エピローグ、それとプロローグ

「三限行く?」

「あー、どうしよっかな。お前は?」

「サボるから聞いてんだよ。ダーツ行かね?」

「んー、いいよ」


 食堂で一杯三二〇円の醬油ラーメンを啜りながら、そんな話をする。

 あれだけ憧れていた東京の大学生は、いざなってみると思い描いていたのとは少し違う。待っていれば、ただ時間を貪っていれば刺激的な何かが得られるなんてうまい話はない。僕らは味の薄いラーメンを毎日のように食べながら、いつも授業をサボる話ばかりをしている。


「他誰か誘う?」

「どっちでも。そもそも三限ってなんだっけ?」

「さぁ、何だっけ。てかあの授業出たことなくね?」

「僕は最初だけ出たよ」

「そうかよ」


 ラーメンを食べ終わり、僕とそいつは大学を後にする。電車に揺られて五分。駅前の繁華街の端にあるダーツバーへと向かう。

 昼間っから酒を飲み、面白いかもよく分からない冗談を言い合ってはデカい声で笑い、的に矢を投げる。運か実力か、的の中心に吸い込まれるようにして矢が刺さり、台の上にあるモニターに〝BULL!〟の文字が躍る。


「うぇーいっ」


 僕らはハイタッチを交わす。スミノフを呷り、卓の上に置いてある煙草とライターを手に取る。ソフトケースのなかは空っぽだった。僕は空のソフトケースを小さく握り込み、灰皿へと突っ込む。一投目を見事に外してみせた友達に、煙草を買ってくると告げる。


「俺の吸っていいぞ」

「やだよ。メンソール苦手なんだ」


 ダーツバーでも煙草の販売はしていたけれど、置いてある自販機で買うにはタスポが必要だった。まだ一九歳になりたての僕がそんなものを持っているはずもない。仕方がないので店を出てコンビニを探すことにした。

 ここは都心の繁華街。三月まで住んでいた田舎と違い、コンビニを探すのに苦労したりはしない。僕は店員に番号を告げ、一箱五六〇円の煙草を買った。

 あの頃はただ何となく寂しくて、あるいはこれを吸ったなら大人になれるような気がして、手を出した煙草。吸うたびに咽ていたはずが、いつの間にか喉と胸のなかで引っ掛かるいがらっぽさも感じなくなった。

 たぶんそれは、あの恋が終わっていった証拠だった。

 僕は高校一年の冬、あの屋上で先輩に出会った。鈴を転がしたように笑う先輩。僕をからかっては楽しむ悪趣味な先輩。生徒会長でありながら、さも優等生みたいな顔をして煙草の煙を燻らせていた先輩。

 好きだった。だけど僕なんか最初っから相手にはされていなくて。

 先輩が卒業していく日、僕は気持ちを伝えることすらできず、それどころか「おめでとう」の言葉をかけることさえできずに、失恋した。

 僕が煙草を吸い出したのはその頃だ。先輩が遠距離恋愛の彼氏を想って吸っていた煙草を、僕は先輩を想って吸い始めた。

 何が楽しくて煙なんかを吸うのか分からなかった。別に吸って楽しいものではなかったし、もしバレれば大目玉なので臭いの処理には殊更に気を遣わなければならない。面倒なことのほうが圧倒的に多かった。

 だけど僕は煙草を吸った。

 煙のなかに微かにだけど先輩を感じることができるような気がしていたから。

 女々しい僕はそうやって、高校生活の残り一年を過ごした。先輩が進学した東京の大学に行けるよう勉強し、親を説得した。別に会いたいとか、先輩とどうにかなりたいとか思ったわけじゃない。

 ただ先輩がいなくなった日常が思いの外空っぽで、僕は先輩の影を追いかけることで前に進んでいる気になりたかっただけだった。

 ダーツバーに戻ると、僕らの卓には女の子が二人増えていた。俺が戻ると友達が手を振り、女の子たちを紹介する。要はナンパしたらしい。

 どっちも一つ上の女子大生。先輩と同い年。

 あの頃はひどく大人びて見えていたはずだったのに、こうして一緒にダーツをしたり話したりしていると、それが幻想だったのだと気づく。いやあるいは、僕はあの頃憧れていた先輩に追いつくことができたのだろうか。

 それから僕たちは何ゲームかダーツをして遊び、酒を飲み、夜までカラオケに行った。そのあと、友達は女の子の一人と二人でどこかへといなくなり、僕は名前もうろ覚えの女子大生と繁華街の片隅に取り残された。女の子の方はたぶん帰りたくなさそうな顔をしていたけれど、僕は問答無用で彼女を帰した。僕は別に、そういうことがしたいわけじゃなかった。


