いじめられた少女 Ⅱ
人は、さまざまなものに妥協して生きている。妥協できるのは、他に価値を感じれるものを持っているから。
少女には、それがなかった。ニヒリズムに触れたから、そうなったのではない。持っていなかったから、ニヒリズムを受け入れた。否定するための、価値のあるものを、見出だせなかったから……。
中学に上がる前、少女の母親は、何十万人に一人の確率の病に侵された。昏倒から心拍停止まで秋空のごとき早さだったから、心の準備も何もなかった。まるで石ころのように、じっと、枝から落ちる実を眺めていなくてはならなかった。
少女は、ただ、知りたかった。納得したかった。なぜ母なのか。なぜ、母が選ばれ、自分がいじめられるのかを。
バカバカしいニュースが耳に入るたびに、疑問が込み上げた。世界の中心気取りの芸能人たちがくだらないことで騒ぐたびに、疑問に圧迫された。裏で好き勝手やっているアイドルに熱中する同級生や、生徒のスカートの中身に執着する教師が目に入るたびに、腸が焼けただれそうになった。なぜ母なのか。なぜ私なのか。なぜ、他の愚かな者たちではいけなかったのか。
それは、どういう基準で決められているの?
ママは何かいけないことをしたの?
私がダメな娘だったから?
何が原因だったの?
それとも、理由なんてなかったの?
なら、なぜママが選ばれたの?
酷い人なんてたくさんいるのに。死んだほうがいい人間、死にたがってる人間なんかこの世にたくさんいるのに。
どうして、私のママでなければならなかったの?
誰も、その答えを教えてはくれなかった。憔悴した父は、現実から目をそらすみたいに仕事にのめり込んだ。世の中は理不尽なんだ。そんな一言さえくれなかった父の気持ちは、分からなくなかった。きっと、自分と同じように、納得できていないのだと感じたから。
感情には段階という柵が必要だ。人は突然大切なものを失うと、哀しむことさえできなくなる。歯車のズレた時計が止まってしまうように、母を欠いた父子も、何かが壊れてしまった。崖へと蹴飛ばされた石ころのような気持ちで、世の中を眺めざるを得なかった。
ぐちゃぐちゃ。
世界は醜く、卑しい。
無価値なガラクタが、同じところを、ぐるぐるぐるぐる回ってるだけ。
世界はおぞましく、欺瞞に満ちている。見るに耐えない。だから視力は落ちていく。目は開かない。闇が押し寄せても、払おうなんて思わなくなる。
ただ、それでも ── 。
「おい」
佐々木の声にハッと顔を上げると、すでにカラオケ店の前にいた。
「もう一度聞くけど、クロだった場合、ホントにやっていいんだな?」
じっと佐々木を見つめてから、こくりと頷く。苦しくてどうしようもないのに、それでも彼女は、答えを求めてしまう。
きっと、分かってるからだ。答えを見つけなければ、自分は、どこへも行けないんだって。そしてこの人は、何かしらの答えを教えてくれるはずだ、と。
佐々木は、そんな少女を " みていた " 。常日頃読書を嗜み、多くの憎しみと悲しみに触れてきた彼なら、さぞや適切な助言を与えられることだろう。
だがそんな言葉にいったい何の価値がある、と佐々木は考える。このご時世は、何をするのではなく、誰がやるかが重要なんだ。俺が言うんじゃない、こいつが気づかなければ意味がないのだ、と。
そして、いつだって誰かができることなんて限られている。為すようにならないで成るようになるのが、この世界。佐々木に出来ることは " みせる " ことだけ。少女が何をどうしていくのかは、彼女次第だ。
イケメンの親戚を連れていく。そんなメッセージを事前に受け取っていた三人の同級生は、佐々木の出現に黄色い声を上げた。何を勘違いしたのか、しきりと脇の臭いを確かめる者までいる。
ロリコンとは一生友達になれそうにないな、と佐々木は苦笑いしながら手袋を外し、少女に好まれそうな営業スマイルを振り撒いた。
