ハルウリの少女

虎戸リア

ハルウリの少女


 私立セントリリィ女子高等学園。


 全国から優秀な生徒が集う、女子校の中でも頂点と呼ばれる学園。そこは、蝶よ花よと手塩にかけて育てられた女子達が咲き誇る花園だ。


「知ってる? 三組の灰川小雪はいかわこゆきって“ハルウリ”らしいよ」


 三人の女生徒が教室の扉の前で笑い合っていると、近付く影が一つ。


「どいてくれる? 外、出られないんだけど」


 その影を見た、三人が凍り付く。


「あ、あ、日向ひなたさん」

「どいて?」

「ごめんなさい!」


 三人が一斉に頭を下げながら道を空けた。


「ありがと」


 まるで心の籠もっていない礼を言いながら扉を出たのは、背の高い女生徒だった。


 女の嫉妬と妬みが渦巻くこの学園の頂点。

 ヒエラルキーのトップオブトップ


 それが、日向さくら。彼女の名だ。


 少しウェーブの掛かった栗色のロングヘアーに、白人の血が少し入っているのか、日本人離れした目鼻立ち。すらりと伸びた長い手足に細いウエスト。男性の目を釘付けにする豊満な乳房と、ヒップライン。


 女子が羨む全てを持っているといっても過言ではなかった。何より彼女は決して見た目だけではない。勉学もスポーツも人並み以上にこなせる才女だった。


 彼女は、天は二物を与えないという言葉が大嫌いだった。出来ない奴の、底辺を這いつくばるゴミ共の嫉妬だ。そう彼女は確信していた。


 世間一般で言えばこの学校の生徒は優秀だと褒められているらしいが、それすらも彼女にとっては苛立ちの元だった。


 優秀? こいつらが?


 男に媚びる事と、女を貶める事しか考えてないこいつらが? 馬鹿馬鹿しい、一緒にするな。


 彼女は群れず、馴染まず、孤高の存在としてトップに君臨していた。


 勿論、彼女は自身の才能だけに驕って努力を怠るような無様な真似はしない。勉学に、体型を維持する為の運動、食事制限、上げればキリがないほどの努力の積み重ねの上に彼女の美しさは成り立っていた。


 だからこそ、彼女は傲慢だった。

 誰であろうと自分より上は認めないし、自分を上と認めない者には容赦をしなかった。お前如きが私と同じステージに立てると思うな。そう言い放ち、彼女はあらゆる手段を使って相手を屈服させてきた。



 さくらが、校舎の三階へと上がる。すれ違う女生徒は皆、道を譲り頭を下げた。そうしないと、どうなるかを良く知っているからだ。彼女達は、そうしなかった者の末路を知っている。


 職員室から一番遠い三階の端のトイレ。

 そこにさくらが入ると、二人の女生徒が一つの個室の前に佇んでいた。


「あ、さくらさん、やっとここに追い詰めたんですけど」

「どいて。もういいから。出てって」

「はい」


 二人の女生徒がすごすごとトイレから出て行った。


 さくらはゆっくりと息を吸い、吐くと同時に個室の扉を足蹴した。


「灰川ぁ! 出てきなさい!」


 さくらの見た目と反して、低く怒りの籠もった声が響く。


 個室からは返事はなく、代わりに鍵がガチャリと開く音がした。


「はっ! お前はゴリラかよ。猿山の大将なのは見れば分かるからそういうのはもういいぞ」

 

