。あげてくれたね」
今日、初めてきちんと見た和馬の顔は私が最後に見た顔よりやつれて見える。僅かに潤んだ瞳は、まるでそこに私の感情が映ったようにも思えた。
「けど、じゃあ、前の女の子はどう説明するんだ…あの子は、お前の…」
「前来た子ってもしかして…」
和馬がおそらく説明してくれようとしたと同時に、カラン、と扉が開く。
「おじゃましまーすっ、って、なんか雰囲気違う?どうしたの?」
入って来たのは、背の高い青年。それから、前に店にいた花蓮という名の女の子だった。
「圭介、花蓮…」
「えっと……もしかして、来ちゃいけない雰囲気だったり?」
「いや…多分、いいタイミング」
和馬以外が頭にクエスチョンマークを浮かべる中、圭介と呼ばれた青年と花蓮は私の横に座った。
「紹介するよ、なつき。二人は僕の幼馴染で、三山圭介と、白石花蓮」
「初めまして!なつきさん、だよね?カズマからよく話は伺ってるよ。以前は花蓮がここで世話になった時に一緒にいたみたいで…花蓮が迷惑かけなかった?」
「えっと……」
和馬が私のことを彼に話していた。いったいどんな説明をしていたのか気になるところであるが、それはともかく全くと言っていいほど彼ら三人の話がわからない。
「あのね、なつき。なつきは勘違いしてると思うんだ。花蓮はね、圭介の奥さんなんだよ」
「おく……え!?」
「へへ、といってもまだ籍はいれてなくてね。来月には入れる予定なんだ」
圭介さんは頬を掻きながら笑う。
花蓮は顔を真っ赤に染めて圭介さんの服をぎゅっと掴んでいた。やっぱり話についていけなくて私の頭はオーバーヒート寸前だ。
「あ!思い出した!三山圭介さんと花蓮さん!テレビに出てましたよね!確か、世界で行われたフラワーアレンジメント大会で優勝したとか…」
「よく知ってるね!昔から花屋になることが夢で、花蓮と二人で出場したら優勝したんだ」
これ名刺だよ、と圭介さんが私に渡したのは彼ら二人の名前が印刷された名刺だった。この書いてある『ウッドポスト』というのが、おそらく店の名前なのだろう。
「じ、じゃあ…前花蓮さんが和馬さんに抱きついてたのは…」
「は?抱きついてた?どういうことっすか?」
「だ、だってあの日圭介が全然構ってくれなくて…そっからあんまり覚えてない…」
「和馬!花蓮はお酒をたくさん飲んじゃうと抱きつき魔になっちゃうから飲ませちゃだめ!もう!」
「そんなの知らないよ…」
さっきまで私は泣いていたのに、今二人の言い争いが目の前で行われているのを見てたらなんだか茶番のように思えた。
「僕と花蓮はなんでもないよ」
「そうそう。だって和馬は初めてなつきに会った時から」
「わー!その話はいいの!!ね、なつき、飲み直さない?」
「……飲む」
私がもう一度座ったのを見て、和馬は嬉しそうに笑って着替えてくるねと裏に入った。ああ、そのことに対してもきちんと謝らなければ。
「なんか、勘違いさせた?」
「え……いや…」
圭介さんに話かけられた言葉が図星で私は慌てる。まさかそれが原因で大事になってだなんて言えるものか。
「いやー、聞いてた以上になつきさんは美人だ」
「え、あ…いや…美人だなんて…」
「ちょっとー、圭介。人の彼女口説こうとしないでよー」
着替えてきた和馬は頬を膨らませて圭介さんに文句を言う。はいはいと言いながら圭介さんは笑うが、それよりも。
「か、彼女…!?」
「え、違ったっけ…伝わってないなら何度でも言うよ。僕はなつきが好き。なつきと恋人になりたい」
咳払いを一つ。和馬は恐る恐るといった感じで私に手を伸ばしてきた。この手を握れば恋人、握らなければそれまで。私はふっと笑う。答えなんて、それこそ尚更。
「よろしく、お願いします」
ぎゅっと手を握り返せばカウンター越しに抱きしめられた。客からは歓声。美樹、花蓮からは拍手。恥ずかしくて居た堪れない。
「あー、やっば…超恥ずかし…ちょっと待ってね、すぐ何か入れるよ」
ものの数秒で和馬は身体を離してカクテルを作り始める。全身から火が出るほど熱くなってしまった私は椅子に座りただぼーっとした頭で和馬の姿をみていた。
「ん、お待たせ」
私の前に置かれたのはカクテルグラスに注がれた、グラスの縁に白色の何かがまぶされ雪のようなカクテル。少し強めのレモンの香り。
「マルガリータだよ、どうぞ、召し上がれ」
グラスを持ち、く、と一口。少しだけクラクラする。カンパリ・オレンジより強めのカクテル。だけど、私の好きな味。
「美味しい…」
「ん、よかった」
私以外の三人のカクテルも作り始めるカズマ。隣に座っていた圭介さんが私の肩をたたき、そっと耳元でつぶやく。
「なつきさんって酒言葉って知ってる?」
「酒、言葉?」
「花言葉みたいな感じかな?なつきさんがカズマから貰ったカクテルってなんていう名前か覚えてる?」
「えーっと、カンパリ・オレンジ、飲んでないけどアプリコットフィズ、それから今の。マルガリータだと思う」
「ほー」
私からカクテルの名前を聞いた圭介さんは和馬に視線を移しニヤニヤと楽しそうに笑う。なにがどうしたというのだろうか私にはわからなかったが、もう一度圭介さんが私に教えてくれた、その三つのカクテルの酒言葉に治まりかけていた身体の熱さが蘇る。
「はい、三人の分ね…って、なつき、どうしたの?顔すんごい赤い、けど」
「お前の、せいだ…バカ……」
「お前のせいって…まさか、圭介…?」
「えへ、言っちゃった」
圭介さんのわざとらしい言葉に和馬まで顔を赤くした。なんだ、私たちは最初から、“同じ”だったんだ。
「ヘタレが…」
「返す言葉もありません」
和馬は私から視線を逸らしてそう言った。私がもう一口出されたカクテルを飲む。もちろん、酒言葉を理解した上で。それを和馬もわかっていて顔を更に赤くした。
私はテーブルに片肘をついて、和馬を見つめる。
「明日も、明後日も、毎日お前の作るカクテルが飲みたいな」
恋のカクテル 屑原 東風 @kuskuz
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