旅立つ少女 Ⅱ
暗闇に突如生まれた波紋が、ゆらゆらと洗い流すように広がりながら黒を薄めていた。程なくして一面の灰色となった景色は、沸騰したお湯みたいにボコボコと泡を立て始め、破裂した飛沫にかかった場所からいくつもの色が生まれていった。白、青、黄色……それらはやがて青白い空と緑の草原に変わり、どこか懐かしい匂いを運んできた。
前髪をなびかせた暖かい微風が、いざなうように、その目を開かせる。
気づけば、見渡す限りの草原を二本足で眺めていた。何のチューブも繋いでいない身体は別人のように軽く、咳き込むことなく呼吸ができる。鼻腔をすーっと通り抜けていく空気は、気道がピカピカになりそうなくらい心地よい。
草原を走る黒いさざなみに乗って、明るい音楽が聴こえてきた。大好きだったアイドルグループの曲。その声と音が鮮明に近づいてくる。振り返ると、華やかな衣装に包まれた憧れのアイドルたちが踊っていた。
センターの子が、指揮棒のようなものを振った。するとパジャマは光に包まれ、たちまち同じ衣装に変わった。キミも私たちの一員。そんな笑みを浮かべた彼女たちに手を引かれ、何度も何度も頭の中で描いたダンスをともに奏でる。身体が羽のように軽い。ちっとも苦しくない。今にも飛べそうなくらい、自由と解放を感じる。
気づけば、浮いていた。翼もないのに、身体は願ったところへと進んでくれる。アイドルたちに手を引かれ、病室の窓から見上げた飛行機雲みたいに、快晴の空を気持ちよく切り裂いていく。海に浮かぶってこういう気分なのだろうか、バイクで走るってこんな感じなのだろうか。
いくつもの空を横切って見えてきたのは、絵本に出てきたお菓子の城。芝の広がる庭では、童話に出てくる小人たちが陽気にバーベキューをしていた。食べられなくなったタコさんウインナーに、醤油とバターをたっぷり塗った焼きとうもろこし。テレビの中にしかなかった霜降り肉に、名前も知らない高級魚。貝、イカ、ソースたっぷりの焼きそば……。
苦しかった日々を忘れてしまうくらいに、素敵な光景。好きなものしか存在しない世界。何度も何度も渇望し、夢みたものが、いま、とうとう、自分の目の前に ── 。
「お母さん……?」
唯一、足りないもの。それは母親。母の姿だけが、どこにも見つからない。その瞬間、好きなものが泥のように溶け落ち、灰色に戻っていった。
一面の灰色の中で、少女は駆けた。何かを見つけるようで、それでいて何かに追われるみたいに。
そのうち、足がうまく進まなくなった。いくら念じても飛べなくなった。息がどんどん苦しくなって、身体は鉛を飲み込んだみたいに重くなる。これじゃ、今までと同じ。苦しい、嫌だ、苦しい苦しい。
" ナナ "
聞き慣れた声に振り向くと、母の姿を見つけた。オシャレからは程遠いセール品の服装に化粧気の少ない顔は、普段の彼女そのもの。いつも健気に笑ってくれる、現実の、大好きな母。その優しい手に包まれようと、重い身体を引きずっていく。あともう少し、そんなとき ── 。
黒い靄が、母をたちまち呑み込んだ。
真っ黒に染めて、その笑みも、手も、彼女のすべてを闇に取り込んだ。
闇がどこかへと去り、母の存在がなくなると、灰色の世界はまた、自分の好きなものだけをそこに映した。景色も、匂いも、音も感触も、自分の好きなものだけ。
ただ、母だけがいない世界。
そのとき、気づいた。なぜ母だけが、ここにいないのか。なぜ母だけが、闇に呑まれてしまったのか。
恐る恐る空を仰ぐと、快晴は見えなかった。頭上にあったのは、黒い靄。もくもくと増え続けるそれは、己の肩から、口から、瞳から生まれていた。
病とはまた異なる胸の締め付けに、これまで知らなかった感情が喉元まで込み上げ、まもなく嗚咽となって漏れた。その苦しみに、切なさに、瞳が余儀なく溺れていく。痛みをまったく感じなくなるほどの悲しみが、呻き声となって、好きなものに囲まれた世界に響き渡る。
そんな少女の心の隙間に、闇は根を伸ばすのだ。そして、映し出す。黒い靄が、どうやって彼女の中に息づいたのかを。
そこには葛藤があった。言葉にできないその苦しみは、母親への愛情から生まれていた。感謝から生まれたものだった。女手一つで自分を育て、寝る間も惜しんで治療費を捻出し、そんな疲労を一切浮かべずに毎日顔を出しに来てくれる母への、感謝と、申し訳なさ……そして、痛いの一言も言えない、もどかしさ。