 扉が開くと同時、個室の中の人物が口角を斜めに曲げながら、そう言い放った。


 ショートカットの黒髪に丸眼鏡。小学生と見間違うほどに小さな体躯。手と足どころか身体の全てが細く貧相なその少女は、便座に足を組みながら座っていた。


 その少女は邪悪な笑みを浮かべながら、目尻を上げて怒りを露わにしているさくらに言葉を叩き付ける。


「もっと笑えよドブス。笑顔は女の武器だろ?」


 こいつだ。あとは、こいつだけだ。


 さくらは感情が怒りで押し潰されそうになるのを耐えながら目の前の傲岸不遜な相手をにらみつけた。


 この学園で唯一、私に反抗的な存在。どんな嫌がらせをしても屈服せず、私を小馬鹿にし続ける、学園最底辺の弱者。


 さくらが何度となく手を出し、それでもなお平然と学園に居続ける者。


 その少女の名は灰川小雪。


☆☆☆


 小雪はごくごく一般家庭で生まれ育った。それが、何に起因にしていたのかは分からなかったが、なぜか彼女の身体は成長しなかった。


 元々口が悪く、かつ媚びるのが嫌いだった彼女は幼少時より、よく周りとトラブルを起こしていた。自分の容姿を馬鹿にした年上の子や大人に無謀に突っかかっていく事を何度も両親に窘められたが、彼女はそういう性分だと言って聞かなかった。


 小中といじめられても、めげずに喧嘩や騒ぎを起こす小雪に両親は頭を抱えていた。だが幸い彼女は飛びっきり頭が良かった。そんな彼女を憐れんだ両親が半ば無理矢理入学させたのがこの学校だった。容姿にコンプレックスを抱く我が娘でも、男子のいない女子校ならば伸び伸び過ごせるだろうと。


 とんだ馬鹿親だと小雪は思った。結果的にそれは地獄から地獄へと移っただけで、何の解決にもならない。


 頑固で意固地な小雪を待っていたのは、女王が座する花園だった。

 日向さくら。あたしの、正反対。美しさと理不尽の化身。


 だけど、小雪も高校生になると、自分が黙っていれば意外と物事は丸く収まる事に気付いた。次第に彼女の攻撃性はなりを潜め、周りの女生徒からはただの底辺だと無視された。


 さくらの存在には当然気付いていたし、思うことはないではなかったが、彼女は特大の嵐であるさくらの視界に入らないように、息を潜めて学校生活を送っていた。


 小雪はそれで満足だった。さくらという存在は小雪にとってあまりに大きすぎた。


 最初のきっかけは去年の夏の定期考査の試験の時だったと思う。


 常に学園トップの成績を誇っていたさくらに、小雪はたまたま勝ってしまったのだ。いつもなら目立たないように数教科手を抜くのだが、その時は何を思ったか本気を出してしまった。


 無意識であたしは認められたかったのだろう。学園トップに勝てば、誰かあたしに振り向いてくれるかもしれない。そんな欲が出たのだ。もう嵐は過ぎ去ったと勘違いして、外に出てしまった。


 あたしは大馬鹿者だった。


 さくらの周りで小雪をダシにした陰口がちらほら聞こえるようになった。常にトップでないと気が済まないさくらが、小雪を攻撃し始めるのも時間の問題だった。


 だけど、小雪はさくらに屈服しなかった。むしろ、今まで潜ませていた攻撃性に毒を纏わせ、反撃したのだ。嵐の中に出た以上、嵐に拳を振り上げる以外の方法を彼女は知らなかった。


 そもそも彼女は頭の中までお花畑なこの学校の生徒が大嫌いだった。糞が詰まった化粧臭い糞袋共が雁首揃えてお嬢様ごっこしている光景に、虫唾が走るとさえ、言ってのけた。


 こうして小雪は、さくらはもとより他の女生徒までも敵に回してしまい、さくらの攻撃もエスカレートしていった。ただの陰口から分かりやすい暴力へと。




 さくらの命令で自分を捕まえようとする女生徒から逃げ、小雪は三階端のトイレに追い詰められてしまった。

 

