【嵆康・鐘会】二分刻の広陵散

乾いた風が吹いている。


衆人の見守る中に、飄然と嵆康けいこうは足を踏み入れ、周囲を見回した。

ぐるりと居並ぶ見物人たち。凍り付いた顔の兄や、友たち。

そして、兵。その手には抜身の剣が握られている。


嵆康は、かすかに口端を吊り上げた。

ざんばらとなった髪と、手枷に、足枷。

強引に連行されてきたため、あらゆる箇所に打ち身、擦り傷がある。中には棒状の痣もある。ただ、あらゆる傷ですら、決して嵆康の顔を苦しみにはゆがめさせない。


雲一つない空を見上げ、嵆康はつぶやく。


「良い日寄りだ」


広場の中央に引っ立てられると、その正面に兵士たちが居並ぶ。


ひとりが竹簡を広げ、嵆康が犯した罪状を読み上げる。不孝、横領、風俗紊乱。その内容が読み上げられるごとに、人々はざわめき、友人たちは怒りをあらわとする――その中でひとり、ひときわ豪奢な衣服に身を包み、うすら笑いを浮かべている貴公士がいた。


「お招きに応じてくださり、感謝しているよ。叔夜しゅくや殿」


男はわざとらしく嵆康の字あざなを呼ぶと、慇懃無礼な礼をしてみせた。


「貴様、鍾会しょうかい! よくもぬけぬけと――」


男に対して激高の声を上げるのは、嵆康の兄、嵆喜けいきである。

とは言え、既にして周辺の友人らに取り押さえられている。

兵士たちが矛を突き付けてくれば、見物人たちは周囲から慌てて退く。


「兄上」


静かに、しかしはっきりと、嵆康が言う。


「良いのだ。それより、約束のものはお持ち下されたか?」


冷や水を浴びせられたようなものだ。

嵆喜の顔よりさっと怒気が引き、渋面が現れた。


「……あぁ」


側仕えを呼び、一抱えほどの包みを持ってこさせる。

包みを解けば、中から出てくるのは、琴、である。


鍾会が手を挙げた。

すると兵士たちが嵆康の側に寄り、手枷のみを外す。

胡床こしょう、いわゆる折り畳み式の椅子を運び込むと、嵆康に腰掛けるよう促した。


「感謝する、士季しき殿」


敢えて嵆康も、鍾会をあざなで呼ぶ。

鍾会の冷たく端正な笑顔に、わずかにほころびが差した。


兄の持ち寄った琴を、兵士の手を介して受け取る。

ぴぃん、と弦を爪弾き、調声を合わせる。

七本の弦につき、二度、三度ずつ。


ようやくすべての弦の音が揃うと、ふぅ、と一息をついた。


「二分刻は頂ける、という話であったかな?」

「ああ。嵆叔夜、最後の歌だ。存分に、慷慨こうがいをお込めになるがいい」

「慷慨か」


くっ、と嵆康が笑う。


「……何がおかしい」

「いや、」


返答の代わりに、嵆康は琴を爪弾く。


「この身一代の晴れ舞台よ。斯様かような雑念に囚われては、歌えるものも歌えなくなる」


二分刻。

一刻を十に分けた時間の、その、二つ分である。

現代の時間に合わせれば、およそ二分五十三秒となろうか。


響かせるは、「広陵散こうりょうさん」。

嵆康が亡霊より奏法を授かったとされる、かれ以外に奏法を知り得ぬ調べだ。


その幽玄なる音に合わせ、嵆康は、歌う。



嗟余薄祜、少遭不造。

哀焭靡識、越在繦緥。

 ああ、我が幸の薄き事よ。

 幼きに父を喪えど、

 憂哀も知らず、

 ただ産着の中にあった。


母兄鞠育、有慈無威。

侍愛肆姐、不胴不師。

 母と兄とに愛され育ち、

 厳しさのさなかにおらなかったため、

 いつしかおごり高ぶり、

 師の下で学びを受けることすら厭うた。


爰及冠帯、馮寵自放。

抗心希古、任其所尚。

 成人し、冠を得たところで、

 生来の気ままさが

 治るわけではない。

 上古の聖人の時代にあこがれ、

 我が理想を、ただ追いかけた。


託好老荘、賤物貴身。

志在守撲、養素全眞。

 老荘を好み、うわべを卑しみ、

 我のただ真なるを求めた。


曰余不敏、好善闇人。

子玉之敗、屢増惟塵。

 しかし、私はおろかであったのだ。

 世知に疎い私が、

 いにしえの人、子玉のように、

 人々より憎み憚られるのは、

 当然のことであったのだろう。



詩の内容とは裏腹に、嵆康の顔は喜びに満ちていた。


我は過ちておらぬ。

過ちたるは、世である。

ひいては、王である。


真なる我を損なわんとする、王。

かれに従う事に、なんの義があろうか。



遂には、鍾会の顔に怒気が現れた。


「刻限だ!」


兵が、嵆康を取り囲む。

そして、四方より、――斬った。


観衆より悲鳴が、歓声が上がる。


琴の弦は切れ、嵆康の口からは鮮血があふれ出る。

嵆康は一度天を仰ぎ、それから周囲を、友を、兄を。


最後に、鍾会を見た。


「士季殿! 泉下でお待ちしておるぞ!」


――再び、嵆康を刃が襲った。



 ○



時にして、の命運が、まさにしんに傾かんとしていた。

失われつつある国の命数を惜しみ儚む者の数は、決して少なくはなかった。


晋氏が、そんな彼らの存在を許しておけるはずがない。

多くのものは捕らえられ、また嵆康の如く、刑場の露となった。


そして晋氏の走狗となった鍾会もまた、身を危ぶみ、反乱を目論むも、失敗。処刑されている。



魏呉蜀ぎごしょくの三国を滅ぼし、天下に覇を唱えるに至った、晋。

しかしその天下は、僅かに二十年ほどでしかなかった。



獰猛なる胡族に攻め滅ぼされ、焼き尽くされた晋の都、洛陽らくようの跡地では、嵆康と共に滅んだはずの江陵散が夜な夜な響いていた、と伝えられている。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915616

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