旅立つ少女 Ⅰ



 ある者は叫んだ。罪に対し、罰が正当に行使されることこそが、正義なのだと。

 ある者は叫んだ。我々は、生きている間にこそ、罰を受けねばならないと。

 ある者は叫んだ。無慈悲を無慈悲で終わらせないことこそが、生ある者の努めなのだと。



 少女がこの世を旅立ったのは、街道に置かれたクリスマスツリーの装飾が鮮やかになってきた頃。死はいつも、冬を好む。

 その日佐々木は髪を切ってもらっていた。ハサミを持つのは事務員の横峯アイ。面接時、面白半分に参加していたアラサー男子から皮肉たっぷりな質問を数々浴びせられるも、持ち前の愛嬌と利発さでことごとく捌ききったところをリコに気に入られ、まだ大学生にも関わらず正社員ばりの厚待遇で採用された。器量は良いがつかみどころのない人間で、髪型や化粧には遊び心があるのに服装はデニムにパーカーの組み合わせばかり。小柄でも物怖じせず、おおらかな性格とは裏腹に手先が器用だ。佐々木からの雑用にはお駄賃目当てで快く応じている。

「 ── 佐々木さんって、ホント髪長いの苦手ですよね。前から言ってますけど、ショートばっかじゃ飽きません? ミディアムやロングも似合うと思うけどなー」

「分不相応こそもっとも無意味、なんて言葉を知ってるか? ある哲学者の持論だがな、幸福ってのは己に適したノルマをこなしてるかどうからしい。快便には腹八分目が理想的、と同じ理屈だな。ノルマが多すぎたらパンクしちまうし、足りなかったら他人の悪口に勤しんじまう。毎朝鏡の前で髪型を考えるってルーティンは俺のキャパシティを大きく侵害しちまうのさ」

「でも、オシャレは元気に代えられますよ」

「何をガソリンに代えるかは人それぞれさ。ニンジンを吊るされた馬が鼻息を荒くするみたいに、諭吉さん欲しさに髪を切ってくれる女子大生もいる」

「佐々木さんのガソリンって何ですか?」

「そんな馬やJDの奔走をワイングラス片手に眺めることかな。フィッシングが太古の昔から流行り続けてるのはなぜだと思う? 他者を操るってのはあらゆる生物の悲願だからだよ、キミぃ。きっと催眠術ってのも水面下ではちゃんと認知されてて、実証実験が繰り返されていることだろうさ。幽霊や地底人のようにオカルト扱いされてるのは、ガチでヤバい技術だからだ」

「あはは。そんなの研究しなくても、諭吉さんの力があれば大概のことは何とかなるんじゃないかなー? 現に私もそうされてるし」

「ロジカルシンキングのみで形成される社会なんて、融通の利かない判事の妄想世界か三流劇団の脚本くらいにしか存在しないよ。理論と感情はたびたび衝突するもんさ。ダイエット中にショートケーキが食いたくなったり、思い出と現在が解り合えないようにな。特に社会から見放されてるアラサー独身男子にとっちゃ、ロマンがロジック(お金)を上回ることも珍しくないのだよ」

