裏切られた夫 Ⅰ



 都内では比較的のんびりとした一画に佇む雑居ビル。いくらかくたびれた三階建てで、外観はねずみ色の塗装が所々剥げている。通りに面する階段は各フロアへ通じているが、貸し出し中のテナントは現在一つのみ。

 それが三階にある、綾坂探偵事務所。

 所長の綾坂リコに、彼女の忠実な手足となる調査員が数名。それから卒業を控えた女子大生の事務員に、アラサー非常勤務員が一名の小さな会社だ。ネットのランキングサイトを覗いてもまず出てこない。

 それでも事務所の評判はなかなかのものだった。リコの美貌にコネクション、そして真摯かつ正確な仕事ぶりは業界内では有名で、大手事務所から小口の仕事を回してもらうことも少なくない。

 主な職務は身辺調査だが、中にはそれ以外の目的で事務所のドアを叩く者もいる。その場合応対するのはリコではなく、アラサー非常勤務員だ。こちらの依頼料は他人の金で儲けるのが大好きな銀行員も舌を巻くほどの高額だが、満足せずに帰る客はほとんどいなかった。

 今回の依頼人も、佐々木の仕事ぶりに満足しては大金を渡すことになる。次のケースは、愛する妻に裏切られた男の話だ。


「 ── 妻と知り合ったのは大学生のときです」

 無人の事務机が三つとコピー機、最新の空気清浄機にコーヒーマシン。壁は背の高い資料棚が占め、流しに立つには横歩きで行かなければならない。

 そんな狭いオフィスでも、全体的に清潔感があり、対面式ソファーの周りだけは落ち着ける空間になっている。組んだ指に視線を落として話す依頼人も、窮屈な印象は感じていない。

「初めて話したときからとてもウマがあって、僕らはすぐに交際を始めました。24のときに結婚し、翌年には娘が生まれました。妻によく似た、とても可愛い娘です」

 朝の曇りから一転晴れてきた空が、強い日差しを室内に差し込んだ。日当たりの良いビルなせいか、晴れた昼間は電球入らず。むしろ眩しすぎるので、佐々木は立ち上がってブラインドシャッターを降ろした。

「僕はずっと幸せでした。好きな女と結婚して、子供にも恵まれた。仕事も順調で、妻はいつも笑ってくれて、娘もすくすくと成長してくれている。本当に幸せだったんですよ……妻の行いを知るまではね」

「まあ、結構多いみたいですよね。浮気されて気持ちが離れるってケースは」

「浮気?」

 穏やかだった男の表情が一変した。

「浮気だって? そんなもんじゃないよ。そんな言葉で済まされる話ではないんですよ。僕はね、ずっと彼女を愛してきたんですよ。脇目もふらず、ずっと彼女一筋に生きてきた。仕事がキツくて疲れてるときも、タイプの子に言い寄られたときもいつだって、僕は彼女に尽くしてきたんだ。佐々木さん、僕は裏切られたんですよ。僕の愛を踏みにじったんですよ、あの女は」

「はあ」

 相槌は淡白でも、その視線は丹念に男を観察していた。タイトな濃紺スーツに、爪先の尖った黒い革靴。時計は高価なブランドもの。口周りや短髪は清潔に整えられ、インプラントをした前歯は下ろし立ての便器のように真っ白だ。若くして成功した者にありがちな見栄え。いくらか偏った倫理観に、わずかながらそれを他者に押し付けてしまう傲慢さ、そしてプライドが高い印象を受けた。

 まあ、払うもんさえ払ってくれりゃ何でもいいけど、と佐々木は冷めたコーヒーを口に流し込んでから、話を進めた。

「所長は何て言ってました?」

「こちらの仕事は終えたのでそれ以上を望まれるなら、と。そう仰って、あなたを紹介してくれました」

「俺の仕事はご存知なんでしたっけ?」

「存じ上げてますよ。呪いの左手を持つ男、対象者に地獄をみせる男。色々と調べましたから」

「準備いいですね。さすがは30歳で会社を持ってるだけあるわ」

「白状すると、こちらの事務所に妻の身辺調査を依頼したのはあなたの話を聞いたからなんです。もっとも情報を手に入れるだけでずいぶんな手間と金を必要としましたが」

「基本料金は100万。オプション付ければもっといきますが」

「格安ですね。それで妻を地獄に落としてもらえるなら」

「落とすわけではないですよ。よく勘違いされますけど」

「似たようなものでしょう」

 男の笑みが不気味に歪む。妻への恨みは相当なようだ。

 それから経営者さながらの切り替えの早さで営業スマイルを浮かべ、こう訊ねた。

「それで、そのオプションというのは?」

「ターゲットにもよるんですが、" みせた " 後は壊れちまうケースがあるんですよ。そこで依頼人の溜飲をより下げるための努力を行ってるというわけです。電話を繋いで叫び声を聞くのが10万。ビデオ通話が30万。録画は100万てな感じでね」

