【司馬炎・司馬攸】播種――乱の兆し


「陛下が玉座に就かれてなお、弟君を称えるものが引きを切らぬようにございます。全く、不届きにございますな」

「そうか」


わざとらしく憤る側仕えに対し、司馬炎しばえんは思う。はて、その噂の出どころは、一体どこからなのであろうな。

どうにも、ちんの目の前が怪しきようにも思うのだが。


言葉に表すわけではない。嘆息をひとつ、玉座に身を沈める。不必要に柔らかな座面と背もたれは、却って司馬炎に居心地の悪さを感じさせる。


曹丕そうひかん献帝けんていより皇位を譲り受けて以来、司馬氏はずっと権臣の立場にあった。祖父の司馬懿しばいが彼を排除せんと目論む皇族を処断して以来、徐々に立場は逆転してゆき、伯父の司馬師しばし、父の司馬昭しばしょうにより、さらなる禅譲の舞台が整えられてきた。

司馬炎自身には、自らの手で何ごとかをなした実感はない。すべての差配は先人によるものである。求められたのは、ただ、受け止めること。それを天に嘉されたるが故である、と開き直れれば、どれほど気楽になれたのだろう。


いまやしんの威徳は、三国志の時代の最後の徒花、をも併呑した。天下統一、世に並ぶことのなき偉業である。だが、司馬炎の心が晴れることはなかった。


「それで? けいゆうについて、いかなる扱いを求めるのだ」


憤っていたはずの側仕えは、今度は満面に悲嘆をにじませ、がばと床に額を打つ。


「陛下と弟君が睦まじくあらせられるのは、衆人の目にも明らかなところ。しかしながら、弟君の徳望がまた、多くの臣民の目を曇らせておることを見逃すわけにも参りませぬ。漢魏より社稷しゃしょくを譲り受けたるは、何よりも陛下あってのことと、はっきりと世に知らしめねばなりません。そのためにも、ひととき弟君には外鎮に当たって頂くのがよろしかろうと愚考いたします」


よう氏の犬が、よくも口が回るものだ。むしろ司馬炎は感心する。


司馬炎の妻、すなわち皇后は権臣である楊氏の娘である。間に生まれた長男は夭折、次男の司馬衷しばちゅうがいま、皇太子とされている。

楊氏としてみれば、司馬炎に失脚されては困るのだ。司馬衷には、何としてでも皇位についてもらわねばならない。その時、初めて楊氏の権勢が確かなものとなる。

ともなれば、その先に待つのは楊氏による簒奪となるのだろうか。伝国の玉璽ぎょくじも、ずいぶんと軽くなったものだ。


「よきに計らえ」


物憂げに呟くと、司馬炎は目をつぶる。思い起こすのは、たった今、実質上の追放を命じた弟――司馬攸のこと。


 ○


権臣の子らは、なまじ半ばの血筋を同じくするだけに、母が違えば、もはや敵である。母親とは、いわば権臣に取り入ろうとする家門の代表。必然、子らの振る舞いにもまたそれぞれの家門の浮沈が関わる。

そのような中、母を同じくする司馬炎と、司馬攸。家門の利害を損ね合わずにおれる間柄ほど、気を休められる相手もいなかった。司馬昭の嫡流としてむつび合う兄弟は、世の称賛の的であった、と言える。


だが、春はいつでも短いもの。


司馬懿の家督と事業を引き継ぎ、強力に推し進めた、司馬師。彼には男児がなく、その後継が常に悩みであった。そのため司馬攸が養子に出されることとなる。ともなれば、将来は司馬攸が司馬氏の家督を継ぐ、かに思えた。

間もなくして、司馬師が死亡。後継としての教育はまるで進んでおらず、そのため家督は司馬昭に渡る。


司馬昭の後継たる、司馬炎。

司馬師の後継たる、司馬攸。


どちらが次の宗家、言い換えれば、皇帝となるのか。名分としては、ほぼ同等であると言えた。故にそれぞれを擁立する派閥の勢力はほぼ五分であった。

とはいえその争いは、ついには楊氏率いる司馬炎派に軍配が上がる。

序列が決まった後も、司馬攸は変わらず忠臣として奉職に当たる。その胸の内を確かめるすべなどない。分かるのは、旧司馬炎派と旧司馬攸派との間に刻みつけられた溝が深まりつつあること、であった。

やがて兄弟は私的に語らい合うことも憚られるようになった。胸襟を開き合えれば、どれほど話が早くなるだろう。しかし、それは許されない。許されないまま、楊氏の手により、着々と司馬攸排除の動きが進む。