「こんちはー。ちょっと時間貰えるかな?」
少し頭を働かせれば警戒心は生まれそうなものだが、他人の金で豪遊するのを日常としている女子中学生には難しかった。すぐにマイクを放り出しては、佐々木へと目をキラキラさせる。
「ちょっとみてもらいたいものがあってねえ」
「え、なになにー?」
「地獄」
左の人差し指で、それぞれの額を押すように触れていく。斜め上を向いた同級生たちは、たちまち必死の形相で叫び声を上げた。一人は床でのたうち回り、一人は爪がバラバラになるほど壁をひっかき、一人はスズメバチの大群でも払うかのようにテーブルに並んだ料理をぶちまけた。恐怖と激痛に溶けた悲鳴、あまりの錯乱ぶりに、依頼人である少女も青い顔を隠せない。
「おい ── 」
そんな彼女に佐々木が声をかけた。いつだって、誰かが出来ることなんて限られている。
「抽象的な答えが嫌いなんだろ、お嬢さん」
「……え?」
「出血大サービスだ。お前にも " みせて " やる」
抵抗する間もなく左手に頭を掴まれては、たちまち、目の前が真っ暗になった。
時に人は、己を悲観する。運命を呪う。現状が難しくなればなるほど。
と同時に、人は、希望を抱くものだ。闇に芽生えた光にたまらず手を伸ばすように、それにすがる。" それがたとえ幻想のようなものでも " 、目をそらせない。
己の間違いを、ちっぽけさを、認めたくないから。
尊い想いを、棄てたくないから。
「何これ……何これ何これ何これ!」
ゆえに、その希望を目の前に晒されたとき、人は狂うのだ。これまでそこに懸けてきた感情が、悔しさや苦しみ、悲しみや憎しみが、ようやく、実を結んでくれたのだと、錯覚して。
「は……あは……ははは……あははははははは!」
少女もまた、救われたような気分でいっぱいだった。背はまっすぐ伸び、見開いた瞳は、その希望に燦々と輝く。
「何これ何これ! スゴいヤバいスゴい! これヤバすぎだよお!」
闇にぽつりと浮かんだ米粒ほどの光が、瞬く間にすべてを呑み込んだ。一瞬すべてが白に染まるも、じきに別の色が見えてくる。
現れたのは、灰色の世界。
カラオケボックスの名残はどこにも見当たらない別世界。見渡す限りの灰色と地平線、そして耳をつんざくほどの静寂。
やがてそこに空間の輪郭が生まれ、うねり、ドームのようなかたちへと変わっていく。灰色のまま、静寂が次第に揺らいでいく。どこからか聴こえてくる音が、東京ドームほどの灰色の世界に反響する。音が増す。大きくなっていく。やがてそれが悲鳴に聴こえたとき、前方の床がぬかるみ、沸騰したカレーのようにぼこぼこと水泡が現れた。
その中でも特に大きな水泡が三つ、風船のように膨れ上がっては、その中身を弾かせる。飛沫とともに飛び出てきたのは、三人の同級生。どれも裸で灰色に濡れ、外傷は無いが、その顔は生気なく青ざめている。
再び灰色のぬかるみから、何かが飛び出した。現れたのは馬のサイズはある、意思を持ったかのような金属製のペンチ。同じものがもう一つ飛び出すと、同級生の小さな乳房を掴んでは、捻り、引っ張った。それは彼女たちが、洗濯バサミを使って少女にやったのと同じこと。制止の懇願などまったく聞き入れない仕打ちに、肉が無情に弾ける。
奇声を孕んだ悲鳴がこだまする。それがあと二人ぶん加わると、ペンチはぬかるみに沈み、代わりに新たな拷問器具が飛び出てきた。それを受ける頃には、傷はどれも治っている。また一からやり直し。サイズと残虐性の差はあれど、どれもこれも少女がやられたことを真似していく。繰り返し。終わらない。永遠に続く。
時は得てして、理から外れてしまうものだ。ジョギングの5分と性交の5分が違う生き物に感じるように。時の流れは、平等ではない。
そんな不平等を、少女はこの一年半ずっと感じていた。世の理不尽を、ずっと憎んできた。片方の罪だけ裁かれ、もう片方の罪だけは野放しにされる現実に辟易していた。なぜ自分たちが選ばれたのか納得できずに、ずっと苦しみ続けたきた。
