いじめられた少女 Ⅲ



 この世に生まれて十数年。どれだけ書物を読み漁っても、まだまだ分からないことだらけだ。分からないのは怖くて、答えが見つからないと不安でたまらなくなる。もう、何もかもを投げ出してしまったほうが楽にも思える。それでも ── 。

 それでも今は、ただもう一度だけ、母の声が聞きたい。

 その想いを力に変え、少女は靄を振り払った。細切れになった黒は、完全には消えなかった。宙で四散したものもあれば、再び少女の中に戻っていくものもある。

 闇は消えることはないのだろう、と少女は悟った。

 同時に、この世は決してそれだけで成り立ってはいないということも……。

 涙が止めどなくあふれる。力が抜けていく。中に戻った靄のように、悲しみも消えてはくれない。けれども今は、母の顔がよく思い出せた。その声が、干からびた土に垂らした水のごとく、染々と彼女の深みへ伝っていく。

「健康のありがたみが実感できただろ」

 そして、佐々木の言葉も。少女だけにじゃなく、同級生にも。

「お前らがこれから何年生きれるのかは知らねえが、少なくともアラサー独身男子よりかは可能性に満ちてる」

 黒い靄は、いずれその者の未来までをも黒く染める。けれど、今すぐそうなるわけじゃない。一度染まっても、拭えないわけじゃない。

 靄を生むのは自分自身。大きくするのも、小さくし、減らしていくのも。

 いつだって、誰かができることなんて限られている。佐々木はただ" みせた " だけ。事実を、無慈悲を。でもそれは、目に見えるものだけにとどまらない。見えないからと言って、存在しないわけでもない。想いを証明する方法なんてないのかもしれないけれど、それはたしかに、それぞれの胸に息づいているのだから。

「壊したいならその手で壊せ、作りたいなら勝手に作れ」

 心は、自分自身にだけは嘘をつかない。恐れることなく、ひたむきに、見つめ続けてさえいれば。

「自分の命の使い方は、自分で決めろ」

 少女は泣いた。事務所のときよりも、心から、ただひたすらに。

 ずっと、誰かに言ってもらいたかった。この世がひどく廃れて、どうしようもないことは分かっていたけれど、それでも言ってほしかった。

 それでも、生きる価値はあるのだと。

「……ねぇ ── 」

 母は、そんな世界に、自分を産んでくれたのだと。

「生きる価値って……あるの?」

 ねえよ、そんなもん。

 そう前置きした佐々木は、混じりけの無い微笑を浮かべて、こう続けた。

「だから、自分でつくれ」

 答えなんて、少女には分からなかった。でもようやく、納得できたような気がした。悲しみを受け入れて、ようやく、前に……。

「そのために、命ってのはあるんだろ。抽象的な表現で恐縮だがな、想像には抽象が欠かせないもんさ。いずれ創造に繋げるためにもな」



 数日後。朝からリコはご機嫌斜めだ。低血圧の彼女からすれば珍しいことではないが、なんでも今朝は嫌なタクシー運転手に当たったらしい。

「 ── で、そのオヤジ何て言ったと思う? 最近の若い女は何を勘違いしてるのか知らないがすぐタクシー使いたがるんだよな、なんてぬかしたのよ? もうっ、座席蹴飛ばしてやろうかと思った。若い女が嫌いなら乗せなきゃいい話だし、っていうかお前も給料貰ってる以上プロなんだから愛想笑いの一つでも浮かべながら黙ってハンドル握ってろよって感じじゃない!?」

 読書に集中したい佐々木はうんざり顔だ。

「ちょっとケイちゃん、聞いてんの?」

「んー、何と言うか、若さの定義って難しいよね」

 リコは遠慮なくその頭をひっぱたいた。

「あー腹立つ! こっちは昨日遅くまであちこち飛び回って足が棒になってんだから、たまに出勤でタクシー使ったっていいじゃない! ムッキーッ、一発ひっぱたいとけばよかった! これだからタクシー運転手ってのはろくなのいないって言われんのよ! こういうバカどものせいで真面目にやってる人が苦労すんのよね! あーあ、理不尽って大嫌い!」