「僕は現場にいることはできないんですか?」

 佐々木は呆気に取られて訊き返した。

「いたいんですか?」

「……おかしいですかね?」

「いや、なかなか肝が据わってるなあと思って。好きな女が狂乱するのをじかに見ることになるんですよ?」

「最高じゃないですか。あの女は僕を裏切ったんだ。それなりの制裁はあってしかるべきだ。僕がそれを眺める権利もね」

 ははは、と佐々木は乾いた声で笑ってから、こう告げた。

「あんたも相当狂ってるな」


 別件の仕事を終えたリコが戻ったのは夕方。手にするりんごの一つを寝転んで読書していた佐々木に放り、チェスターコートをハンガーラックに掛ける。ブラウスの袖を捲り、ウェーブがかった茶髪を後ろに束ね、うがい手洗いをする。ついでにグロスも拭き落とし、りんごを豪快にかじりながらコーヒーの完成を待つ。いつもと変わらない彼女の仕事終わりの風景だ。

 佐々木も一口かじってみた。新鮮で歯応えがいい。

「また八百屋の看板娘から? そのうち頭からりんごの芽が生えてきそうだ」

「モテる男は得よね。ケイちゃんによろしくって」

「建前だろ。あの子レズって話だぜ」

「バイの可能性もあるんじゃない?」

「背中に目がついてないリコ姉は気づかないだろうけど、いつもそのプリケツを舐めるように見てるよ」

「その気があってもりんごで釣ろうとは思わないでしょ。ただのソーシャルコミュニケーションの一環よ」

「そのうち毒を塗るための布石だったりして」

「それ、シンデレラだっけ?」

「白雪姫だよ」

 読書とは無縁でも、その佇まいは女性誌の編集者のように凛として聡明だ。30歳に満たない女が会社を持つと、嫌でもそんな強さが現れてしまうのかもしれない。

 だが佐々木と二人きりのときだけは、その鎧を脱いで身軽になれる。できたコーヒーを手にソファーの肘掛けに腰掛けては、明日の天気を聞くみたいに質問した。

「仕事はいつやるの?」

「明日の夜。なんでもガキがお泊まり保育だかでいないんだってさ」

「依頼人の家でやるんだ?」

「ああ。昼間に洗濯物取り込んでる嫁さんチラッと " みた " んだけど、相当 " 黒かった " からさ。自宅でやったほうが大事にならなくてすむし」

「この前の反省を生かしてるのね。えらいえらい」

「ファミレスんときは大変だったからなぁ」

「ちゃんとフクちゃんにお礼言った?」

「今度メシ奢れってさ」

 幼なじみたちの変わらないやり取りを聞くと、バリアのように固めた目鼻立ちもたまらず和らいでいく。

「それじゃ、昇任祝いも兼ねてパーっとやろっか。費用は全部ケイちゃんもちで」

「いいけどさ、キャリア組ってのは盛りのついたJKみたいだよなあ。夏休み明けるたびに出世しちまう。次は警視だっけ?」

「警視正。日本を牛耳る日もそう遠くないね」

 そう言って、佐々木の前髪を摘まむ。

「だいぶ伸びてきたね。また切ってあげよっか?」

「読書をしなくても得手不得手って言葉くらい聞いたことあるだろ? リコ姉は二度と包丁とハサミを持たないことを勧めるよ」

「なに、まだあのときのこと根に持ってんの?」

「カッパみたいなヘアスタイルにしたがる美容院にリピーターがつくと思うか?」

「違うってー、だからちょっと切りすぎちゃっただけなんだってば!」

 暫しおしゃべりに花が咲く。二人の間に生まれる雰囲気はとても独特だ。友人よりも親密で、恋人からは遠く掛け離れている。

「 ── それで、今回もヤバそうなの?」

「相当だね。しっかしただの浮気であんなに " 真っ黒 " になるかね」

「ただの、ではないかな」

「と仰いますと?」

「相手は一人じゃない」

「お盛んだなー」

「ざっと調べただけで二十人近く」

 佐々木はりんごを喉に詰まらせそうになった。

「それもうビョーキだろ」

「しかも自宅に連れ込むなんてザラ」