だからこの光景は、一つの答えにも思えた。罪がきちんと裁かれるまっとうな世界に感動し、歓喜し、狂う。
そして、黒い靄が、ふつふつと、その身体から湧き出すのだ。小さな肩から、光に溺れる瞳の淵から、恍惚に歪んだ微笑の奥から。ここに至るまでの想い、そのすべてが、いま、ようやく、初めて、そこに ── 。
" ルミ "
全身が黒く染まる寸前、自分の名を呼ぶ母親の声が聴こえた気がした。
その瞬間、灰色の世界は消え、愛と平和を歌う薄っぺらい曲が流れてくる。瞬く間に広がった現実は、灰色の世界を消し、歓喜を消し、やっと報われた悔しさや憎しみまで消してしまった。
最後に残ったのは、悲しみとやるせなさ。そして頭上に佇む、黒い靄。
薄っぺらい曲が流れている。フライドポテトの匂いがする。目覚めた同級生たちは茫然と、汚れた顔で辺りを見回している。
頭上には黒い靄。みえる。あの世界をみた後では、不思議と、これが何なのか分かる。
「 " みえた " か?」
背後から佐々木の声が聞こえた。
「それがこいつらの未来を地獄に代えるもの。そして、お前を " 真っ黒 " に染めちまうものだ」
そう、これはたしかに、そういったもの。私の中から、でてきたもの。
いつ、生まれた?
私は、それを知っている。あの日だ。ママが選ばれた、あの日から。
気づいた途端に、靄が暴れだした。もくもくと膨らみ、広がり、まるで意思を持った原生生物のごとく、ねばねばとした性質すらをも見せながら、身体を覆い尽くそうと伸びてくる。
目の淵に闇が溜まっていくのが分かった。溺れるみたいに視界が暗くなり、苦しくなっていく。
今の少女には、分かる。
これは、ずっと、自分のなかにあったもの。
大きくしたのは、私自身。
「……だ」
つくったのも、私自身。
「やだ……嫌だ!」
必死に振り払う少女を、怯える眼で見つめる同級生。彼女たちにも分かる。つい先程まで、その靄に苦しめられていたのだから。
「何で……何で、何で、私だけ!」
言葉とは裏腹に、頭は理解していた。正確には、払った靄の残骸が髪に飛び、肌へと浸透し、彼女の中に " それ " を映した。理不尽を見せられるたびに込み上がった、その感情の色を。かたちの醜さを、卑しさを、おぞましさを。
「誰だよ……こんなの、誰が決めてるんだよ!」
靄を払いながら、少女は気づいていた。本当は分かってた。この世が不条理だってこと。どうしようもないことは、世の中にたしかに存在するのだと。
雨が降ってくるみたいに、理不尽もまた、誰を狙うわけでもなく、容赦なく降りかかってくる。みんな、それは分かってる。けれどいざそれが、己や愛する者たちの頭上に落ちてきたら、途端に耐えられなくなる。受け入れられなくなる。
なぜ自分が。なぜ私たちが。なぜ、なぜ、なぜ、と……。
人は常日頃、あらゆる物語を想像できるのに、己の最悪に関してはひどく鈍感だ。非日常を求める一方、現実から見放されることを一番に恐れる。誰もが特別でありたいと望みながら、他人と同じことに安息し、違う者を疎む。
不条理。矛盾。混沌。それが、この世の厳然たる在り方。
少女も本当は分かっていた。でも認めたくなかった。だってそれは、母の死を理解してしまうことだから。もう、二度と会えないことを受け入れてしまうことだから。
黒い靄が広がる。彼女に影のようにつきまとっていたやるせなさが、己も黒く染まろうと、靄を受け入れていく。
「ああ……そっか……」
それは何もかもを黒く染める。何もかも、を。
「だから……声が聴こえた気がしたんだ……」
何もかもを黒に染める。思い出に息づく、母さえも。
それだけは、絶対に嫌だ。
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