 そこに、さくらがやって来た。


「お前はぁぁぁ!」


 さくらが激昂し、便座に座っている小雪にビンタした。


 痛そうな音が響き、あまりに小さく軽い小雪の身体がビンタの反動で便座から落ちた。


「いい加減! 認めなさい! 私が上だって!」


 さくらの金切り声が小雪の頭でこだまする。


「いい加減懲りなさいよ!……馬鹿じゃないの! 誰もあんたを認めてない!」

「それと同じぐらいあたしはあんたを認めない」


 小雪は目に涙を浮かべながら、床から見上げて声を振り絞った。


 絶対に認めない。こんなやり方で屈服させようとするさくらの存在が何より気に食わない。だから。


 小雪の目に、降伏の意思はない。


「だったらお前が私を認めるまでいじめ続けるだけよ!」

「あたしに構う暇があったら男の一人でも捕まえてこいよ、経験ないんだろあんた」


 小雪が何の根拠もなく言い放った言葉に、さくらがわかりやすく動揺した。


「お前!」

「おいおいまさか図星かよ……なるほど、お高くとまってる割には地味な下着なのはそういう事か。通りで処女臭えわけだ!」


 床に倒れた位置から、さくらのスカートの中が丸見えな小雪がせせら笑う。見えたのは、肌色の地味なショーツだった。


 それを指摘されたさくらが顔を真っ赤にして叫んだ。


「お前だけは絶対許さないから!」


 さくらが走り去っていく。小雪はゆっくりと立ち上がって、さくらの不可解な行動に首を傾げた。


「あいつ……まさか……本当に処女?」


 小雪はビンタされた頬を摩りながら、昼休み終了のチャイムを聞いて昼ご飯を早めに食べなかった自分を恨んだ。



☆☆☆



「へぇ。そんな変な子がいるんだねえ」

「そうだよー。まあ女子校だしね」


 静かな店内に柔和な青年の声が溶けていく。

 優しい笑顔を浮かべている青年は、二十代後半に見えた。端正な顔立ちに柔和な笑みを浮かべるこの青年に、さくらは身体を許すまではいかないまでも、ある程度の信頼を置いていた。


 トイレでの小雪とのやりとり以来、さくらは苛立ちを募らせていた。それの原因がなんなのかを彼女は理解していた。


 だから彼女は珍しく自分から、最近知り合った目の前の男性、早見悠人はやみゆうとをデートに誘ったのだ。


「ねえ、悠人さん。お仕事は順調? 人脈コンサルタントだったっけ?」


 さくらが、ゆっくりと赤ワインを傾けた。最初は断ったのだが、一杯だけなら大丈夫と言われ、注文してしまった。


「まあコンサルタントなんてのは大げさで、僕は斡旋業者みたいなもんだよ。縁のない人と人を結びつける。そういう仕事さ」


 悠人が、フォークとナイフを合わせてそう説明した。


 さくらは、当然ながら異性からも同性からもモテた。しかし、彼女が身体を許した事はこれまで一度もなかった。最近学校では“ハルウリ”が流行っているらしいが彼女的にはそれが信じられなかった。