「相変わらずの佐々木節ですねー。講義の何倍もユーモアたっぷり。なんだかお腹が空いてきちゃう」

「頭にブラックと付けない気遣いがお前の長所だな。そういや卒業できそうなん?」

「たぶん。できてもできなくても、変わらずお願いしますねー」

「俺が言うのも何だが、なかなかの変人だよなお前も」

「だってここ条件良いし。リコさんは好きだし佐々木さんは面白いし……っと、出来ました。どうです?」

 鏡を覗くといつも通りの仕上がり。前髪は眉の上、横と後ろは耳や襟にかぶらない長さ。

「さんきゅ。やっぱお前器用だわ」と佐々木は諭吉さんを一枚渡した。

「毎度ありです」

「そういや所長は?」

「佐々木さんが来る前に出掛けました。ここんとこずーっと忙しくしてますよねー」

「年末に繁忙期が重なるのは、やっぱ色々と清算して新しい年を迎えたいって心理なんかね」

「あ、でも仕事じゃないかも。書類の数とか増えてないし」

「じゃあどこ行ってんだ?」

「男のとこだったりして」

「それならそれである意味健全なんだが、あの低血圧が朝から股を開くとは考えにくいな」

「私も夜派だなー。感覚的な意見だけど、なんか昼間にしちゃうと時間損した気になりません? 連休中ならまだしも」

「それも学生のうちだろ。オバサンにゃあそんな面倒で体力の使う ── 」

「だーれがオバサンだって?」

 振り返ればリコがいた。佐々木はすかさず執事的な振る舞いで対応する。

「これはこれはお姫様、お早いお帰りで」

「ほっぺをつねられるのと私の言うこと聞くの、どっちがいい?」

「つねった上に言うこと聞かせるのが綾坂リコでしょ。ご用件は?」

 リコは財布から諭吉さんを一枚取り出しアイに渡した。

「ちょっと付き合って。アイちゃんはこれで好きなの出前取って、今日のぶんが終わったら先に上がっていいわ。戸締まりよろしくね」

 快諾したアイは、からかうように佐々木にこう耳打ちした。

「佐々木さん、頑張って」

「親指を人差し指と中指の間から出すな。独身だからってそこまで盛ってねーよ所長も俺も」

 外にはタクシーが停まっていた。メーターはすでに一万を超えている。

「この運ちゃん敬語使えんの?」

「いいから、さっさとベルト締めて」

 幼なじみという間柄は、ある部分だけを見れば夫婦よりも密接だ。身体を重ねなくとも分かってしまうことがいくつかある。

 リコがいつもと違うことも、佐々木には分かる。そんなとき彼は何も聞かず、寝たふりをしたり、窓から興味の無い景色を眺めたりする。彼女から話してくれるまで、地蔵のようにそばにいるだけ。

 そんな佐々木だから、リコは好きなときに八つ当たりできて、泣き顔を見せずにすむ。悲しいことにも打ちのめされずにいられる。

 やがてリコは気持ちを整えるようなため息をついてから、こんな話を始めた。

「前にした友達の話、覚えてる? 私が大学の頃にツルんでた奴らの」

「検事と弁護士の話なら。どっちが田島で鈴木だったかは忘れたけど」

「田島が弁護士で鈴木が検事。実際は他にもう一人いてね、その子は中退しちゃったんだけど、その後も時々連絡取ったりしてたの」

「その人が依頼人?」

 交差点を三つ越えるまで、幼なじみ的な沈黙が二人の間に腰を下ろしていた。

「ケイちゃん」

「ん」

「フクちゃんのお父さんに言われたこと、覚えてるよね」


 "ケイがその力をもって生まれてきたのは、ケイでなければならない理由があったからだ。僕たち人間が、翼を持たずに生まれてきたのと同じように"


 佐々木は顔色一つ変えずに即答した。

「カニの身を綺麗に剥ぎ取る方法を忘れちまっても、それだけは絶対に忘れねーよ」

 リコはおもむろに佐々木の手を取ると、正面を向け、包むように両手を重ねた。

「ケイちゃん、お願い。今が、その理由を示すときなの。私にできることなら何でもするから、力をかして」

 数年に一度見れるかどうかの、幼なじみの真顔。己の尊重するもののためなら、何をも差し出してもかまわないという強い意思を、決してぶれることのない光点として瞳に宿らせる。

 その眼差しに見つめられなくても、佐々木の答えは決まっている。彼の尊重するものは、すぐ目の前にあるのだから。

「状況はさっぱり呑み込めんが、そんな水くせー頼み方だけはやめてくれ。首を吊りたくなっちまう」

「ごめん、わかった、ありがとう。その子を助けて」

「了解、ボス」



 命は何のために存在しうるのか。

 生はこの世に何をもたらし、死は何を意味するのか。

 それを知ったからといって、時の流れは変わらない。翌日口にするチェーン店の牛丼の味も、枝についた葉が枯れ、やがて風に飛ばされる運命も。

 だがそれを見出だすことは、生ある者の努めであるはずだと、リコは思う。

 友達だから、という理由は、本当は後付けだったのかもしれない。リコはただ、それを知りたがっていた。ずっと探し求めていた。探偵という、一見奇怪に思える仕事を選んだのも、そんな動機が少なからず影響したのだろう。

