【吉翰・劉裕・劉道憐】二番目の男

「吉参軍きつさんぐん! どうか龍驤将軍りゅうじょうしょうぐんをお止め下さい!」


またか、吉翰きつかんは眉間のしわが深まるのを痛感した。


「今度は何だ! よもや子女を召し上げて天幕中に連れ込まれだ、などではないだろうな!」

「そ、それが……」


報告をもたらしてきた兵士が、目をそらす。

どうやら図星だったらしい。


なぜだ、吉翰は天を仰ぐ。


なぜおれにばかり、このような役目が回ってくるのだ。



 ○



「龍驤府から上がってくる報告に、どうにも解せんところがあってな」


土下座のうえから降ってくる、全てを押し潰さんとするかのような、太い声。

その声を聞くだけで、吉翰は汗が止まらなくなっていた。


太尉たいい劉裕りゅうゆう


この国、しんの転覆をはかった男、桓玄かんげんを打ち倒し、微賤の出でありながら、一昼夜にしてこの国の旗を振るようにまでなった者。


かれについては、桓玄打倒よりも先ごろから「けだし人傑なり」と言った噂はよく耳にしていた。


噂には尾ひれがつくものと決まっている。

だが、実際に会ってみれば、どうだ。

あまりの圧に、顔も上げられずにいる。


「もとより道憐どうれん、あいつは不肖の弟だ。それほど重要なところを任せようとも思っていなかった。にも関わらず、そこかしこで不思議なほどの大功を挙げる。そして、仁君がごとき振る舞いをも見せているという」


「り、龍驤の大徳あればこそにございますれば――」


「そういうのはいい。吉翰、面を上げろ」


戦々恐々としつつも、言いつけに従う。


飛び込んでくる顔は、吉翰が従う龍驤将軍――劉道憐りゅうどうれんに、不思議なほど似ている。

と同時に、不思議なほど似ていない、とも感ぜられた。

まとっているものが、まるで違う。


ひと目にてこちらを射すくめるかのような眼ではあるが、妙に惹かれるものもある。


しばらく吉翰の顔を眺めると、ふ、とわずかにその相好が崩れた。


「お前なんだろう、吉翰? 道憐を補佐してくれているのは。お陰で、あれに頭を痛めることもないままでいる。助かってるぞ」


「は、勿体ないお言葉にございます!」


吉翰はまたも平伏した。

おいおい、劉裕が苦笑する。


「伏せるな。話したいことも話せん」


そうして顔を上げようとすると、じゃり、と靴が砂を噛む音がした。

椅子より立ち上がった劉裕が、吉翰の眼前にまで歩み寄ってきた。


驚く間もない。

ぐい、とその逞しい腕が、吉翰の顔を引き寄せる。


「実はな、驚いてるんだよ。道憐の奴、確かに腕っぷしはある。が、お前も知っての通り、人を従えられるような奴じゃない。なのに、なんだかんだで将軍としての役目をこなしてきてる。よほどお前とのかみ合わせが良かったのか」


「は、はぁ……」


煮え切らない返事しかできない。

かみ合わせが良い? そう見えるのか。


こちらは放埓で理不尽な上役に日々振り回され、いつ終わるとも知れぬ無茶に臓腑ぞうふをきしませる毎日である。許されるのであれば、今すぐにでも龍驤府参軍なる立場をなげうちたい気分ですらある。


「お前以上に道憐を扱えるのは、二人しかいないだろう。俺か、おふくろ殿か、だ。吉翰。お前には特別に許そうと思ってる。やつがわがままを言ったら、俺の名も、おふくろ殿の名も使っていい」