 さくらは、己の価値を分かっているがゆえに安売りをしたくなかった。だけど、本当は自分で分かっていた。


 自分が、性行為を恐れている事に。

 それで、男性に幻滅されるのが怖かった。


 さくらはだからこそ、金銭目的で身体を売る女生徒達の行動を理解出来なかったし、何より軽蔑していた。


 自分より、男性経験人数があってそれをあけすけを話すクラスメートを嫌悪していた。それだけで、負けた気分だった。


 もし彼女に近しい友人がいれば、それは本当に些細な思い違いでコンプレックスですらない小さな悩みだと忠告してくれたかもしれない。


 だけど、彼女は傲慢だった。孤独だった。


 ゆえに、自分は他の馬鹿女と違って出し惜しみをしているのだと。そう自分に思い込ませる方法でしかさくらは自分を保てなかった。


「そんな僕でも、さくらちゃんほど綺麗で賢い子は初めて見るよ」


 微笑を浮かべながらそう言う目の前の青年は、これまでにないほどさくらの心を動かす存在だった。

 だけど、さくらはどこかで違和感を感じていた。それが何なのか分からないのがもどかしかった。


「美味しかったね。さて、まだ時間大丈夫でしょ? 僕の部屋においでよ。こないださ、最新のジューサーを買ってね。フルーツジュース作りに凝ってるんだ」

「あーうん。どうしよっかなあ」


 レストランを出て、春の夜風に当たりながら手を握ってくる悠人の誘いにさくらは迷っていた。


 少しだけだったはずの赤ワインがくるくると頭の中を回っているのが分かる。思考能力は正常? 大丈夫、まだ私は大丈夫。


 その最中で嫌な声が蘇る。


 “経験ないんだろあんた”

 “だから処女臭えんだよ”


 さくらは、小雪にまつわる噂を思い出した。


 “三組の灰川小雪ってハルウリらしいよ”


 あいつは、ハルウリだ。

 つまり……男性経験だけで言えば、私より上だ。

 

 だからか。だからあいつは! 私を見下して!


 さくらの思考が真っ赤に塗りつぶされていく。


「大丈夫さくらちゃん? 酔っちゃった?」

「大丈夫! ジュース飲みたい!」

「あはは、おっけー。じゃあタクシー使おう」


 さくらは、悠人と共にタクシーに乗り、彼の部屋へと向かった。

 

 悠人の部屋は、タワーマンションの上層階にあった。


「よっし、じゃあジュース作るから、適当に寛いでて」

「はーい。あ、ソファに座っていい?」

「もちろんさ、マイマジェスティー」


 おどけて貴族っぽくお辞儀をする悠人にさくらは思わず吹き出した。

 さくらは、もう流れに任せてしまおうと考えるようになった。この流れならもしかしたら。


 そうすれば、もうあんな奴に見下されなくてすむ。


 ミキサーの静かな駆動音が部屋に響く。


「お待たせ」

「美味しそう! 写真撮っていい?」

「もちろん! 僕も撮っていいかい?」

「好きだよねカメラ」

「被写体がいいからだよ。いつもモデルになってくれて感謝してる」


 悠人が持ってきたのは、オレンジ色のスムージーで、いちごやオレンジスライスがグラスの縁にデコレーションされていた。


「じゃあ、乾杯!」


 さくらが、一口飲む。少しだけ粒々が残ったジュースは甘くて複雑な味がした。


「これってフルーツだけ?」

「フルーツと、蜂蜜と、あとは


 悠人が笑いながら、指を口に当てた。

 

「ええ! もう教えてよ〜」


 コロコロと笑うさくら。しかし、その表情が次第に曇っていく。さきほどレストランを出る前にトイレに行ったばかりなのに、なぜか急にまた行きたくなってきてしまった。


 お酒を飲んだせいかしらとさくらはのんびり考えていた。


「どうしたの?」


 悠人が目を細めて笑みを浮かべていた。


「ちょっとお手洗いお借りしていい?」

「そこの扉出て左だよ」

「ありがとう」


 さくらがソファから立つと、焦ってると思われない程度に全速力でトイレに向かった。


「へーやっぱり効くんだねえ。さって


 さくらがトイレの扉を閉じる音を聞いてから、そう悠人は呟いた。


 その後さくらはさりげなく身体を求めてくる悠人を失礼でない程度に拒絶してそそくさと部屋から出て行った。


 さくらは覚悟していた割に、結局拒絶してしまった自分に嫌悪感を抱きながら帰宅したのだった。



☆☆☆


「はいこれ後払い分」


 暗いホテルの一室。

 裸の小太りの男が差し出した数枚の札を小雪が制服を着ながら受け取った。


「ねえねえ、

「何?」

「最近、君の学校で援助交際流行ってるの?」

「……知らない。あたしはソロでやってるから」

「そうなんだ」


 小雪は、という名で売春をしていた。


 自分以外にも、同じ学校に数人同じように売春をやっていることを小雪は知っていた。きっかけはそれぞれだろうが、小雪は少なくとも、自分には大して理由はないと思っていた。