元気に動ける同級生。自分だけが社会から取り残されていく疎外感。やがてぷっつりと断ち切られる恐怖。怖いと叫んで、泣きじゃくって、どうしてこんな身体に産んだのだと嘆きたいほどの苦しみ。
けれど、言えない。そんなことを言えば、どうなるか分かるから。自分以上に頑張って、苦しんでいる母に、そんなことはできない。
だから、辛い。
自分の中だけに留めておけないのに、外に出せない。だから、見たくなくなる。目をそらす。そこにいつしか闇が詰め寄り、水を吸った紙のごとく、広がっていく。
やがてそこから生まれてくるのだ。何もかもを黒く染め上げる、黒い靄が。
目覚めても、ナナは泣き続けた。佐々木の左手を握ったまま、どうすればよいのか分からずに。
「ナナ」
佐々木はこれまで、ありとあらゆる憎しみと悲しみに触れてきた。黒い靄が生まれてきた経緯を、数えきれないほど " みて " きた。
そんな彼でも、答えだけは分からない。どれだけ自他の苦しみに触れても、その輪郭すら掴めない。いつだって霧の中で、リコやフクシ、彼の父の声にすがって闇雲に走り回るだけ。
それでも、人は、何かしらの道を選ばなければならない。立ち止まっていたら何も変わらないことを、彼は知っているから。
「いいか、ナナ。我慢するのは偉いことだ。お母さんを気遣うこともな。でもな、ナナがこのまま死んじゃったら、きっとお母さんは救われないんだ。どこにも行けなくなるんだ。そして、それはナナも同じなんだよ」
涙が止めどなくあふれる。
世界は苦しみにあふれている。
「苦しいって、生きてるってことなんだ。怖いって、一緒にいたいってことなんだ。悲しみや涙ってのは、それを大切な人に伝えるために生まれるものなんだ。悪いことなんて一つもないんだよ」
すがるように、佐々木の左手を掴む。悪魔のように綺麗で、天使のように残酷な手。美しいものは怖くて、優しいものは無情だ。苦しみが生である、この世の仕組みと同じように。
「……い」
怖くてたまらない。生きることも、死ぬことも。
「怖いよ」
「大丈夫だよ」
いつだって、誰かにできることなんて限られている。だがそのできることは、たとえちっぽけなことでも、他人からは何の意味もないように見えても、代わりのきかない、かけがえのないものだ。
この世に生まれた一つ一つの命が、そうであるべくように。
「何も心配いらない。ナナの未来は大好きなものであふれてるんだから」
ただそこに産み落とされ、有って、無くなっていくだけの存在なら、知識とか思想、想いや心なんてものは邪魔でしかないでしょう。利害だけを優先し、ロジックのみを尊重し、反対因子はただただ除外する……。穴を掘って埋めるほうがまだ建設的だ。
そんなことを、学生のときに四人で語り合ったことをリコたちは覚えている。当時もそれぞれが何かしらを抱えて、それでもひたむきに前を向き、心から笑い合ってた。やがてそれぞれの事情で離れ、それぞれの苦しみに抗う日々が続くも、またこうして集まり、手を取り合うことができた。そこにすべてが集約しているのかもしれない、とリコは思う。
クリスマスの日、事務所に手紙が届いた。ナナの母親から二人へ。娘に良くしてくれたこと、ずっと励ましてくれたこと、葬儀を手伝ってくれたこと……。
最後の一枚には、娘との話が書かれていた。リコは何度も読み返し、顔を洗ってメイクをきちんとやり直してから、佐々木に渡した。
『私はずっと後悔していました。娘を産んで本当に良かったのか。丈夫な子に産んでやれなくて、こんな残酷な世界に産み落としてしまって、ナナに恨まれていなかっただろうか。私なんかが母親で、ナナは幸せだったのだろうかと。
けれどあの日、リコたちが来てくれたあの日に、私たちは親子になれたのです。本当の母と娘になることができたのです。
ナナは私にたくさん話してくれました。たくさんの想いを私にぶつけてくれました。そして、私のことを大好きだと言ってくれました。私はとても救われた気持ちになりました。
正直、ナナが何のために生きて、何のために死ななければならなかったのか、私にはまだ理解できません。けれど、あの子を産んで良かったと思っています。あの子と暮らせて、共に生きてきたことを幸せに思います。誇りにさえ思えるのです。ようやく。今になって……。
ねぇ、リコ。私たちはなぜ生きているのでしょう?