 人はたびたび、見失ってしまうものだ。己の立ち位置、進む場所、守るべき存在を。悲しみはそれを曇らせ、憎しみがそれを歪ませる。

 やがてそこから、黒い靄が生まれる。

 無慈悲を無慈悲のまま終わらせちゃいけない。友の娘を、そして友を助けてくれと言った幼なじみは、そんな意志をさざ波のように瞳に浮かべて、その想い瞳を潤ませていた。



 病院に着いたタクシーは男女を降ろし、また国道の往来へと消えていった。女は友人たちの寄り添うところへ。男は一人、病室へ。

 エアコンの風が、クリーム色のカーテンをゆらゆら揺らしていた。応じて動く影と日差しは、まるで死神と天使のフォークダンスのように残酷で色鮮やかだ。ベッドに仰向けに横たわるは、十歳前後の少女。背となる壁には絵や同級生との写真がセロハンテープで貼られている。

 花柄のパジャマが重そうに見えるほど細い腕に、耳まで隠すニット帽。鼻には酸素カニューラが、指にはパルスオキシメーターがサイドモニターに繋がって心拍の音を鳴らす。

 己の命を左右するこの音を、いつしか少女は憎んでいた。これまでの人生と同じように、このあたたかみのない音も、私の願いをちっとも聞き入れてくれない。ゆっくりになってほしいときも、止まってくれと歯を食い縛ったときも、いつだって。

 もう、十分だった。十分抗ったし、十分打ちのめされた。もうこれ以上、生み出せる痛みも悲しみもない。

 だから、もう、解放してくれ。

 そんな思いで、モニターに渇いた目を向ける。消える前にふっと燃え上がる蝋燭みたいに、今日は憎たらしいほど状態が良い。気紛れに弾む鼓動に、心底うんざりする。調子が良いときも苦しいときも、心が願うのは終わりだけ。振り返れば私の人生はずっとこんな感じだったな、と皮肉たっぷりに噴き出す。

「こんにちは」

 聞き慣れないノックと男の声に、心拍がわずかにぶれた。横開きの扉の隙間から顔を出した佐々木を見るや、たちまち鼓動が早まる。けれど発作と違って苦しいものではない。むしろ久しぶりに身体が覚えた、生の実感。

「こんにちは」と佐々木は笑いかけた。

「こ、こんにちは」

「俺はケイ。ナナだよね?」

「は、はい」

「ナナ。綾坂リコさんは知ってる?」

「母さんのお友達」

「俺は彼女の弟みたいなもんでね。友達が一人もいない寂しいアラサーなんだ。少しだけ話し相手になってくれねーかな?」

「ちょ、ちょっと待って」

「気分でも悪い?」

「こんなカッコいい人見たの初めてで……深呼吸させて」

「しまった、俺としたことが。小児科の遊び場から馬の被り物を借りてくるべきだったか」

「それはそれで、ちょっと残念」

「それに変質者ぽいもんな。いきなり馬が二足歩行で現れたらナースコール連打間違いないだろ」

 声を出して笑うと、心拍の音が聞こえなくなる。

「なんの話する?」

「カッパにさせられたか弱い男の話でも聞いてくれるか?」

 時間にして十数分ほど。読書で培われた話術は、ナナの心を和ませ、笑わせ、苦しみを忘れさせた。彼女にとってそれは久しぶりに楽しい時間だったが、佐々木はまったく別の彼女の側面を " みていた " 。それにたまらず胸が締め付けられる。リコが助けてと言った意味が分かる。そして、自分がこの力を持って生まれてきた意味も、少しだけ。

 そんな心情が顔に現れていたのか、ナナは心配そうに見つめていた。佐々木ははぐらかすように笑って、左手の手袋を外した。

「綺麗な手」

「一見はね。でも、実際はひどく汚れてるんだ」

 佐々木の言葉が何となく分かってしまうのは、枕の隣に死が寄り添っていることに気づいているからか。

「触っていい?」

 触れたくなるのは、たぶん、自分でも分かってたから。

 このまま終わったら、ダメなのだと。



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