【諸葛長民・劉裕】祭已畢焉

 琅邪の諸葛氏は百載の昔、劉曹孫氏の鼎争を大いに彩りたるを誉れとなした。殊に蜀漢の昭烈を扶翼した忠武侯亮、字孔明の清名たるや関張の烈武にも引けを取らぬ程である。而して時が下り、朔方より夷胡の寇掠の難を蒙れば、諸葛の声望なぞ胡馬の蹄に敢無く躙られた。取るものも取りあえず江南にまで落ち延びれば、彼の地にては既に王氏司馬氏の縦横甚だしく、巷間に逼塞するを甘んじねばならなかった。

 男、姓は諸葛。諱は長民。

 長民は思う。琅邪諸葛の累とこそ名乗れど、甚だ懦弱なるを呈したこの家名に今更何程の益があろう。おれの食い扶持には、寧ろ妨げとすらなっているではないか。武だ。夷胡を打ち払うだけの武も無しに、去まし日の虚名を誇って何になる。

 父祖らの南遷に際し、女らが夷胡の辱めを受けた、と聞いたことがあった。真偽は分からぬ。分からぬが、余人を冠絶した長民の体躯を、長民の武を、宗族らが忌んでいたのは知っている。或いは、長民を退けるに尤もらしき理由を求めていたのやも知れぬ。長民は嗤う。それならば、それで良い。おれの武で諸葛の名を翻覆し得れば、甚だ快ではないか。

 夷胡らは相争うが常であった。そこへ王が現れた。名を、苻堅。堅は中原を平定せしめると、更には百万の衆を率い、江南をも蹂躙せん、と南進した。対する王帥は十万にも充たぬ、と言う。凶報に接し、長民は昂勃した。勝算などは基より論ずるにも値せぬ。奮武勇躍し蠻夷誅滅さえ為せれば良いのだ。戮万の果てに矢尽き刃折れ、死地にて果てよう。果てて土中より、鬱々と糊口を凌ぐ諸葛どもを笑い飛ばしてやろう。

 父祖らが尻尾を巻いて逃げ渡った江水を、干戈筒袖に身を固め北上する。淮南は広陵にて都督、謝冠軍の訓示を受け、淮水の畔、洛澗へと次す。彼の地に陣を敷く胡軍前鋒は、物見の報せに依れば、およそ五万。王帥にほぼ互する衆である。正面より当たれば、敗するとはゆかずとも、大きく勢を殺ぎ兼ねぬ。故に冠軍は五千より成る隊を別途編んだ。

 長民は、功に興味があるわけではない。ただ暴れ、殺したかった。故に隊への編入を申し出た。長民と意を同じくするかの如き賊徒が、他にも数十余いた。冠軍は「物好きもいたものだ」と苦笑を浮かべた。

 洛澗強襲を担う隊中にて、長民は三劉に遇った。幾ら宗族を軽侮しようとも、己が諸葛であるを忘れ去るは能わぬ。傑出した劉姓の男どもを見、どうして奮わずにおれたであろうか。

 三劉の一、諱は牢之。洛澗強襲隊の将、龍譲将軍。冠軍の信を得、各軍より士卒らを選り抜いた。三劉の一、諱は毅。五千の内千を束ねる将としてあった。そして三劉の掉尾は、諱を、裕。長民と同じく一兵に過ぎぬ身の上ながら、既にして並外れた人気を負っていた。

 夜半、軍は三つに分かたれた。毅が率いる千、いま一人の将が率いる千、龍譲の三千である。敵陣の東西に千を当て、中央より三千が吶喊を為す。長民は、裕と共に毅の千に組み込まれた。

 夜襲とは言え、十を倍する敵陣へ乗り込むのである。出立を前に怯懦に震えるものも少なからず、いた。長民は呆れ、毅は苛立った。而して裕は容色平静たるを保ち、怯える者ものを手ずから鼓舞していた。ご立派なものだ、長民は思った。

 その裕が、戦場にては乱神と化した。

 長民をして、裕の武は畏怖すら禁じ得ぬものであった。戈を振るわば騎馬諸共を薙ぐ。余りの剛力に、戈が忽ちへし折れる。裕は手慣れた所作にて戦場に転がる得物を拾い上げ、再び豪腕を振るう。

 裕の武を、毅は巧みに機と為した。側に精鋭を付け、怯む胡賊を割き、拠点を築く。拠点を足掛かりとし、更に割く。長民とて一廉の武辺者、退いた敵を前にせば、戈にて大いに刈り取った。闇夜が王帥の全容を匿す中、胡将は周章する卒らへ檄を発し、建て直しを図る。そこへ龍譲三千騎が押し入る。檄は悲鳴にかき消えた。大いに乱された陣中にて、敵将の天幕、その備え甚だしきは、只の目印にしかならぬ。胡将旗は墜ち、寡兵の勝鬨が宵闇に響く。

 長民には、洛澗の一勝が爾後の趨勢をも定めたよう感ぜられた。王帥西進し、淮水に注ぐ淝水を挟み、堅の本隊と対峙。彼の地にても大勝した。世に「淝水の戦い」と呼ばれる、夷胡迎撃の戦である。巷間には淝水に於ける大勝、及び冠軍の神武を以て語り草となっている。但し長民の目に焼き付くは、どうしようもなく洛澗であった。彼の者らとさえ共に居れば、多くの首級も挙げられよう。

 堅を大いに退けたりと雖ど、反攻に討って出るだけの余力はない。冠軍は暫し追撃を掛けると、撤収の命を下した。後日堅は配下に殺された。頭目を失った夷胡は統制なき群狼となり果て、屡々北辺を荒して回るようになった。淝水の後間もなく冠軍は歿し、軍府は龍譲が継いだ。長民は龍驤の元にて度々功を挙げた。毅の采配は利きを増し、裕は更なる烈武を示した。

