いじめられた少女 Ⅰ



 この世で一番わけの分からない生き物は十代の女子だ、と佐々木は思う。それも女子中学生ってのはアラサー男子から見れば未知そのものだ。

「 ── 来るとこ間違えてますよ、お嬢さん」

「間違えてない」

「プリクラのあるボーリング場なら線路を越えた先にあるよ。平日は割り引きしてるからお得だ」

「綾坂探偵事務所ってここでしょ?」

「背伸びしたい年頃なのは察するが、カレシの浮気調査ならクラスメートとやってくれ」

「佐々木ケイって人に用があるの。あなたでしょ?」


 12月になると、佐々木はめっきり事務所を出なくなった。エアコンを新調し加湿器を置いた部屋は快適そのもので、ソファーに寝そべっては読書に明け暮れた。もともと通常の依頼人への応対及び調査報告は、リコが近場の喫茶店なりファミレスで済ませるのが常なので、一人きりの事務所は佐々木の城みたいなものだ。

 その昼も彼は読書に耽っていた。クレア・キーガンの『青い野を歩く』。夜明けの海面に生まれたさざなみのような文体に、アイルランドの安穏としながらもどこか退廃的な田舎の灰色の風景にどっぷりのめり込む。

 そんな夢中な時間を邪魔されたので、応対はいくらかご機嫌斜めだ。しかもその訪問者がブラジャーを付けているかどうかも分からない年頃の女子とくれば尚更。自然と嫌味な口調になる。

「 ── お前、まだガキだろ」

「ガキじゃない」

「世間の常識じゃ、中坊はガキに選別されるんだけどな」

「二十歳を過ぎても敬語を使えないタクシー運転手もいるでしょ? ニーチェを読むJCだっている」

「哲学書とSNSってのは、いくつになっても話半分に聞き入れるのが無病息災の秘訣さ」

「別に長生きなんてしたくない」

「二日酔いでトイレにこもりっきりになったら、健康のありがたみを実感できるよ」

「老いに定義があるとしたら、一つは若者に教訓を押し付けることね」

「腹の足しにもならない武勇伝を語られるよりはマシだろ」

「酒に酔うとかバカみたい。現実逃避する弱者だと宣言してるようなものよ」

「社会人に欠かせないのはスーツでもネクタイでもなく、嫌な上司の顔を忘れさせてくれる非日常なんだよ。菌類の細胞分裂ペースでネット弁慶が増殖したり、金太郎飴みたいな異世界ハーレム本ばかり発売されるのも似たような理屈からさ」

「あんなご都合主義の何が面白いの?」

「夢をみる権利は誰にでもあるってことさ。何が合理的かって、頭の中で人を殺しちまっても、目を開ければ全部消えてくれるからな。テレビにリモコン向けるより簡単だ」

「もう百回は殺してる。頭の中で何度殺しても、次の日には必ず教室にいる」

 世も末だな、と佐々木はため息を挟んだ。

「だいたいお前、金持ってんの?」

「一千万くらいなら出せると思う」

「はあ、世も末だわ」

「お金さえ払えばやってくれるって聞いた」

 まあそうなんですけどね、と佐々木は気乗りしない顔で後頭部をかいた。

「同級生?」

「クラスメート」

「女?」

「女」

 またか、と聞かせるように舌打ちを挟む。

「で、男でも取られたんか?」

「哲学書を読み漁るJCに男がいると思う?」

 そこで佐々木はようやく真面目に女子中学生に目を向けてみた。黒のおさげに黒縁のメガネ。餌を与え忘れられた子猫のように小柄で背中が丸まっている。揃えられた前髪に眉が隠れ、瞳に陰鬱な影が宿る。化粧気はなく、濃紺のブレザータイプの制服にも遊び心は一切見られない。膝には左手首を隠すように右手が置かれている。リストカット経験者によく見られる手の置き方だ。

