永嘉の乱~
【劉曜・羊献容】雲の晦きに如かんと雖ど
降りしきる雨の音に調子を合わせ、琴がぴん、ぴぃんと音を発する。
琴をつまびく小姓がにこり、と微笑めば、献容もまた笑みを返し、歌う。
雨風がいかに凄かろうと、
鶏は必ず、決まった時間に鳴く。
君子がここにいらっしゃる。
どうして喜ばずにおれましょう。
たとえ雨風に降り込められても、
鶏はやはり、定時に鳴く。
君子がここにいらっしゃる。
心、慰められずにおれませぬ。
風雨が天地を暗くしたとて、
やはり鶏は諦めぬ。
君子がここにいらっしゃる。
歓喜はいかにも留めきれませぬ。
歌とともに、琴が終わりの一節を紡ぐ。献容がふぅ、と息を漏らせば、先ごろまでと変わらぬ雨音が、再び室内を占める。
――いや、そこに、一つ。
柱の向こうより、拍手が響く。
音の主が姿を表せば、これまで笑顔でいた小姓が、瞬く間に色を失い、慌てて平伏した。
天にも届かんかという長駆、豊かな黒髪は頭頂部にて縛られるとそのまま馬の尾がごとく背中に垂れ下がる。極め付きの異相は
「侍従どのは、いまだおれになれては下さらんか」
「困ったものですわ。妾の夫ぎみなれば、この子にとっても主でありましょうに」
言いながらも、小姓を撫でる献容の手つきはいかにも慈愛に満ちていた。
ふ、と灼眼が緩む。
「良い。小姓どのの琴あってこそのそなたの歌であろうよ。此度も実に
「恐れ入りましてございます」
ゆるりとした
そこに、劉曜は腰掛ける。
ひとりの側女が酒壷と
なみなみと注がれた酒が、ひと息のもとに呑み干される。
「
「けれど、陛下をお呼び下さりましたわ」
二杯目を求めようとする劉曜の手が、止まる。
「いかなる意か?」
献容は目を薄らがせると、片手を劉曜の太ももにそえる。
「
真正面より、灼眼と切り結ぶ。
背後の小姓はわずかに震えている。その目が見る先は、未だ劉曜の腰に
劉曜は口端を釣り上げると太刀を握り、外した。
「よくも言い切るものだ。もっとも、それを望むおれとて好事家なのであろうがな」
ぐい、と献容を引き寄せ、かき抱く。
やがて小姓らは袖にて目を覆い、そそくさと室内より下がるのであった。
鶏は定めし時に至れば、
この天下統一に大いに資した将の名は、
国の姓が
名族の娘に待ち受けるのは、家門を盛り立て得る相手との婚姻である。すでに父の世代で国の貴顕となっていた羊氏であるから、その嫁ぎ先には、ついに皇帝が選ばれすら、した。
平時ならば、この上なき
しかし時の帝は、その暗愚なるを広く知られていた。
夫の暗愚につけ込み、元の正妃は権勢拡大を目論んだ。しかし失敗し、別な皇族によって粛清された。
皇帝に妃がおらぬなど、あってはならぬこと。故に献容が、急遽の代役として立てられたのである。
後の世に、八王の乱と呼ばれる政変。元の正妃を殺した皇族はやがて帝位を簒奪。献容もまた、正妃の立場を失った。
僭帝は速やかに討伐され、皇帝も復位した。
しかし、天意の代行者たるはずの皇帝が、いち人臣に退けられたのだ。その権威を真に仰ぐ者が、果たしていかほどいただろうか。まして、間に合せで充てがわれた正妃を、いかほど尊重しただろうか。
八王の乱が進む中、献容は都合五回の廃位と、五回の復位を味わっている。加えて幾度となく「天下を
幾度となき窮地は、否応なしに人をしたたかにするものである。向けられた殺意がまがい物か、真のものか。真のものであれば、どうそれを和らげられるか。
苦痛ばかりの世にあり、今更生き延びることにどれほどの喜びがあろう。しかし、悪女の汚名を身に受けたまま、むざむざと殺されでもすれば、あるいは家門にも色濃い影を落としかねない。
