魏晋南北短編集
ヘツポツ斎
魏晋南北短編集
西晋天下統一~
【辛毗・諸葛亮・司馬懿】辛佐治、剛毅なりや
漢中。古来より都として栄えてきた
約五十年前、この漢中を拠点とし、諸葛亮は無謀とも言える北伐を繰り返した。その結果かれは軍旅にて果て、彼の仕える
五十年。幼子すら孫を抱きうる年月である。当時を知る人に巡り会えたのは、僥倖以外の何者でもない。
「あんれ、まだご立派な士大夫さだでよ! オラでっぎりその辺の学生さんがど思っでだっげなもし!」
その激烈な訛りにのけぞりかけつつも、なんとか私は笑顔を保ち、老翁に頭を下げた。
「いんやいんいや、士大夫さに申しわげねえだ」と彼が慌てる。好ましき謙譲の心を感じ取った。立場云々の話ではない。
「この度は突然の申し出にもかかわらず、お時間を下さり、ありがとうございます」
「いいっでば、べっづによぉ! ジジィの昔話で良ぎゃ、いっぐらでもしゃべっだるでな!」
老翁はそう言って自宅へ案内してくれようとした、
……の、だが、申し訳ないながら、邸内よりほんのりと漂う芳香が、やや自分好みとは言い切れなかった。そのためお招きは心苦しくも辞退させていただき、見晴らしの効く丘の上でお話を伺うことにした。
持ち寄った酒を一献振る舞うと、かれの破顔が、ますます盛んなものとなる。
「つっでもまぁ、オラ物見役になっだぐれぇだげんどもな。
おっと。
思わず茶々を入れそうになってしまった。
漢、魏を経て、いま、天下は
かれにとり、丞相とはあくまで「ものすごくえらいおかた」に過ぎないのだ。以前この点をわきまえず、迂闊に口出しをし、ひどい目にあったことがある。
「でっげえ川を挟んでよ、丞相さまの軍と、魏軍が向がい合っでだだ。やづら、さんざこ川向ごうがらマヌケだの、臆病モンだの言われででよ。見るがらに怒っでだっげなぁ」
諸葛亮、最後の
諸葛亮は、都合五度の北伐をなしている。三度目までは魏将
「魏軍は動かなかったのですか?」
「動こう、たぁしてだみでぇだ。けんど、動げねがっだ。いっとう前に、じッさまがつっ立っどっでな。やづらが動ごうどしだら、じッさまがな、ニラむんだわ。そしたらやづら、シュンどしぢまっでよ」
「恐ろしい方もいたものですね」
「んだ! 遠ぐがら見だオラでもわがっだぐれぇだ、あそごにいだ兵っコロにゃ、ぎっどだまんながっだべな!」
そう言うと、老翁がからからと笑う。
よほど当時の情景がおかしかったのだろう。
「では、あなたはそれをしょか……丞相様に、お伝えになったのですか?」
だが、私がそう水を向けると、すぐさま笑顔が萎む。
「いまでもおぼえでるっペな。オラが話しだら、丞相さま、がっくりとしで、おっしゃっただ、さじか、っでな」
さじ。
私の中で、老翁の話がつながってきた。
司馬懿様と諸葛亮の、この対陣。
常々、司馬懿様は諸葛亮を過剰に意識しているフシがあったそうだ。そのため当時の魏帝、明帝は、司馬懿様がうかつに戦端を開いてしまうのではないか、と懸念していたそうである。
そこでお目付け役とし、
と、ここで老翁が思案顔になる。
「なぁ、士大夫さ。いまでも気になっでるだ。あんどぎ、オラが見だジさま、やげに重そうな金ピカのマサカリ持っでだだよ。丞相さまにそれ話しだら、もっとがっぐりさせぢまっだ。オラ、なんが悪いごど言っじまっだがな?」
「金の、ですか?」
「んだ」
はて。
唐突な振りに、どう返したものかで迷う。
重そうなまさかり、色は金、諸葛亮が……
条件を並べ立て、推測を進める。
と、それらが、ありえない形で結びついてくる。
「ご老人、一つ伺いたいのですが」
「なんだべ?」
「そのマサカリは、やけに複雑な模様が刻まれてなどおりましたか?」
「んー、どうだべ、たぶん……まぁ、あれで木を切れっで言われだら、まんずこどわるっペな。オラの腰がひん曲がっじまう」
と、すでに十分曲がっている腰を叩きながら、ガハハと笑う。
なるほど、そういう事か。
結びついた推論、その破天荒さに、思わず噴き出しそうになる。いやいや、まさか……けれど、史料に残る司馬懿様、そして辛毗様の性分を思えば、あり得ぬことではない。
「では、ご老人。少し、軍のしきたりのお話しになりますが、よろしいか?」
「んぁ? 教えでぐれんのが?」
「ええ。もっとも、私も予測でしか語れませんが」
