【劉穆之・劉裕】公文書と筆とクソ主上

私はいら立っていた。


主上しゅじょう劉裕りゅうゆう様は、あまりにもお触れ書きを軽く見すぎている。


もともと、口より手が先に動くような方だ。その竹を割ったかのような、スカッとしたふるまいこそが魅力でもある。ならば別に、わざわざ本人が嫌うことをやらせることもないだろう――そうは、思っている。


思っては、いるのだが。


「主上、あのですね。何を言われたかって、案外どうでもいいんです。士卒しそつらが重視するのって、誰に言われたか、なんです」


「そうか。で?」


「で、じゃないですよ! ぶっちゃけて言いましょうか、あなたの号令がなきゃ、誰もついてこないんですよ!」


「ぇえ……めんどくせえな」


いや、こっちがぶっちゃけたからって、あんたまでぶっちゃけてくんなよ……。


そこをツッコむのは、なんとか我慢した。



混迷のさなかにある、この国を導けるお人は、いまや劉裕様以外にいない。ならば、劉裕様にどう言ってもらえたか、それが文字として残っているかどうかで、まるで話が変わってくる。


だというのに、このお方は、筆よりも剣をお持ちになる方がずっとお好きでいらっしゃる。ものの二、三十分ほど書類仕事に取り掛かられたら、すぐに何かと理由をつけて、逃げ出そうとされるのだ。


「ったく、いいじゃねえか。大体のこた、劉穆之りゅうぼくし。お前と相談して決めてんだ。ならお前が代筆してくれりゃ済むんじゃねえのか?」


「何言ってんですか、すぐバレますよ? 貴族どもの文字に対するこだわり、ナメちゃいけません。それに私が代筆してる、なんてバレようものなら、たちまち鬼の首取ったように叩いてきますよ。あいつはやる気がない、って」


「ったく、そこじゃねえだろうに、いま必要なのはよ」


「まこと、仰る通りではありますが」


劉裕というお方は、その存在そのものがこれまでの支配システムに対する楔となっている。


中原の戦乱を嫌い、疎開してきた貴族や士族は、未だ発展途上であった江南の地を、その高い技術力でもって開発した。


北来のもの達は言う。この地の太陽は、中原に比べると、遥かに元気であらせられる、と。そのため、農作物もさほど手をかけるまでもなく青々と、みずみずしく育つ、のだそうだ。


私たちは江南の生まれであるから、彼らの言葉に実感は沸かない。だが、そうした彼らの言に基づけば、この地での土地開発は、中原よりもはるかに楽だったのだろう。おかげで我々は、いつも食うに事欠かずに済んでおるわけである。


が、物事は良し悪しである。


至るところで、開発が進みすぎるのだ。おかげで、政府がまともに開墾の状況を把握できていないでいる。それぞれの地方では、それぞれの豪族が情報を握っているのだろう。これまでの弱腰な政府では、彼らから有益な情報を、そして正確な税収をも吸い上げることができなかった。


そこに現れたのが、劉裕様である。


このくにで最も精強であった軍部の出。そこでまたたく間に頭角を現された。しかも、ただ強いだけではない。かれは軍内に厳正な規律を布かれた。


かれの登場まで、民草は野盗と兵士、どちらに対しても警戒せねばならなかった。

しかし、いまでは兵士といえば頼るべき存在、愛すべき存在として慕われるようになっている。


そして、その武威でもって国内の不穏分子を次々と平定。この国の第一人者にまで上り詰められた。


劉裕様のお言葉は、すなわち、その武威に裏付けられた指示、ということである。文弱の徒でしかない私の言葉とは、まるで重みが違う。


海千山千の豪族たちが、私の言葉に従うはずがない。彼らが従うとすれば、それは、他でもない。劉裕様直々のお言葉以外にはありえぬのだ。


「おい、穆之」

「は?」

「いつもの目してんぞ。勘弁してくれ、もう聞き飽きた」

「左様ですか。なら筆を動かしていただきたいのですが」

「うるせぇな、わかってるよ」


口をへの字に曲げ、劉裕様が再び書類に取り掛かられる。そして、例のごとくだ。苛立ちが、そのご尊顔ににじみ始m


「――っだぁ!」

いや早っ!?