   ◇


 大学に来てまずすることと言えば、校門の近くにある喫煙所へ立ち寄ること。ここに寄ればだいたい見知った顔がいる。もちろん最初はそんなこともなかったけれど、タバコミュニケーションとはよく言ったもので、半年近く足を運んでいるうちに先輩同級生問わず知り合いは増えた。


「うぃー、お疲れ」


 てきとうな挨拶を交わして、スケートボードを抱える先輩と拳をぶつけ合う。手を振ってくる金髪マッシュのサブカル女子には手を振り返しておく。

 話す内容はまちまちだけれど、共通しているのはどうでもいい内容であること。たとえば授業が怠いとか単位がやばいとか。昨日どこで遊んだ、バイトを辞めたとか始めたとか。男だけの場合はここに風俗に行ったという下世話なトークがぶっ込まれることがままあるが、今日は女子がいるのでそれはない。

 喫煙所は学生以外にも教授や職員も利用する。我が物顔でスペースを占有し、デカい声で喋る僕らの隣りで、彼らは粛々と煙を燻らせている。

 先輩たちが授業へと行くのを見送る。入れ違いにあいつがやってくる。


「よお」

「お疲れ」


 自分で言ってふと思う。まだ来て間もないのに、どうして「お疲れ」なのだろう。まあ大学に来るのはそれなりに気怠いルーティンではあるが、二十歳そこそこの若い身体が疲れるほどのことではない。

 考えても意味はないのだろう。世の中はそういうよく分からない流れみたいなもので大部分を構成されている。その流れになんとなく迎合し、物事を深く考えなくなることが、たぶん成長と呼ばれるのだ。


「なあ、聞いた? ここの喫煙所閉鎖だって」


 友達が煙草に火をつけながら言った言葉に、僕は目を丸くする。風俗嬢の顔やスタイルの話よりもずっと大事な問題だ。


「は? それ本当?」

「マジマジ。なんか、九番校舎の裏だけになるらしい」

「うわー……肩身せま」

「時代だよな」

「そのうち電子タバコオンリーとか言い出しそう」

「乗り換えどきかぁーっ」

「僕は抗うぞ」


 仮にあの頃の屋上で、先輩が吸っていた煙草が電子タバコだったら、僕は真似して吸ってみただろうかと考えた。

 たぶん答えはノーだろう。高校生の僕が少ないバイト代で五〇〇〇円もする電子タバコの機材を買うのはハードルが高いし、何より風情がない。古くから愛されてきたものには愛されてきた理由がある。そしてその古臭い――よく言えばクラシックな趣きは嗜む人間をエモーショナルな気分にする。デジカメがあれほど普及してもフィルムにこだわる人がいたり、電子書籍の便利さを理解しつつも紙の本が廃れないのも、きっとそういう理由だろう。


「ここで吸える煙草、あと何本かな」

「これが最後の一本だ。……味わえよ」


 僕が演技じみた調子で言うと、そいつは神妙さを滲ませてそう返す。


「最後の一本は嘘だろ」


   ◇


 それから一カ月足らず、僕らが使っていた校門横の喫煙所は封鎖された。

 ちなみに広大なキャンパス内に唯一残された九番校舎裏の喫煙所というのは、おおよそ構内の外れに位置しており、かなり使い勝手が悪い。それでも僕らは律義に喫煙所に赴いて煙草を吸う。校舎の屋上でこそこそと煙を吸ったり吐いたりしていたあの頃とはもう違うらしかった。

 同じような従順な喫煙者たちのおかげで、九番校舎裏は常に人でごった返している。元は四つあった喫煙所の利用者が、この場所へ一手に集められているのだから当然だった。

 僕は人の間をすり抜けて喫煙所の奥へと進み、縮こまりながら煙草に火を点ける。周りの人との距離が近いので、僕は煙をかけてしまわないように上を向いて吐き出す。

 窮屈なもんだ。

 溜息を吐いて前を向き直すと、ちょうど僕と同じように人の間をすり抜けてやって来た女の人に目が留まった。

 何千人といる学生。ただっ広いキャンパス。

 それでも僕は煙草さえ吸い続けていれば、いつかこうなる予感がしていたのだ。


「先輩」


 僕が言うと、煙草を取り出そうとハンドバッグのなかを漁っていた女の人は顔を上げて目を丸くした。その黒くて綺麗な目には、僕が映っている。

 長かった髪は肩のあたりで切り揃えられ、ほとんどしていなかった化粧も赤いリップが目を引くすっかり都会的な感じ。制服から黒いハイネックのニット、紺色のロングコートと先の細いブーティなんて格好になったせいか、やっぱりひどく大人びて見えた。