「なんでもええだ! 丞相さまが、何にがっくりなさっだが、教えてくんろ!」
今にも食いついてこんばかりの勢い。
その振る舞いに、諸葛亮がどれだけ慕われていたのかを実感する。そんな良いものでもあるまいに……まぁ、それはいいだろう。
「まず、さじ、とは魏軍のお目付け役です。その、さじ、が、魏軍の大将に攻撃できないようにしていたのです」
「攻撃でぎねぇ? なんでだ?」
「大軍って、面倒なものでしてね。戦うのは、将軍ではありません。あくまで王様です。将軍たちは、その代わり。実は丞相様も、陛下の代わりに戦っておられました。そして敵軍も、同じように魏王の代わりに戦ったのです」
「……む、ややっごじいな」
「本当に。ともあれ、そのさじ、が持っていたもの。
「ただがえねぇ、が?」
「仰る通り。おさすがです」
老翁が少し嬉しそうに頭を搔いた。
が、すぐにその手が止まる。
「けんども、そんな大事なもん、ほいほい取れんのが? オラだっで、大事なもんはしまっどぐぞ? 取られだら怒るしよ」
「ですね。けど、さじは取っちゃったんですよ。どうやったのかはわかりませんが。そしたら大将は、戦いたくても戦えなくなります。黄鉞がないなら、王の代わりじゃありませんから」
黄鉞は、それを持つ者に処刑権を委ねる。つまり戦時中であれば、誰を殺そうがお咎めなしということだ――もちろん、勝利のための方策としての殺害であれば、という但し書き付きだが。
そんな黃鉞を盗む、などといった振る舞いは、いわば反逆行為に等しい。一切の審問なく、即斬り殺されてもおかしくないほどた。
だというのに、辛毗様はそれをやってのけられた。
「さじは恐らく、自分が殺されるかどうか、など考えていなかったのでしょう。そんな事よりも、魏軍に攻撃させないように、を考えた。それくらいしなければならないほど、いつ魏軍が動いてもおかしくなかったのでしょう。つまり丞相様の作戦は、ほとんど成功していました。魏軍が攻撃してきたら、勝てる自信があったのでしょうから。なのにそれを、さじ一人にダメにされたのです」
ほうほう、と老翁がうなずく。
どこまで理解してもらえたかはわからない。が、本人なりの納得はしてもらえたようで、そこは安心した。
その後二、三の事を聞き、礼を述べた後、場を辞した。私の姿が見えなくるまで、老翁はずっと見送ってくれた。
伺った内容を書き留めつつ、思う。
かの老翁のようなお方が、あえて話を盛られたとは、さすがに考えづらい。ならば辛毗様が、司馬懿様より黄鉞を盗み出してしまっていたのは、おそらく本当のことなのだろう。
黄鉞が軍権そのものであるはずがない。が、軍権の象徴を蔑ろにするのであれば、巡り巡って皇帝への不忠を疑われても仕方のないこととなる。ただでさえ当時、すでに魏国いちの権臣となっておられた司馬懿様である。些細な不忠の根拠とて、政敵に付け入られる隙となってしまう。
辛毗様がそのことを承知されていたか否かは分からない。いずれにせよ、当時の辛毗様がそのお命より、魏の勝利を優先なされていたのは間違いのないように思う。そして結果として諸葛亮は死に、司馬懿様は、勝利された。
とは言え、これらを聞いたまま歴史書に残してしまうのは、いくらなんでも劇的にすぎよう。事実は虚構より奇である、とよく言われている。それにしても、この話についてはいささか出来が良すぎよう。
故に私は、この話を、以下のようにのみ書き留めておこうと思う。
諸葛亮率衆出渭南。先是,大將軍司馬宣王數請與亮戰,明帝終不聽。是歲恐不能禁,乃以毗爲大將軍軍師,使持節;六軍皆肅,準毗節度,莫敢犯違。
(諸葛亮が軍を率いて渭水の南に陣取った。大将軍の司馬懿様は何度も出陣しての決戦を明帝に願い出たが、明帝は最後まで聞き入れなかった。とは言え、いつ命令違反をして司馬懿が飛び出てしまうかもわからない。そこで辛毗を大将軍軍師として派遣。指揮権を握らせた。辛毗が到着すると全軍が粛然とし、以降無闇に飛び出そうとする者はいなかった:
――
解説
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915646
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