れ鍋にじ蓋って言葉知ってるか?」

たで食う虫も好き好き、なら知ってる。いいよ、気を遣わなくて」

「ってことは、いじめか」

 これまで佐々木の皮肉に毅然と渡り合ってきた彼女だが、そこで初めて中学生らしい顔を見せた。ぐっと唇を噛んで、左手首を握る。

「……もう一年半になる。中一の頃から、ずっと」

「はあ ── 」

 リコ姉が外出しててよかったな、と佐々木は思った。

「何人?」

「実際にいじめてるのは三人。裏でこそこそやってるのを含めたら二十人近く」

「さすがに二十人はやらねーぜ?」

「いじめてる奴だけでいい。そいつらを呪い殺してくれれば」

「呪い殺すって……俺は井戸から出てくる着物の女かよ」

「なにそれ?」

「お前らの世代じゃ、赤い糸を解いた藁人形のほうがしっくりくるか」

「それも知らない」

 これがアラサーか、と佐々木は自虐たっぷりに噴き出した。

「そもそも俺の情報はどっから仕入れた?」

「ネット」

「ネットを信じるとかバカみたい。無知で短絡的な羊だと宣言してるようなものよ」

「もうあなたしか頼れる人がいなかったんだもん!」

 女の涙には、男から見ると何とも言えないものがある。それが子供のものなら尚更だ。

 佐々木は自分の大人げなさを反省し、砂糖とクリームたっぷりのコーヒーを入れてあげた。少女が落ち着いた頃を見計らって、今度は真面目に訊いてみた。

「家族には相談したのか?」

「パパは仕事でいつもいない」

 限定するということは、父子家庭なのだろうか。佐々木はなぜ居留守を使わなかったのかと後悔した。

「言っとくが、俺は人を呪うことも殺すこともできねーよ。ただ " みせる " だけだ」

「みせる……なにを?」

「上手く言えねーけど、強いて言うなら『その後の世界』かな」

「それって地獄ってこと?」

「人によるけどな」

「それってどういう基準なの?」

「さあ。ただ、ニーチェを毛嫌いするような教育関係者なんかは声高にこう叫びそうだろ。" 悪いことしたら地獄に落ちる " って。もしかしたら成績表みたいに日頃の行いが採点されてたりしてな」

「あなたは神様?」

「俺が知性の結晶にでも見えるんなら、今すぐ眼鏡屋までエスコートしてやるよ」

「冗談。神様なんているわけないじゃない」

「お前はパスカルにはベットしないんだな」

「私にはシュレーディンガーの猫の理屈のが性に合ってる」

「理系に疎い俺にはどっちも変わらねー気がするけど。まあ、どうでもいいか。とにかく俺にできるのは " みせる " ことだけだ」

「それで頭おかしくなった人がいるのね?」

「だから時間は一分以内に限定させてもらってる」

「いじめは悪いことに入るよね?」

「言ったろ、俺はラプラスの悪魔じゃなければワイドショーで発言することが教育だと勘違いしてる評論家でもない。でも " みれば " 分かるよ」

「じゃあ、みて。これからすぐ」

「の前にお金の話 ── 」

 時計に目をやると四時を過ぎたところだった。リコが帰ってきてもおかしくない時間帯に差し掛かったせいか、佐々木は早口でプランの説明に入った。

「基本料金は一人100万。プラス、電話で悲鳴をおかずに飯をかっ込むのが10万。ビデオ通話は30万に録画は100万。生ライブは200万だ。オプションは付けなくてもいいけど、基本料金は前金で貰うから。現金一括払いしか俺は受け付けない」

 銀行の窓口はすでに閉まっている。それ以前に、中学生がそんな金を用意できるのかも甚だ疑問だ。

 体良く断れたと思った佐々木だが、テーブルにどすんと置かれたスクールバッグに目を丸くする。中には大量のバラの一万円札。少女は百枚数えたものを五つ、佐々木に差し出した。

「これでやってくれるんでしょ?」

「……法人用のキャッシュでも限度額は200万だぜ?」

「十日前から下ろしておいたの。50万ずつ」

「はあ、世も末だわ」

「それより早く支度して」

「場所分かってんのか?」

「うん。ここに来る前に連絡来たから。今日もカラオケ代払いに来いって」


 人の身体というものはひどく合理的だ。眠れば感情が薄まったり、泣くことで気分が晴れたりする。不幸というのは、そんな自律機能に異常をきたすことなのかもしれない。

 およそ数年ぶりにちゃんと泣けた少女も、いくらかすっきりした顔だ。佐々木と並んで街道を歩くその姿勢は相変わらず猫背だが、今すぐ手首を切り落とすような陰鬱な影は見当たらない。