 さくらに目を付けられて、学校での居場所がなくなり始めた時ぐらいから売春を始めたのは偶然だし、聖女気取りで処女を守る馬鹿女共よりも自分の方が優れていると信じる為にやっているわけではない。


 そう、小雪は自分に言い聞かせていた。


 自分が求められている。こんな貧相な身体で、大して可愛くもない自分でなぜ喜ぶのか不思議だったが、嬉しかった。そうやってずるずると小雪は売春を行うようになった。最初は嫌悪感しかなかったが、それも慣れた。 


 客曰く、身内の紹介が一番らしく安全に女子を買いたい男性に、女子高生や中学生を紹介する斡旋業者がいるらしい。だけど小雪はそれらには警戒して近付かなかった。


「この子、白雪ちゃんと同じ学校って紹介されてるけど……こんな可愛い子がねえ」

「どうでもいいよ」


 男がスマホの画面を小雪に差し出してくる。彼女は何の興味もなかったが、渋々画面を覗いた。


 画面に映っているのは、一人の女子高生だった。今度のイベントの目玉だと大きく表示されてあるので嫌でも目に付く。


 そこには、デート中と思わしき写真や制服の姿の画像、何より大きく表示されていたのは、その子が排泄してる様子の画像だ。


「これ、盗撮?」

「だろうねえ。他は本人の許可あるっぽいけど」

「……あの馬鹿」

「ん?」

「何でもない」


 そこに映っていたのは、紛れもなく日向さくら、その人だった。小雪がそれを確認して舌打ちをした。


 馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だったとは。


「可哀想にねえ。このサイトのイベントってタチ悪い奴らが仕切っててさ。きっとこの子も、もうまっとうな道は歩けないだろうねえ」


 男が悲しそうな声でそう言った。小雪は男の隣に腰掛け、話の続きを促した。

 ただの興味だ。そう自分に言い聞かせながら。


「斡旋業者だっけ?」

「そう。リーダー格の奴がいてね。色んな女の子に声をかけて、付き合ってるフリして写真や動画を集める。そいつの部屋でセックスなんてしちゃったら最悪だね。間違いなく盗撮しているからね」

「なるほど。その写真や動画で脅すわけか」

「そう。そいつの持ってる客ってさ、玄人嫌いが多いんだよ。白雪ちゃんみたいに慣れてる子とかは嫌なんだって」

「ふーん。ところでそのイベントは、いつどこでやるの?」

「え? えーと、明日だね。午後六時から、場所は……あーヴェルゴか」


 ヴェルゴ。それは小雪がよく知る場所だった。そこはこの街の歓楽街にある小さなクラブ。だけど、実態は半グレが仕切るドラッグとセックスの巣窟だ。小雪は何度か客に連れていかれた事があった。確かあそこは、VIP席の裏側に、秘密の出入り口があったはずだ。いざというときに逃げられるように用意してあるのだ。それを自慢げに見せてくれた客がいた。


 小雪の頭を嫌な予想が巡る。


 日向さくらが、なぜこんな明らかに怪しい男に騙されたのか。自分がさくらに向かって言った言葉。まさか、それを気にして、ハルウリに手を出した?