 内外にて、不断に起こる戦を駆け抜ける。夥しき敵と、数え切れぬ輩の骸の上にて、長民らは一時の酔いに興じた。恰も祭りの如き、心地好き痛み、心地好き悼みであった。

 祭は囂しきを増す。龍譲の武勲は内外に並ぶ者無きにまで高まり、宮中の権勢をも占うに到った。折しも宮中は宰相司馬元顕と大将軍桓玄の二派に割れ、後は龍譲が何れにつくか、であった。龍譲は玄に与するを選んだ。斯くて玄は勝ち、また大権を握るなり龍譲より軍を取り上げた。脅威を排すは軍略における必然である。異図に気付けぬ龍譲が弱く、玄が強いに過ぎぬ。龍譲は決起を志すも周囲を封殺され、逃亡の末、自縊。また玄は旧龍譲府の主だった将らをも戮した。長民らは禍を逃れ、寧ろ将として取り立てられた。

「桓玄に義があろうか」

 裕が輩を集め、低く、よく響く声で、言う。長民、毅も共に在った。赫赫たる戦功を上げた裕は、毅をも凌ぐ地位にまで上り詰めていた。

 龍譲の復仇、のみではない。翹武の軍を得た玄は、その武を恃みとし、宮中より多くの政敵を葬った。剰え帝をも廃し、偽帝僭称の大逆を為したのである。万民は遺帝の旧恩を顧み、嘆き悲しむも、玄の兵に睨まれれば声を上げるも能わぬ。水面下の怨嗟は、日増しに脹れ上がっていた。

 裕は密かに謀を巡らせ、遂には都にて決起、玄を打ち破った。長民と毅は、共に裕の将として功を上げた。辺境に流されていた帝を復し、玄を逃亡先にて討ち果たす。纂逆者打倒は未曽有の大功である。田舎侍に過ぎなかった裕は、一昼夜にして貴顕に上り詰めた。

 長民もまた、甚大なる栄誉を得た。洛澗にて血泥に塗れていた折には夢想だにもせぬ始末である。財貨、邸宅、侍従、美女。あらゆる富が手中に収まる。長民は、大いに笑った。見たか諸葛ども、貴様らが忌み蔑んだ驕児が、いまや一国の重鎮なのだ。長民の元に、宗族らが平身低頭にて歩み寄る。或いは面罵して、或いは杖にて折檻を加えて、その後に小銭を恵む。恩を売る気など毛頭無い。只管嘲らんが為に、恵んだ。

 辱めに堪える者ものの背を見送る。はじめの内こそ、この上なき愉悦であった。然し間もなく、虚しさが長民を襲った。他ならぬ長民が、裕の風下にある。裕の施政は峻厳苛烈である。それこそ面罵の如き叱責を受けることも一度や二度ではない。布衣として共に在った筈の裕とおれとで、どうしてここまでの差が出来たのか。苛立ちを抱えども、腰に提げた剣にて斬り伏せる相手もおらぬ。なんと言うことだ、栄達してみれば、結局のところは息苦しいだけではないか。

 幾度か、毅と酒杯を交わした。元は裕の上官でありながら、今や毅も、長民と同じく裕を見上げねばならぬ。取り留めなき愚痴が、いつしか裕への叛心を育む。宮中には、成り上がりの裕を煩わしく思う者も少なからぬ。恭順の面の裏にて、毅を旗印とした謀議が組み上がりつつあった。

 その毅が、突如、裕に攻め滅ぼされた。

 毅の元より、共謀の名が次々に挙げられた、と言う。裕は察していたのだ。その上で、長民らを泳がせていた。叛の芽が育ったと見て取るや、攻勢に出たのである。裕の動きに、一切の無駄はない。返す刃は、過たず長民をも狙ってこよう。左右が言う。漢高帝に武を以て仕えた彭越は醢とされ、英布は誅された。彭越が滅ぼされたいま、長民が英布に倣わずに済むと、どうして言えようか、と。逡巡の暇はない。とは言え表立って動けば、裕に大義名分を与えよう。長民は懐刀を忍ばせつつ、飽くまで凱旋する裕を歓待する態を取った。仕損じを念頭に置き、逃がした裕を討ち取れるよう、随所に手の者を潜ませる。

 戦地より帰還した軍に、然し、裕はいない。

 読まれていたのだ。裕はわずかな伴を連れ、軍に先んじて帰還していた。長民が出迎え先に気を取られている隙を見計らい、宮城にて態勢を整え、使者を飛ばし来た。

 使者は長民の背後より、宮城への参内を促した。驚愕に崩れ落ちそうになる。器が違う。だが此処で無様な姿を衆人に晒すわけにもゆかぬ。打ち砕かれた矜持をかき集め、踏みとどまり、召喚に応じる。

 宮中にては、幾久しく見る事のなかった破顔の裕があった。

 おれは、負けた。

 裕が強く、おれが弱かった。

 胸中の閊えが外れたかの如き心地である。裕より酒杯が差し出される。受け取り、呷る。一口にて、稀に見る上物であると知れた。なれど、

「洛澗で交わした安酒には勝てんな」

「全くだ」

 暫し、裕と語らった。何者でもなかった頃、共に乗り越えた、幾度もの死線。先を考える事も許されず、その時、その場を如何に生き延びるか。故にこそ、あの酒が染みた。

 長民は嘆じ、一人ごちる。

「祭りは、いつ終わっていたのかな」

 後背より刃が迫り、



現代語訳

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915934

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