「先輩」

「もしや後輩くん?」


 先輩は驚いた顔のまま、僕がよく知るあの頃のままの笑顔でにっこりと笑った。


   ◇


「まさか君が煙草吸ってるなんてねぇ」


 先輩は楽しそうに言って、煙を吐き出す。電子タバコだった。もうこの銘柄じゃないんですね、とは言えなかった。


「驚くのそこっすか?」

「うん。だって身体に悪いぞって言ってたからね。なんで?」

「いや、まさか同じ大学来てるなんてねぇって驚くとこでしょ、普通」

「わはは。確かにそうかも。でもね、なんとなく君はこっちに進学するだろうなって思ってたよ」


 先輩はいたずらっぽく笑う。この見透かした感じも、あの頃のままだ。そして手を伸ばせば、ひらりと身を翻してどこか遠くに行ってしまうのも、たぶんあの頃のままだろう。


「何すか、それ」

「なんとなく、ね。もうこっちは慣れたかい?」

「まあもう半年経ちますからね」

「そうかぁ、早いもんだねぇ」


 先輩は言って、煙を吐く。僕も倣って煙を吐く。

 それから僕と先輩はあの頃から今日まで、会うことのなかった日々の話をした。だけど先輩は電子タバコに変えた理由を言わなかったし、僕もわざわざ訊くようなことはしなかった。卒業式の日に見た彼氏とはもう遠距離じゃなくなったからこの煙草を吸う意味がなくなったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。そうじゃないことを願ってしまった自分に気がついたから、僕は言葉と気持ちと一緒に煙を吸った。

 話しているうち、僕の煙草が先に灰になった。まだ話していたくて、僕はすかさず二本目に火を点ける。


「あ、その煙草。懐かしいー」


 僕が触れずにいた話題を、先輩はあっさりと自分から突いた。たぶん僕が煙草を吸い出した理由も見抜かれたので、急激に恥ずかしくなった。案の定、先輩は含みを持たせた笑顔で僕を見ている。


「なんすか」

「いいえー、何も?」

「何もない人はそんな顔しないんすよ」

「君ってさ、可愛いところあるよね。昔から」


 たぶん一生かかっても先輩には叶わない。追いつけない。僕はその途方もない距離を想って、溜息を吐く。先輩は僕の肩のあたりを人差し指で突く。


「わたしは嫌いじゃないぞ、そういうとこ」

「からかうのやめてくださいよ」


 僕は先輩の手を掴む。その拍子に先輩はよろめいて、あろうことか僕の身体にもたれかかった。僕のすぐあごの下に先輩からは爽やかな香水と、それからあの頃とは違う煙草の匂いがした。


「ちょ……す、すいません」

「わはは。ごめんごめん」


 先輩はすぐに体勢を戻し、乱れた髪を細い指で梳かす。僕は僕で先輩をまともに見ることができなくて、やたらと深く煙を吸い込んだ。


「意外と力強いんだね。わたしを押し倒すとはなかなかのものだ」

「なっ……! 押し倒……いや、ほんとすいません」

「謝ることはないさ。というか、ちょっかい出したのわたしだし」

「まぁ、そういやそうっすね」


 なんとなく気まずかった。心臓が激しく脈打っていた。静めようと思って深呼吸をして、鳴り続ける鼓動に耳を傾ける。

 二つ。

 ほとんど重なるように、だけど二つ。とくとくと脈打つ鼓動と、ほんの少し浮き立つような息遣いが聞こえる。


「ねえ、先輩」

「んー、何だい後輩」


 僕は隣りの先輩を盗み見る。足元を眺めている先輩の横顔――髪の間から覗く耳はほんの少しだけ赤かった。たぶん寒さのせい。だからこれから言うことは、久々の再会に舞い上がったカッコ悪い僕の、盛大な勘違い。


、あの頃、先輩のこと好きでした」

「……知ってたよ」


 先輩はほんの少し間をおいてから、妙に色っぽい、少し掠れた声でそう言った。


「知ってたんすか。悪い人っすね」

「ほら、わたしって不良だから」

「とんだ生徒会長じゃないっすか」

「それで、今は?」

「はい?」


 僕は思わず先輩を見た。僕を見上げる先輩の顔は思いの外近くて、瞳は僕の全部を見透かそうとするように真っ直ぐに僕へと向けられていた。


「それで、今はどう?」


 たぶん先輩は、僕をからかっている。きっとあの頃と同じ。もし僕が手を伸ばせば、指の隙間をすり抜けるようにして先輩は身を翻して離れていくのだろう。

 あの頃の僕はただ蹲るしかなかった。隠れて煙草を吸ってみたりして、たゆたう煙のなかに終わった恋と先輩の面影を探すことしかできなかった。

 なら今は、どうだろうか。先輩が身を翻しても、今度はしっかりと追い駆けられるだろうか。僕は少しくらい、変われているだろうか。


「ほんと、悪い人っすね」


 僕が言うと、先輩は笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

くたばれ、青春 やらずの @amaneasohgi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