 いや違う。違うに決まってる。現にさくらは動画を盗撮されて、脅されてこのイベントに参加するのだろう。


 自分には、関係ない。


 だが関係ないと思い込むほど、小雪は嫌な気持ちになっていった。なんだか自分のを穢されたような気分だ。


「あのさ、次の分無料にするからさ、ちょっと手伝って欲しいんだけど」


 さくらに対し、そんな感情を抱いていた自分に戸惑いつつ小雪は男にとあるお願いをした。


☆☆☆



 どうしてこうなった。私は、何を間違えた。


 日向さくらが、ここに来るまでの間に幾度となく反芻したが、答えは一つだった。


 私が、どうしようもなく馬鹿だった。

 ただそれだけだった。


 さくらは、怯えと共に怒りがこみ上げてくるのが分かった。殴られた腹部の鈍痛すらも怒りに変わっていく。


 悠人の部屋に行った数日後の今日。お昼頃に悠人から呼び出しがあった。ノコノコと学校が終わって向かった先にいたのは悠人だけではなかった。


「なあ味見していいか?」

「黙れ。俺がどんだけ苦労したと思ってる?」


 悠人は、まるで別人のようだった。周りには、明らかに関わりを持ってはいけない雰囲気の男が数人いた。


「悠人……さん?」

「よおさくら。いやあほんと苦労したぜ。お前警戒しすぎ。まあいいや。ほれ、これ見てみ」


 口調も変わった悠人がさくらに見せたのはこれまで彼がデート中に撮った写真と、さくらがトイレで排泄している動画だった。


 それは複数の角度からさくらを映しており、一部の角度からはさくらの秘部が丸見えだった。


 着ている服を見れば、それがあのデートの夜に撮られたのだと分かった。どう見ても悠人の部屋のトイレだった。


「! なにこれ! なんでこんなの!」

「さくらちゃーん。とりあえずこいつを、SNSで拡散されたくなけりゃ……分かるよね? だからさ、ちょっとやろうや、援交。あー君らの学校では“ハルウリ”だっけ?」

「嫌!」

「おい、やれ」


 さくらは抵抗したが、無駄だった。気絶するまで殴られ、気付けばこの暗い部屋の中にいた。


 逃げるしかない。でもどうやって?

 部屋の出入り口には、見張りはいない。暗いからよく見えないが、部屋の中には大きなテーブルとソファが置いてあった。テーブルの上を見ると、シャンパンやグラスとは別におぞましい道具が無造作に放置されている。


 私は、ここで何をされるんだ?


 逃げないと。焦りで喉が渇く。


 くそ、冷静になれ、冷静になれ!


 さくらが冷静になろうとするほど、絶望的状況である事を理解してしまう。


 突然扉が開き、暗闇に光が差し込む。


「おい、お前!」


 男が低い声でさくらを指さした。その顔には欲望を丸出しにした表情が浮かんでいる。その男は先ほど悠人と一緒にいた男で、一番多くさくらを殴った男だ。


「リーダーはああいうがな。俺が数発ぐらいヤってもバレやしねえ」


 怖い。先ほどの暴力がさくらの足を竦ませた。

 動けず震えるさくらの手を男が掴んだ。


「大人しくしろよ!」


 男がさくらをソファに押し倒す。その瞬間にスイッチが入ったようにさくらは暴れるが、体重差、筋力の差で男に圧倒される。


「おらあ!」


 男が拳を上げてさくらへと振り下ろそうとした瞬間。


「ゲスが」


 いつの間にか男の背後に立っていた影がそう呟き、持っていたシャンパンの瓶を思いっきり男のこめかみへと振り抜いた。


「ぐわぁ!」


 鈍い音と瓶の割れる音が響く。シャンパンが飛び散り、炭酸が弾ける。

 

 気絶した男が、そのままどさりと床へと落ちた。シャンパンでびしょびしょになったさくらが目を白黒させていた。


 たす……かった?