「 ── 教師になろうと思ったことはないの?」

 思いがけない質問に、佐々木は大きく口を開けて「はあ?」と訊き返した。

「他人とこんなにすらすら会話できたの、あなたが初めて」

 どこか仲間意識を訴える眼差しを、ふっと振り払うように顔を背けてから、佐々木はため息混じりにこう答えた。

「類は友を呼ぶとはよく言ったもんだ。夏目漱石もアメフトのコートの中じゃ肩身が狭いだろうしな」

「自分を理解してもらえた気がした」

「錯覚ってのは人生における大切な薬味だ。付けすぎちゃ食えたもんじゃないが、無かったら味気ない。歳を重ねるたびに目安量が分かってくるよ」

「あなたはそこらのクソみたいな大人とは違う気がする。その容姿と能力を除いても」

「そう思うのは、俺がぼっちの先輩だからだろな。俺も一人の時間が長かったから」

「そうなの?」

 フクシとリコとは幼なじみだが、空白の時間が三人にはある。

 再会できた今でも、その期間を面と向かって話し合ったことはなかった。

「今のご時世、何を言う・何をするじゃなく、誰が言う・誰がやるかが重要視されるんだ。アニメに萌えが必需になるのもそのせいさ」

「あなたが復讐を受け持っていることも?」

「需要と供給。それが世の中の仕組みだよ、お嬢さん」

「誰が決めてるんだろう」

「決まってる。そうなると都合が良い奴さ。でなきゃ編集にストーリーをダメ出しされる小説家なんて一人もいなくなる」

 帰宅中の学生で賑わう大通りを避け、ひっそりとした小道を進んでいく。華やかな都会も、少し奥へと入れば別の顔を覗かせる。陽光は遮られ、生ゴミや吐瀉物の臭いが漂う。

 人間と変わらない、と少女は思いながら、初めて親近感を覚えた背中にこんな質問を投げ掛けた。

「恨んだことないの?」

「あ?」

「その、自分の運命を」

 佐々木はつまらなそうに黒い手袋を一瞥してから答えた。

「高い棚にある本を背伸びして取ってても、運命なんて言葉使うところはやっぱり年相応なんだな」

「真面目に聞いてるんだけど」

 答える義務も義理もねぇんだけどな、と佐々木は後頭部をかいた。

「俺の好きな女芸人がこう言ってたよ。ブスと言われるたびに金の落ちる音が聞こえてくる、ってな。何事も考え方次第だよ」

「そういう抽象的で無責任な答えは嫌い。そこらのクソ大人どもと変わらない」

「錯覚ってのは自分の内だけで楽しむもんだ。他人の皿に勝手にワサビを乗せることほど傲慢なことはない」

「だって、自分次第なんて言われると、まるで自分がすべて悪いように聞こえてくる」

「なら、どうしたい?」

 言葉に詰まる少女。その目にうっすらと涙が溜まるも、今度の佐々木は動じない。先程みたいに意地悪をしてるわけではないから。

「お前の父親がどれだけ金を持ってるのかは知らんけど、お前自身は、ただのいじめられてるガキだ。俺が " みせる " ことでこの先どうなるかは知らんし知ったこっちゃねーが、お前がサンドバッグのままでいるなら、これからも殴られ続けるだろうな。ただ殴る奴が代わっていくだけ。需要と供給だよ、お嬢さん」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「俺が言ったらそうするのか? ニーチェが言ったらそうするのか? ニヒリズムに走ってあれこれ批判するのは勝手だがな、上を向いて口を開けていても餌なんか落ちてこない。壊したいならその手で壊せ、作りたいなら勝手に作れ。自分の命の使い方くらい自分で決めろ」

 立ち止まり、拳を震わせる少女。でも言い返せない。悔しさの中から、今の自分を何とか支えてくれている対象への気持ちが込み上げる。

 ママ。

 なんで、死んじゃったの?

 そんな疑問を噛み締めながら、どこか裏切られたように涙目を震わせながら、こう言った。

「あなたに私の気持ちなんて分からない」

「その言葉、伊勢丹の包装紙にでも包んでお返しするよ」

「みんな死ねばいいのに」

「いずれ誰もがそうなる。それに気づけば人殺しなんてバカバカしくなるさ。自分を殺すこともな」



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