「サンドバッグ代わりに幼なじみの頭をひっぱたくのは理不尽にならないんですかね?」

「うっさいなー、さっさとコーヒー入れてよ」

 渋々コーヒーを入れているとノックの音が聞こえた。現れたのはカジュアルな私服姿の少女。ルミだ。ショートになった髪は爽やかで、眼鏡を外したその顔には微塵の影も見当たらない。気恥ずかしそうにもじもじしながらお辞儀する様はまるで別人のようだ。

「よお」

「どうも」

「どうした、サボりか?」

「ちょっと話があって……少し時間いい?」

「助かったよ、ちょうど上司にサンドバッグにされてたとこなんだ。そこ座って一杯やってけ」

「あら、可愛いお客様」とリコも別人のような笑みを浮かべて迎えた。

「浅井ルミと申します。先日佐々木さんに大変お世話になりまして」

 リコは仰々しく口元を手で隠しては、後退りしながら言った。

「お世話って……ケイちゃん、あんたまさか援助 ── 」

「おい、やめろ。条例の厳しいこのご時世、そういうのは冗談でも笑えねーんだよ」

 おかしそうに笑う二人に、やはり女は理解不能だと佐々木は首を傾げた。

 それから佐々木へのちょっかいをいくつか挟んだ後、コーヒーを一口飲み、本題に入った。

「そんで、どうした? その様子じゃ二度目の依頼って感じじゃなさそうだが」

 ルミは分別をつけるかのように姿勢を正し、一つ咳払いをしてから答えた。

「北海道に引っ越すことになったから、その前に挨拶をと思って」

「転校にしちゃずいぶん遠くを選んだな」

「パパがね……ママもそうだったみたいなんだけど、還暦になったら北海道に広い土地を買って、そこでのんびり畑を耕したり馬の世話をするのが夢だったらしいの。あの後、一緒にお墓参りに行ったときにパパが話してくれて……」

 生き方を変えようと思った今でも、哀しみはまだそこにある。

「あれからパパと話したんだ。語り合ったと言えるほどお互い本音は出せてないけど……なんて言うか、初めてだったんだ。あの日から、ようやく初めて、二人でちゃんと、ママのことを考えられた。きっと……それが私たちに一番必要なことだったんだと思う」

 悲しみは決して消えることはない。

 けれど人は、癒すことができる。あの靄もまた、きっと。

「今でも悲しい。きっとこれからも、ふと辛くなって、泣いちゃったり許せなくなることもあると思う。でも、上手く言えないけど、それでもいいのかなって思えるようになれた。答えは見つからなくても、さ」

「赤ん坊の仕事は無責任に泣くことだ。中坊のお前もそれなりに甘えればいいさ」

 ルミは微笑んで、鮮やかな包装紙に包まれた一枚を差し出した。

「ねえ」

「ん」

「神様っていると思う?」

 真面目な、けれど他意の見当たらない少女の質問に、佐々木はずるい大人の返答をした。

「お前はどう思う?」

「分かんない。でも、パスカルにベットする気にはまだなれない」

「それが健全だよ、お嬢さん」

 ルミは佐々木の頬にキスをすると、次の言葉を残し、笑顔で去っていった。

「じゃあね、ラプラスの悪魔さん」


 この世は、無価値だ。もともと価値なんてない。

 だから、見つけるのだ。自分で、つくるのだ。死にも、不条理にも、何物にも侵害されることのない、大切なものを。

 心に一本の固い軸を埋めて、しっかりと握り、生きていく。いつか、本当の答えを見つけられる、そのときまで……。

「 ── ねえ、ケイちゃん」

「んー?」

「ラクロスの悪魔ってなーに?」

「ラプラスな。スポーツの特待生じゃないんだから」

 伊勢丹の包装紙に包まれていたのは、葉書サイズのポストカード。

 ひらがな五文字が記入されたそれを、いつか誰かに渡したいと佐々木は思い、丁寧に包み直した。






『旅立つ少女』に続く。

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