裏切られた夫 Ⅱ



 佐々木はあくまでも、依頼人には “ みせる ” という表現にとどめている。だが実際は “ そこ ” で起こる出来事……痛み苦しみ、おぞましい光景などを、視覚や触覚や聴覚を通じ、対象者に現実のように体感させている。

 巷で間違えられている『地獄に落とす』というフレーズは、あながち間違ってはいないのだ。現に佐々木が再び左手で触れるまで、対象者は “ それ ” を味わうハメになるのだから。

「 ── す、すごいね……」

 あまりの妻の錯乱ぶりに、復讐心に燃えていた夫もたまらず後退りする。

「この女は、いま、何をみてるんだ?」

「手の動き、よーく見てみな」

 床でのたうち回る妻は、悲鳴と涎を撒き散らす口元で両手を忙しなく動かしている。まるで舌でも引き抜こうとしているかのよう。

「……こいつは何を必死にやってるんですか?」

 佐々木は指で作った5cmほどの隙間を見せつけた。

「ミミズが大量に口ん中に入ってきてるんだ。こんくらいのいちもつサイズが次から次にな。でもそれだけじゃない。拷問でも躊躇しちまうような酷いことされてるし、臭いなんかホームレスのケツ穴の何倍もくせーし、って嗅いだことないけど。とにかく、もうアレだ。最悪って言葉を習う例文には最適な状況だね。しっかしこんだけデカいミミズが出てくるってことは、相当お嫌いなんだな。それとも何かの暗示なんかね。って、あーあ、そこまでやるか、うっわ、悲惨だなあ」

 " みえない " 依頼人には、悶え苦しむ妻の姿から想像することしかできない。だがそれで十分なのかもしれない。何が行われているか " みえない " から、なぜ妻が " 真っ黒 " になったのかが分からないから、己は被害者として振る舞える。復讐できる。していい。裏切った女が苦しむ姿を、恍惚と眺めていてもいいのだ、と。

 そんな彼の横で、佐々木は " みていた " 。今まさに、男から黒い靄が浮き出しているのを。その肌にへばりつき、嘲笑を強調するかのように周りを黒く染め上げていくのを。

 男は知らない、妻の本性を。その本性がどうやって行動へと移り、黒い靄へと変わったのかを。

 本能的欲求に忠実。言葉だけをなぞれば、理性のない獣に見えるかもしれない。だが事はそう単純ではない。黒い靄は、そんな短絡的に生まれるものでは決してない。

 それは最初は、夫への愛情だった。感謝の気持ちだった。より好かれたい気持ちだった。

 夫からの潔癖とも呼べる愛情は、いつしか、それを受ける自分にも同じ度合いを求めた。もちろん一度だって強制されたことはない。考えすぎだったのかもしれない。でも、気づいたらそうなっていた。もっと好かれたい。もっと見てほしい。もっと、もっともっともっと。

 結婚してからは、その感情に歯止めが効かなくなった。幸福感とともにある種の強迫観念が込み上げ、彼の愛情に釣り合う何かを差し出すことだけに尽力した。

 だがグラスを傾ければ中身がこぼれるように、いずれはそれも尽きる。代わりとなるものを探す。尽きる、探すの繰り返し。やがて、何が相応しいものなのかが分からなくなってくる。自分はいったい、夫に何を与えられるのだろう。

 己のちっぽけさを知ったのは、おそらくそのときが初めてだったのだろう。振り返れば自分の人生は、ずっと与えられてばかりだった。裕福な家庭で、手を伸ばせばほとんどのものに触れられた。喉から手が出るほど何かを欲しがったり、腸が千切れるくらいの喪失感を覚えたことは、ただの一度もなかった。

 夫は何でも与えてくれる。でも自分は何も返せない。愛してると言われるたびに、無能の烙印を押された気がした。満たされ続けるという、ある種の枯渇感。与えられない虚しさが自分には分からないように、きっとその苦しみも、他人には分からない。現に、愛してくれる夫だって ── 。

 なんで、わかってくれないの?

 いつしか、そう思うようになっていた。そのせいだと、自分は悪くないのだと、記憶を、心を、脚色していた。

 これまでの軌跡すべてが、嘘偽りというわけではない。でも黒く塗り潰したい部分は、思いのままに真っ黒に染めた。見ないフリを、気づかないフリをした。己の人生、心において、真っ黒な隙間。触れたら指が汚れるのに、覗いても何も見えない、空洞。気が狂いそうになるほどの、果てしない闇。

 それからは考えなかった。女は隙間を埋める生き物だ。そう自分に言い聞かせて、他の男を空洞に詰め込んだ。夫をそこに入れるわけにはいかなかった。だって、そこはすべてを黒く染める、闇なのだから。