お笑いぐさだ。

何が皇帝、何が万騎の統帥。


外地へ赴かんとする、司馬攸。そんなかれが出発の二日後に、悲憤に暮れつつ薨去した、との知らせが飛び込んできた。


「そうか」


司馬炎の心に、後悔はなかった。ただ安堵した。これで弟は、宮中の腐臭から無縁でおれるようになったのだ。

葬礼は皇帝に準ずる式辞にて執り行わせ、また嫡男の司馬冏しばけいには父の爵位食邑を継承の上、手厚く財貨を下賜した。ただし、住まいは飽くまで地方。司馬攸が赴く予定であった地である。


弟の血統が、これ以上の動乱に巻き込まれずに済むように。

無駄なこととは思いつつ、司馬炎は、願う。


 ○


司馬炎の足は、宮廷から遠のくようになる。


向かう先は後宮である。呉の孫晧そんこうを平定した折、その後宮にいた数千もの婦人らを召し上げ、自らのもとに移した。そのため司馬炎のもとには、側仕えも含めれば、一万近くもの人間を抱える女の園が設けられた。


集められたのは、天下に名だたる美人たちである。とは言え、過ぎたるは及ばざるがごとし、の警句がごときである。ややもすれば、いかなる美姫とて司馬炎の興には添わなくなった。


それもその筈である。司馬炎には、これと言って求めるべき欲望がない。求めれば、すべてが叶う立場。だが、そのいずれもが己を己として奮い立たせるには足りない。


無論、中には司馬炎の心の荒涼をすくい上げるものもいた。氏と言う。司馬炎を前にしても臆することなく直言し、また司馬炎の言葉を良く聞き、受け入れる。彼女との時間が、常に公人たらねばならぬ司馬炎の、唯一私人となれるひとときであった、と言えた。


しかし皇帝が、一人の后のみを寵愛するわけにもいかない。胡氏以外の妃のもとにも足を運ばねばならないのである。さして乗り気にもなれない司馬炎は、やがて自らの載る車を羊に引かせるようになった。羊が立ち止まった部屋の妃のもとにゆこう、というのである。


いわば、羊の気まぐれで精を播く相手を決めていたことになる。一門を代表する女たちとして、これ以上の屈辱もありえぬことだ。しかしそれも、子さえできてしまえばよい。子を産み、立派に育て、皇帝の目に留めさせる。そうすれば、一門の繁栄は約束される。


胡氏との間に、子は生まれなかった。その代わり、羊が選んだどこともしれぬ素性の女たちは子をなした。その皮肉は、あるいは天よりの罰であったのか。


 ○


司馬炎は、荒淫の果てに死んだとされる。なした男児は、全部で二十六名。ただし、そのうち元服まで生き延びたのは半数以下、十名に過ぎない。


司馬炎の跡を継いだのは、楊氏の子、司馬衷である。宮中でも暗愚で知られていた彼の即位は、司馬衷の子、司馬遹しばいつに皇帝の器を見出していたためとされるが、司馬炎の子の異常な生存率の低さを含め、そこに楊氏の工作の形跡を、どうして疑わずにおれるだろうか。


司馬衷の後見役として、楊氏は朝政を壟断した。彼らが求めたのは、あくまで一門の繁栄であった。その運営の対象に、国は、臣民は含まれていなかった。宮中に、巷間に、楊氏打倒の機運が高まってゆく。


一方で、皇帝の司馬衷。本人の才能は問題ではない。国を牛耳る楊氏による擁立、ただこの一点により、その権威は著しく粗相されていた。


司馬氏一門、外戚、権臣らによる楊氏排斥の動きがは、そのまま次なる主宰者の地位を巡っての争いともなった。数多もの内乱が絡み合うため、八王の乱と総称される。


この乱における八人の王を大雑把に区分けすれば、勢いの盛んであった宗族がりょうりんえつぎょうの四名。司馬炎の息子、すなわち司馬衷の弟ががいえいの三名。そしてかの司馬攸の息子、冏となる。誰しもが名目上では司馬衷を尊んだが、並べてその扱いは傀儡である、と言えた。


また、この争いを勝ち抜かんと目論んだ越、および穎は、北来の胡族、鮮卑せんぴ匈奴きょうどを陣営に引き入れた。この胡族らが力を蓄え、遂には永嘉えいかの乱にて司馬氏を転覆し、五胡十六国時代を招くに至るのは、改めて論ずるまでもなきことである。


 ○


司馬炎は、大いに種を播いたと言える。


ひとつは、子の。

いまひとつは、乱世の。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054895122632

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