神の左手
跳ね馬
プロローグ
ある者は叫んだ。罪に対し、罰が正当に行使されることこそが、正義なのだと。
ある者は叫んだ。我々は、生きている間にこそ、罰を受けねばならないと。
~復讐版~
" 許せない。マジで殺したい "
" いい方法教えようか? "
" 教えて "
" 左手に黒い手袋をはめた男の話聞いたことある? "
" ない。その人が代わりに復讐してくれるの? "
" 地獄をみせてくれるらしいんだ "
本能とは、生物が生まれつき持つ性質だ。抗うには特別な訓練がいる。言い換えれば、たいていの人間は本能に抗うことはできない。
街道を振り返る女たちも、本能に突き動かされたのかもしれない。男の背中に張り付く視線は、どれも本能が語りかけるみたいに情熱的だ。目をそらせない。もう一度その顔を見せてと、いくつもの眼差しが夜の街に光る。
女の瞳をいくつ奪おうと、男の足は止まらない。黒いパンツに黒のトレンチコート姿で、都会の喧騒に白い息を置き去りにしていく。端正な顔立ちとスタイルの良さは、まるでコンビニに並べられたファッション雑誌の表紙からそのまま抜け出てきたかのよう。
赤信号に立ち止まる。隣の女子高生たちが彼の横顔にうっとりするも、スマホを向けシャッターを押したりはしない。彼が野蛮で無神経なSNSにそのプライバシーを侵害されないことも、本能によるものなのかもしれない。住む世界が違う、この男と関わってはいけない……そんな本能に従順な女たちは後ろ髪を引かれた顔で、再び己の歩むべき道へと視線を戻す。そして忘れていく。誰も彼を思い出すことはない。
左手に黒い手袋の男の話を信じるまでは。
彼の名は佐々木。寒がりだが好きな季節を問われれば冬と答える男。その理由は手袋が目立たないから。たとえ左手だけにしていても。
この夜も佐々木は左手に手袋をしていた。黒の硬い革製。使い古したもので、そのままスマホを操作できるくらい扱い慣れている。
大きな二重のせいか、目にかかる前髪をかきあげると高校生にも見える童顔。だが実年齢はアラサーだ。そのため最近の流行には疎い。特に都会の工事開発や新しいスマホアプリなんてものは覚えるのに時間がかかる(前から機械オンチではあったけれど)。
「……あー、ダメだ。やっぱ迷ったわ」
佐々木は道案内のアプリを閉じ、スマホを耳に当てた。
「ファミレス見つからねーんだけど」
「今どの辺?」と聞こえてきたのは歳の近い女の声。語学教師に打ってつけのはきはきとした口調だ。
「駅の近く」
「東口? それとも西口?」
「あー、ちょっと待って……うん、東口」
「なら歩道橋渡って西口に行けばすぐ見つかるはず」
「りょーかい」
西口に着くとすぐに目的地は見つかった。全国チェーンのファミリーレストラン。通りに面する窓から店内の様子が伺える。佐々木の視線は塾帰りの女子高生グループのテーブルで止まった。
「ビンゴ」
スマホの写真と視線の先を見比べ、佐々木は指を鳴らした。そして顕微鏡を覗こうとする研究者さながらに眉間を指でほぐしては、じっと目を凝らす。
「今回はなーにが"みえる"でしょうかねぇ?」
鋭さを増していく視線の先には一人の女子高生。友人と談笑するその姿に変わったところは見られない。だが佐々木は違う。彼の目にはあるものが映っている。女子高生の身体から浮かび上がってきた、黒い、
それは徐々に大きくなり、取り囲むように彼女の表面に広がっていく。色はどんどん濃く変わり、やがて漆黒の闇と化しては、その全身を真っ黒に染めた。
だが彼女は気づかない。周りの反応もない。“ みえていないのだ ” 。その光景は、おぞましい闇は、目を凝らす佐々木の瞳にしか映っていない。それがどれだけ暗く、どれだけ恐ろしいものなのかに、彼女たちは気づいていない。