 だが詰めても詰めても、隙間は埋まらなかった。妊娠時のような多幸感に包まれた飢餓ではない。穴の空いた桶で水をすくって、なぜ上手く汲めないのかが分からないような絶望感。どうしようもない 。考えたらダメ、囚われたらもう無理、自分自身すらも、闇に呑まれてしまう。だから ── 。

「……あ……」

 だから、と顔を上げると、自分を見下ろす夫がいた。そこは悪夢でも記憶の中でもない。無慈悲という名の現実。

「わかったか?」

 男はもう二度と、妻を愛さなかった。

「これがお前の罪だ。そこがお前の行く地獄だ。お前はいずれ、そこで永遠に苦しみつづけるんだ。なぜだか分かるか?」

 夫はもう二度と、自分を愛さない。それは彼女の目にも明らかだった。

「お前が裏切ったからだ。お前が裏切ったから、お前は地獄に落ちるんだ。すべてお前のせいなんだ、わかったか!」

 男の声色が怒りを露にしていくのは、妻の行いへの批判なのか。それとも、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのその顔が、どこか、憑き物が落ちたようにも見えてしまう腹立たしさからか。

「あの子は俺が育てる。お前なんかにまかせておけない。お前みたいなクズに俺の大切な娘は触れさせない。分かったか? なあ、おい、分かったのかよ!?」

「あー、ちょっといいすか?」

 佐々木がうんざりした顔で口を挟んだ。

「盛り上がってるところ悪いんですけど、後でやってもらえませんかね。そろそろ帰りたいんで」

「……ああ、これは失礼」

 男はバツが悪そうに笑って、懐から取り出した分厚い封筒を佐々木に差し出した。

「噂通り、お見事な手腕でした。いくらか色を付けておきましたよ」

「そりゃどーも。このことは他言無用でお願いしますね」

「それはお互い様でしょう」

「そんじゃ、お元気で。二度目の依頼がないことを願ってますよ」

 佐々木は部屋を出る前に、もう一度だけ男を " みた " 。黒くてもう、何が何だか分からなかった。


 一週間後。夕方に帰って来たリコと一緒にまたりんごをかじっていたら、話題があの依頼人の話になった。

「 ── あの依頼人、離婚したらしいわよ」

「誰?」

「ほら、羽振りのいい会社社長」

「あー、あれは儲かったなあ。やっぱオプションがデカかったね。しかも多目にくれたし」

「毎度のことだけど、報酬の3割も貰っちゃっていいの?」

「かまわないよ。だいたいの仕事はリコ姉経由で来るんだし、お茶に読書にくつろがせていただいてるし」

「高いコーヒー代になっちゃってるね」

「あとはウェイトレスが戻ってくりゃ何の不満もありやせん。って、あいついつ復帰すんの?」

「たしか来週だったかな。卒論終わったら羽伸ばしに行きたいんだって」

「学生さんは気楽でえーね」

「よく言うわ」

 リコのスマホが鳴る。着信の相手はもう一人の幼なじみだ。ツーカーの短い通話が親近感をより表している。

「フクちゃん、なんて?」と佐々木。

「時間取れたって。6時に銀座で待ち合わせした。久々に三人で焼き肉だー!」

「あんたホントお肉好きね」

「ほらケイちゃん、支度支度」

「はいはい」

 事務所を出た頃には、夕焼けが建物の陰影を黒く染めていた。街道へと降りた二人も、そのまま影の一部となっていく。並んで歩くその背中はカップルにしか見えない。

 大通りでタクシーを捕まえようとしたとき、リコが思い出したように唇をなぞりながら言った。

「あ、グロス塗り直すの忘れてた。まーいっか、焼き肉だし」

「そういやさ」

「うん?」

「娘の親権はどうなったの?」

「依頼人に渡った」

「……ふーん」

「 " やっぱり " 気になる?」

「ちょっとね ── 」

 それは、まじまじと靄を " みた " 佐々木だから分かること。

「この能力の一番嫌なところは、みたくないもんまでみえちまうところだな」

「言いたいことは分かるよ。程度の差はあれど、私の仕事もそんな感じだし」

 そして、妻の身辺調査をしたリコだから分かること。二人の疑惑……もとい懸念とも言えるものは、依頼人の娘に向けられていた。

「知らせたの?」と佐々木。

「ううん。だって聞かれてないし」

「ん、それが賢明だ」

「知らなきゃ誰も悲しまないしね」

「リコ姉はそういうとこクールだよな」

「真実なんて、たいがいは幸せからかけ離れてる場所で息づくものよ。鎖に繋いで餌を与える物好きは私たちくらい」

「違いねえ」

 女が一番尊重するものは、自分の気持ち。そんな言葉が佐々木の頭に浮かんでは、秋の夕空のようにすぐに消えた。






『いじめられた女』に続く。



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