私たちは何のために生まれてきたのでしょう?
いつか、その答えが分かる日が来るといいですね。うん……その日が来ることを私は望んでいます。これからも、ちゃんと生きて。
悲しみはずっと影のようにそばにあります。それはこの先決してなくなるものではないのでしょう。だけど、私はこれからも生きていくつもりです。上手く言えないけど、そうしなくちゃいけない気がするから。しっかりと前を向いて歩いて行かないと、ナナに会えなくなる気がするから……。
おかしいですね、私もそう思います。神様なんていないと信じて生きてきたのに、今はその存在を強く願っている。ホント……人間ってのはよく分かりませんね。でも、私はきっと強くなったと思います。そして、それはあなたがいてくれたからです。リコ、本当にありがとう。ナナの分までお礼を言わせて下さい。ありがとう。カッコいいケイ兄ちゃんにもどうか伝えて下さいね』
夕陽に濡れる街道から音楽が聴こえてきた。クリスマスの歌。死は冬を好み、人々は黄昏に酔う。
「 ── ケイちゃんにもあんな一面があったんだね」
「あん?」
「ナナちゃんと話してたケイちゃん、とっても素敵だった」
「少女の日記と中坊の自慰を覗くのは大罪だって法学部で教わらなかったのか? アラサー男子には絶対に見られたくないことが山程あるってのに」
「いいじゃん。普段よりもずっとカッコ良かったよ」
「いくらか分不相応じゃなかったですかね」
「ううん、まったく」
黄昏に影をつくる幼なじみは、いま、何を考えているのか。 " みれ " ば分かるかもしれないけれど、佐々木は絶対に " みよう " とはしない。
「ナナちゃん、天国着いたかな?」
「天国ねえ……ま、地獄とは呼べないだろな」
「ケイちゃんは信じてないの、天国?」
「信じるってのは宗教の考え方。哲学ってのは疑うことだ」
「ひねくれてますねー」
「だろ」
「私たちはどこに行くのかな?」
「少なくとも、あいつのような綺麗な世界でないことはたしかだな」
「でも三人一緒なら面白くない?」
「フクちゃんだけはもっとマシな世界に行けるんじゃねーかな」
「そのときはこっちに引きずり込んじゃおうよ」
「ははっ、ひでー女」
人類が誕生してこれまで、さまざまな文化や思想が生まれては、人々の心に根づいた。
それらは何のために生まれたのだろう。
なぜ、この世に生まれなければならなかったのだろう。
思想のぶんだけ死後の世界が生まれたのはなぜだろう。
答えはきっと、人の数と同じくらい、千差万別。世界にはたくさんの宗教があって、名前の数だけ思想があって、人の数だけ想いがある。
同じものは一つとしてない。
だけど、通じるものはある。
なぜ死を考えるのか。それはきっと、いまを大切にするためなのだ。かけがえのないその瞬間を噛み締めて生きるために。無慈悲を無慈悲のまま終わらせないために。
その想いだけは、きっと、どんな教えに代わろうとも、変わらない。きっと。
命は何のために存在しうるのか。生はこの世に何をもたらし、死は何を意味するのか。
答えが見つからないから、人は苦しみ、もがき、懸命にあがく。そして、伝わっていく。そうやって綴られていく物語が、それぞれの想いが、いつかやがて、答えになってくれることを、願いながら。
「 ── でも、地獄に落ちる前にやることがあるな」
「うん」
「手掛かりは?」
「まったく」
「フクちゃんのほうも?」
「進展なし。願わくは、どっかでくたばってないことを祈るわ」
「ちゃんと生きててもらわないと、地獄 " みせて " やれねーもんな」
神の左手 END
神の左手 跳ね馬 @haneuma1228
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