あるいは晋氏の虚名に便乗しようとする者が、あるいは晋氏の虚名を打破せんとする者が、あの手この手で献容の側にうごめく。怨嗟権謀の渦巻く巷である。時の帝は斯様なる場にあるには、あまりにも純真であった。謀りの応酬のさなか、遂には力尽き、崩じる。
宗門らは慌てて新たな傀儡を立てたが、遅い。
宮廷の混乱を好機と見、北より攻めてきたのが、劉曜であった。
姓こそ魏晋の先駆けたる漢を統べた家門と同じではあったが、生まれは北方に
献容もまた、略奪されたもののひとつ、である。ただし、その扱いは金銀財宝にも等しい。故に「逆賊を滅ぼす」のに大功あった劉曜にあてがわれた。
その劉曜が皇帝を名乗れば、献容の身に、幾度となく押し付けられてきた「皇后」の尊号が再び巡ってくる。さしもの献容も、その皮肉には苦笑を禁じ得ずにいたものである。
その体躯に見合わぬ、細やかなる動き。上気する顔は、さながら童子がごときである。
「
「いかがなされました?」
「おれは、
献容はわずかに目を見開いたが、すぐさま薄らがせ、劉曜の首に腕を巻き付ける。
「何故、あれと並べ立てようと思われましたの? 陛下はこの国を新たにお開きになられた聖王であらせられます。それに引き換え彼の者らなぞ、己が国をすらまともに保ち置けずにいた凡夫にございましょうに」
ころころと笑い、その豊かな髪の毛をなでつけると、劉曜はむずがるような、戸惑うような顔つきをしてみせた。
献容は、言葉を継ぐ。
「陛下に致しましても、妾に致しましても、なすべきは親よりあずかったこの血を、子々孫々に受け渡すこと、ですわ。にもかかわらず、妾のもと夫は、夫と妻と子、わずか三人の家族すらまともに守りおおせず、宮廷にたむろする害虫よりの辱めを受けるがままとなっておりました。その日々を思えば、どうして死なずに済んだのかが不思議にすら思えるほど。所詮あの者など、尊い生まれにあぐらをかいていたに過ぎませぬ」
終わりの言葉にやや底暗さが載れば、つい劉曜の動きも止まる。それに気づくと、献容はその広い背中を二度、三度と叩いた。あたかも、激励を飛ばさんとするがごとく。
「いやですわ、陛下。かの地獄より妾を引き上げてくださったお方は、他ならぬ陛下でございましょう? 妾はかねてより、丈夫たるもの、族父の羊祜が如くあらねばならぬ、と思っておりました。なれど宮中には己の利にしか目がゆかぬ凡愚らがはびこってばかり。甚だ失望しておりましたわ、これが世のまことなのか、と」
ありありと不安を浮かべる劉曜の顔を、にこやかに撫で。それから、自らのそばに抱き寄せる。
「けれども、あぁ、妾の不明を恥じ入るばかり。天下には、陛下のごとき偉人がおられるなんて!」
赤子をあやすかのようなその声色とは裏腹に、献容の顔は、固く、凍てつくのであった。
劉曜らによる晋都襲撃、及び陥落は、世に
それまで蛮夷と蔑んできた者らにかしづかざるを得なくなれば、晋人らがその先に選ばねばならぬのは、屈辱か、死――献容は、屈辱を飲み切り、従属の道を選んだ。
劉曜らを皮切りとし、多くの胡人が中原にて栄枯盛衰を繰り返し、最終的には
なお、そのうちのひとり
詩経『風雨』は、その序文にて「思君子也。亂世則思君子,不改其度焉。」と紹介されている。乱世にあってもその節を決して曲げぬ、まっすぐな君子を思う歌、とする。
雌鶏が鳴くことはない。しかし、その雌鶏より生まれた雄鶏は、やはり高らかに鳴くものである。
解説
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/16816700425984473565
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