「そういうのってよく聞くけど、女はどんな感情で間男を招いてんの?」

「そりゃ、正義でしょ」

「は?」

「女はね、" 自分の気持ち " を一番 " 尊重 " する生き物なの。男とは違う。男が一番尊重するのは、いつだって " 自分自身 " 。だから女はいざとなったら身体を売れる。理論が一番じゃないから、何だって棄てれるし、何だって守れる。それが気持ちにリンクさえしてればね」

「男の俺には、かなり独断と偏見が混じった意見のように思えっけど」

「永遠のテーマよ。そういうのって」とリコは笑った。


 男の家は閑静な住宅街にあった。真新しい外観は白を基調としたモダン造りで、敷地も都内にしてはかなり広い。門道の左手には刈り揃えられた芝生が広がり、右手には自動開閉式のガレージが建つ。まさに人生の成功者が住む家と言ったところだ。

 男の妻は、夫の部下(佐々木)を快く受け入れてくれた。白い肌に束ねた黒髪がよく似合う清楚な女。隙だらけに思えるほどおっとりした佇まいで、笑うとタレ目の端にあるホクロが官能的に映る。ふくよかな肉感を強調するニットのワンピースは、臀部に雄の視線を引き寄せる膨らみをつくる。聞けばいいとこのお嬢様のようだが、なるほど、たしかに計算高さから生まれるようなフェロモンじゃないな、と佐々木は呆れるどころかむしろ感心してしまった。世の中には、無知や無自覚といった、悪意を持たない悪というものもある。

 それを正義と錯覚する者がいることも、また事実。

 乾杯する前から、妻は佐々木に目を奪われていた。隣に夫がいることすら気にも止めず、その容姿を舐め回すように見つめる。自分の気持ちを尊重する生き物。そんなリコの言葉を思い出しては皮肉そうに笑った。

 部下との親交会という建前の食事は和やかに進んだ。会話のほとんどが妻から佐々木への質問で、いい加減な返答を大袈裟に受けとる彼女の浮かれ様は、売れない芸人が見ても滑稽に映るだろう。本能的欲求に忠実な姿勢は、ある意味、人生を懸命に生きている表れなのかもしれない。

 だが論理を重んじる人間には到底理解されるものではない。その笑顔、振る舞いのすべてが、夫の癪に障る。これまで好きだった表情も、他の男への色目と気づいた今では容易に憎しみが込み上げる。

 佐々木はそんな彼を " みていた " 。視線は妻に向いているが、その意識は彼の " あるもの " を捉えていた。それはかたちを変え、色を変え、やがてまったく別のものになるのだろう。いや、もしかしたら、それはもともとそんな性質を携えていたのかもしれない。隣の妻から湧き出る黒い靄のように。コインに裏と表があるように。

 それでも佐々木は夫に忠告などはしない。彼はいつだって分相応に、己のやり方で仕事をこなす。夫との目配せで了承を受け取っては、見せつけるように黒い手袋を外した。

 その綺麗な左手に、妻はたまらず嘆息した。うっとりとした眼で自分の手と見比べては、触れる機会を作ろうと言葉を投げ掛ける。

「ずっと手袋をしてたから、ケガでもされてるのかと思ってましたわ」

「あまり人に見られたくないんですよ、これ」

「どうして? そんなに綺麗な手、正直嫉妬しちゃうな。お肌も私の何倍も艶々」

「そう言ってくれると嬉しいなあ。良かったら触ってみます?」

 妻は照れた表情で夫に確認を取った。

「それは……失礼にならないかな?」

「良い機会だ、お言葉に甘えたらどうかな」

 許しを得るや、まんざらでもない顔で手を差し出す。

「じゃあ、少しだけ」

「ねえ、奥さん」

「はい?」

「奥さんってミミズ嫌いでしょ」

「どうして分かるの?」

「 " みえた " から」

「みえた?」

「まあ、どうでもいいか」

 佐々木が妻の手を握ると、室内は張り裂けそうな叫び声に包まれた。



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