思い切り書類の山をぶちまけられた劉裕様は、舞い散る紙たちの群れを見て、少しは溜飲を降ろされたようだった。


ありがたい、実にありがたいことだ。

ところで誰が片付けるんですかそれ。


「し、主上?」


「そもそもだ、穆之! 公文書ってな、どうしてこうもみみっちいんだ! 紙面をみっちり墨で埋めにゃ気が済まん病か何かか! そんなちまちましたもんに付き合わされるこっちの身にもなってみろ、窮屈でたまらん!」


「いや、そう仰られても……」


何度同じことを注意せねばならんのだ。

いい加減、げんなりとしてきた。


確かに公文書の文字は小さい。対するは、武人上がりの劉裕様である。官僚たちの几帳面、と言うよりは、せせこましさに付き合わせるには、劉裕様のお書きになる文字の気宇がいささか広大に……


ん?

広、大?


突如として、巡り巡っていた愚痴たちが消え失せたのを感じた。


「どうした、穆之?」


劉裕様が、こちらを覗き込んでこられた。


「ふと、思ったのです。官僚どものしきたりに、いちいち主上が付き合う必要もないのではないか、と」


私は床に散乱した公文書たちに、ざっと目を通した。それらの内、さしたる検討もなしで決済を下せる案件を拾い上げる。そして、隣に白紙を並べた。


「この二枚にまたがるよう、決済の旨をお記しください。いわば割符わりふです。主上の文字、主上のお言葉でなくば、士卒らは動きません。しかしながら、それがいちいち同じ紙に踊っておる必要はございましょうか?」


劉裕様が、こちらの指示どおりに文字をお書きになった。こういうところで素直に従っていただけるのは、大変にありがたい。


書きしな、劉裕様が「――あぁ!」と、声をお上げになった。


「なるほどな! これならちまちま書かんで済む! 俺の字が、もとの紙の二、三箇所に引っかかってればいいものな!」


「まぁ、本文にまで墨を飛ばされているのはいただけませんが」


「……いちいち一言多いなお前」


処理が済んだ案件を一方的に受領すると、劉裕様がぶちまけられた書類たちを懸命にかき集めていた小間使いらに指示を出す。

いま手元にある書類については、白紙の継ぎ足しによって余白を設けるように、と。また、以降劉裕様が決済なされる書類には左に大きな余白を設けさせるように、とも。


「万事、斯様かようになさりませ。構わないではありませんか、一枚の紙に数文字のみになったとしても。もとより官僚どもの尺度で、主上の無辺の大徳は計り知れますまい」


劉裕様は、小間使いらが持ってきた別の書類に目を通し、それはそれは、嬉しそうに筆を走らせた。


荒い文字でもいいのだ。大きければ大きいほどよい。そこには勢いが乗り、されば字にも力が漲ろう。


が、ふと劉裕様の筆が止まる。


「どうなさいました?」

「今、ふと思ったんだがな」

「はぁ」


いったい、どうなされたのだろうか。

そのお顔を伺えば、浮かんでいらっしゃるのは、どちらかと言えば疑念、に近しいものだった。


「なんだろうな、デカいデカいって言われてんのに、全然嬉しくねえ」


ああ、そう言う事だったのか。

では、私も誠意をもって答えねばなるまい。


「当然です。皮肉で申し上げております」


「ッッ!?」


がたん、と劉裕様が立ち上がった。

だが、知ったことか。


こちとら散々わがままにつきあわされているのだ。たまには意趣返しくらいさせろ、というものだ。



私の後ろで、劉裕様が癇癪を起こされている。

内心ではほくそ笑みつつも、私は澄まし顔で、小間使いたちに書類整理の指示を飛ばすのだった。





高祖書素拙,穆之曰:「此雖小事,然宣彼四遠,願公小復留意。」高祖既不能厝意,又稟分有在。穆之乃曰:「但縱筆為大字,一字徑尺,無嫌。大既足有所包,且其勢亦美。」高祖從之,一紙不過六七字便滿。


劉裕の文字は拙かった。これに対して劉穆之は言う。「文字の巧拙など些細なことではあるのですが、ただ、公は国内外に広く語らねばならぬお方。もう少し文字を丁寧にお書きくださったほうがよろしいかと思われます。」だが劉裕は一向に文字を丁寧に書こうとしなかった。そもそもにして文字を書く才能がないのかもしれない。ならば、と劉穆之は語る。「筆の赴くまま、大きく字をお書きなさいませ。一文字の一辺あたり数十センチになっても気にすることはありません。大は小を兼ねるといいますし、それに、勢いのある字は美しいものです。」以降劉裕は劉穆之の言葉に従った。そのため劉裕直筆の文書は、一枚の紙が、わずか六、七文字で埋まるような有様となった。


 ――宋書巻四十二 劉穆之伝より



解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915884

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