 状況が把握できない。


 すると、扉の方から喧噪が聞こえた。


「おい! 警察が来てるぞ!」

「逃げるぞ!」

「女は!?」

「ほっとけ!」


 バタバタと走る音が聞こえる。


「急げ、愚図!」


 いまだ、ソファに倒れたままのさくらの手を掴んだのは細く小さな手だった。

 思ったよりも強い力で引っ張られて起き上がったさくらの目の前には、


 小雪がいた。


「灰川……小雪? なんで」

「うるさい! 警察に捕まりたくないならさっさと逃げるぞ!」


 小雪がさくらの手を引っ張ったまま、扉とは反対方向へと向かう。


「待って! 扉はそっちじゃない!」

「分かってるよ! いいからこい!」


 小雪がソファを越えて、扉とは反対側の壁に向かう。そこには棚しかない。


 小雪が、棚の左下の引き出しを抜いた。


「あんた無駄に力あるでしょ! この棚引っ張って!」

「なんで私が!」

「いいからやれ!」


 怒鳴り合いながらも、さくらが抜かれた引き出しの空間を起点に棚を引っ張った。すると、少しずつだが、棚が内開きのドアのように開いていく。奥には通路があった。


「隠し扉!?」

「外に繋がっているから! 早く!」


 小雪がさくらの手を掴み、通路を走り抜け外へと繋がる鉄扉を開けると、そこはビルの非常階段口だった。


「さっさと降りろ!」


 小雪が怒鳴り、さくらのお尻を蹴飛ばした。


「分かってる!」


 二人が階段を二つ飛ばしで降りていく。


「待って! 誰かいる! 無理よ!」

「いいからいけ!」


 階段の終着点。ビルと道路の間に一人の小太りした男が立っていた。


「白雪ちゃん! 早く! 警察がもう突入してる!」


 男がこちらに気付くと、大声を上げた。


「知り合い!?」

「ただの客!」


 最後の階段を大きくジャンプ。着地と同時に地面を蹴って、そのまま狭い道路を駆ける。小雪もさくらも繋いでいる手を離さなかった。


「白雪ちゃん、ちょ、ちょっと待って! おいてかないで!」


 男も転がるように二人を追いかけたが、結局彼が二人に追い付く事はなかった。





「はあ……はあ……逃げ切れた……かな?」

「多分」


 歓楽街から少し離れた小さな公園。

 二人は手を繋いだまま、ベンチに座っていた。


「なんで」


 さくらがそれだけを小雪に向けて言った。


「たまたま、あんたが厄介な事に巻き込まれている事を知った。あのクラブは何度も行ったし、隠し扉の事も知っていた。それだけ」

「なんで……なんで私を助けたの?」


 小雪がぎゅっとさくらの手を握った。


「あんたが嫌いだ。この世で一番嫌いだ。傲慢で、あたしの持っていない物をいっぱい持ってて」

「……」

「あたしはね、自分も嫌いなの。可愛くないし、スタイルも悪い。だけどね、だからこそあたしは綺麗な物や美しい物が好きなの」


 小雪の声は震えていた。彼女が思い出すのは、初めてさくらと出会った時の事だ。


「あんたは、綺麗だ! 初めて会った時にあたしは感動したんだ! こんなに綺麗な人がいるんだって!」


 小雪が叫ぶ。


「嫌なんだよ! あんたみたいな綺麗なのが、あたしのいる底辺に来るのが! しかもあたしのせいで! あんたはあたしと違ってもっと綺麗で高いところで留まっていればいいんだ! こっち来んなよ! 馬鹿! ブス!」


 いつの間にか泣きながら小雪がさくらの胸を叩いた。


 さくらは、自分を助けてくれた小雪の小ささに、今更気付いた。


「ごめん……助けてくれてありがとう。私馬鹿だった」

「馬鹿だよ……」

「うん」


 さくらが優しく、小雪を抱きしめた。


 空が白けるまで、いつまでも二人はそうしていた。



☆☆☆



「ざまあ。あの糞共全員捕まったってよ」


 昼休み。学校の中庭で二人の女生徒が桜の木の下のベンチに座り会話をしていた。


「うちの生徒も関連して数人補導されたらしいね。小雪は大丈夫なの?」

「もう売春は止めた」

「そっか」

「やる必要性もなくなったし。そういやさくら、彼氏は出来た?」

「せっかくアドバイス貰ったけど、今はいいかな」

「なんで?」 

「秘密」


 まるで正反対な二人だが、パズルのピースの如くピタリとはまった二人が囁き合う。まるで友達のように、まるで恋人のように。


 桜は満開。春を売らずともそこには申し分ないほどに春があった。

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