「こりゃまた……どえらいことになりそうだわ」
言葉とは裏腹に、口元はどこか楽観的に歪んでいる。再び女に掛けた電話もまるで緊張感がない。
「ターゲットを確認。言われた通りファミレスにいたよ」
「混んでる?」
「まあ、それなりにな。でも出来ないことはねえよ」
「ちょっとケイちゃん、店の中で " やる " つもり?」
「え、ダメ?」
「絶対騒動になるじゃない。ただでさえ最近あんたのことが噂になってるのに」
「でもさみーし早く帰りてーし。それに何かあってもフクちゃんが何とかしてくれるでしょ」
呆れたため息の返答に、佐々木は気さくに言葉を継いだ。
「まあ、それなりに上手くやるよ。それよりリコ
「まったくもう」
電話を代わったのは、ターゲットの同級生。蚊の鳴くような声で「もしもし」と応じた。
「もう一度聞くけど、ホントにやっていいんだな?」
「……ちゃんと地獄に落としてくれるんですよね?」
「いや、何度も説明したけど、俺はただ " みせる " だけだからよ。でも今回はあんたの望み通りになると思うよ」
「お願いします」
佐々木はスピーカー通話に切り替え、口からスマホを離した。
「聞こえる?」
「はい」
「そんじゃ、そのまま聞いててくれ。んで終わったら残りの金をそこのお姉さんに渡してな」
スマホを胸ポケットにしまい入店する。その足は一直線に女子高生のもとへ。
「こんばんは、ちょっといいかな?」
談笑に耽っていた少女たちが、一斉に佐々木に釘つけになった。その容姿を目の前にして不審を抱くのは、バイト感覚で中年に抱かれる女子高生には難しい。
「橘さん、ちょっといい?」
名前を呼ばれても警戒するどころか、仲間内でじゃれあい始める。虎が大口を開けたことに気づけていない。
「橘さん、ちょっと立ってもらえるかな?」
手袋を外した左手は、グランドピアノの広告に使われそうなほどに色艶が良く細長かった。それを除けば別段変わったところはない。だが佐々木に応じ、その顔を正面から見上げたとき、彼女は言い様のない緊張感に包まれた。蛇に睨まれた蛙みたいに目をそらせない。
彼女をドキドキさせるは二つの本能。一つは女の性。そしてもう一つは、危機に対する警報。警報に従うには、ある水準の想像力と痛みの経験が必要だが、平和ボケした女子高生が後者を鮮明に理解することはできなかった。額に左手が触れるや、断末魔のような悲鳴が店内に響き渡った。
人の脳は、理解不能に陥ると活動をストップすることがままあるそうだ。この夜の客そして友人たちにも、そんな例が当てはまるのだろう。誰一人、身じろぎ一つせず、女子高生の突然の錯乱に言葉を失っていた。ある者には罰を受ける罪人のように、またある者には、殺虫剤をかけられたゴキブリのようにも見えた。
程なくして静寂が訪れる。佐々木が " みせた " のは時間にして十数秒。だが彼女が体感したのは、倍どころではすまないのだろう。悲鳴が止んだ頃には穴という穴から体液が漏れていた。墓から這い出たばかりのように辺りを見渡すその顔は、メイクが汚れてぐちゃぐちゃ。ショーツどころかスカートまでびしょ濡れ。それでも心から胸を撫で下ろし咽び泣くのは、それほどの悪夢だったから。
どんな恥も、現実にいられることへの尊さには敵わない。それをひしひしと実感する彼女に、佐々木は耳元でこう囁いた。
「せいぜい長生きするんだな ── 」
それから彼女はすべての人間関係を清算し、やがて出家することになる。
「そこが、お前の行く、世界だ」
" 地獄って、あの地獄? "
" うん。俺たちがいずれいくところだよ "
プロローグ END
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