劉裕が腕を解いた。

それから満面の笑みを浮かべて、吉翰の肩を叩く。


瞬間、吉翰は理解した。


――こいつ、このクソ太尉。

おれに、面倒ごと押し付けてきやがった。



 ○



「龍驤、入ります」


「まっ、吉翰、しばし待て!」


「はい」


と、言いながらも天幕に踏み込む。


――太尉より軍権を預かり、万余の兵を率いる、龍驤将軍、劉道憐。


天幕に踏み込んでみれば、どうだ。過ぎ捨てた甲冑は脇に転がされ、帯はぼどけかけ、ズボンは脱ぎ捨てられ。


見事に、その肩書が泣いている。


その対面には、まだまだ少女と呼ぶべきであろう少女がいる。その粗衣は乱され、片肩をはだけさせられている。また、いく筋か、結い上げた髪に乱れもある。


何をしていたのか――いや、何をしようとしていたのか。


今さら四の五の追及するのも面倒くさい。内心で盛大に歎じた後、これ以上なく厭味な笑顔を、劉道憐に示してみせる。


「これは、お楽しみのところを失礼いたしました」


「……これからじゃ」


「あぁ! それではなおのこと、悔やまれてなりません。大尉よりの命が届きましたため、急ぎ龍驤と検討せねばならぬのです」


そう言って吉翰は、懐から劉裕より受けていた(大量の)下命書(のうちの一つ)を取り出し、示した。


もちろん、内容はいわゆる軍事機密である。残念ながら、余人を交えて語れることでもない。


少女を見る。


「娘、国士の寵に浴する栄誉を奪ってしまった。済まぬな」


着衣の乱れを整えてやり、小銭を握らせる。天幕の外に控える兵を呼ぶと、住んでいる村にまで送り届けるよう言いつけて。


「これで、閣下の徳がまた一つ高まりましたね」

「なにが徳じゃ、息苦しくて仕方ないわ」

「ならば、武勲を挙げましょう。将たるものの本道です」


言って、下命書を広げる。

現在進めている戦の見取り図と、そこで劉道憐に望む働きと。


一言で言えば、激戦区、である。


劉道憐が、見取り図を前に苦笑する。


「――兄上、いや、太尉は、やはりわしを疎んじておられるのかな」


聞き流すべきか。

迷うところではあった。


劉道憐は、どう甘く見立てても主の器ではない。恐らく、それは本人も自覚しているのだろう。だからこそ放らつなふるまいが目立つのかもしれない。


圧倒的な兄、出来のいい弟の劉道規りゅうどうき


そんな二人に挟まれ、どうせおれは、と捨て鉢になる。


ありえないことではない、と思う。


――だが。


「太尉のお気持ちは、自分のような小人に伺えたものではありません。が、存じておることならばございます」


ぴく、と劉道憐の眉が上がる。


「いざ戦が始まれば、いわおのごときお顔をお示しになる太尉ではございますが、閣下が武勲をお挙げになったと聞かれると、ほんのわずかに、その面ざしが緩まれるのです――もっとも、これは閣下をよく知る自分でなくばわからぬこととは思いますが」


そう。

その威厳を抜きにして語れば、劉裕と劉道憐は、驚くほど似ている。怒ったとき、笑ったとき。生き写しなのではないか、とすら思うほどだ。


「思うに、太尉は暁武のお人にございました。しかるに今や大都督として万軍を率いられる身。いまし日のように、最前線にて剣を振るう、など許されるお立場ではございません。その分、龍驤のご活躍を、我が身のことのように喜んでおられるのではないか、と――そのように、愚考しております」


劉道憐がうつむき、黙り込む。


余計なことをしたか、と思う。

が、他に思いつく言葉もなかった。


龍驤将軍とは、そう軽い地位ではない。あの劉裕が、あらゆる旧弊を忌み、実利をのみ見据えて軍府の運営を改めて来られたお方が、血筋だけで、それだけの地位に劉道憐を抜擢するはずがない。


間違いの無いことがある。

将として、秀でているのだ。

この、劉道憐という男は。


「吉翰」

「は」

「今、いかほどの仕事を抱えている?」

「はぁ、少なくはございませんが」


あんたのおかげでな、とは言わないでおく。


ただでさえ万余の士卒を抱える軍である。雑事など、それこそ無数にある。それに加えて劉道憐のあれやこれだ――先程の少女にしてみても、もみ消し、口裏合わせなど、幾分の労力は払わねばならないだろう。


が、それを言ってみたところでどうしようもない。


道産どうさん! 来い!」

「はっ!」


いきなりの大声。

それに応じ、一人の少年が入ってきた。


劉道憐、そして吉翰にそれぞれ一礼してくる。


「龍驤、この者は?」


劉道憐は答えない。

ふてくされたような面持ちをも、まるで隠そうともせずにいる。


「あのな、吉翰。こんなわしでも、お前のおかげでわしの軍が回っていることくらい、理解しておるつもりだ。だのにお前と来たら、あれこれとひとりで抱え込んで。そんな調子で、お前に倒れられたら、わしにどうしろというのだ!」


「はぁ……」


いまいち、話が見えてこない。

この人は何を言いたいのだろう。


道産、と呼ばれた少年の肩を押す。


「ここな劉道産りゅうどうさんは、太尉に頼み込み、わしにつけてもらった。正確には、お前に、だ。以後こいつにお前の仕事を教え込み、割り振るように!」


なぜ、それを不機嫌そうに言うのか。


外の空気を吸ってくる、劉道憐は最低限の身なりを整えると、天幕の外に出た。


あとに残されるのは、よく事情を飲み込みきれていない、ふたり。


吉翰は、改めて劉道産を見る。

利発そうな子だ。それでいて、あまり浮ついたところも感じられない。


それで、ようやく事態が飲み込めてきた。

この子は、劉道憐なりの贈り物、なのだろう。


吉翰は、思わず吹き出す。


「全く、あのお方は。見ていないと思いきや、見ておられる」


吉翰が、天幕の外に向けて一礼する。


事情を何も把握できていないはずの劉道産が、それに倣ってきた。

それが、妙に可笑しかった。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915900

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