shade of love
久しぶりに、君から連絡が来た。
スマホのロック画面に表示された君の名前にほんの一瞬だけ胸がときめいて、だけど私の指はそのメッセージを開くことを躊躇する。
ときめいてしまったことが悔しくて。連絡が来たことが嬉しくて。たったそれだけのことで一喜一憂している自分が馬鹿みたいで。
わざとらしく少しの時間を置いてから私は君のメッセージを開く。「久しぶり」という挨拶のあとに続くのは、ほとんど一年ぶりとは思えないほどに気安い文章。
『あの、二人でよく行っていたケーキのお店、名前何だっけ?』
君の横顔の隣りに浮かぶ吹き出しがそんな文字を躍らせる。
私はすぐにお店の名前を打った。そして消した。
誰と行くの? そう打ってみて、やっぱり消した。
たぶん男同士では行かないよね。新しい彼女かな。それとも次の恋の相手かな。もちろんそんなことは訊けない。文字を打つことすらできやしない。
そのお店は、私たちの思い出の場所の一つだった。君と過ごした時間が残っているような気がするから、別れたあと一度だって足を運べない場所だった。
私、あそこのチーズケーキ好きなのに。
もう一年も、食べられていないのに。
だけど君はそんな私の気持ちを知りもしない。まるで私たちが過ごした時間に思い入れなんてなかったみたいに、大切だったはずの思い出を塗り替えようとしている。
君のそんな無神経さがやっぱり嫌いで、その無神経さにいちいち傷つく私が嫌いだ。
『ひさしぶり!』
意味のないエクスクラメーションマークに、心をかき乱す色んな気持ちを閉じ込めて。
私はもう一度、お店の名前を打ち込む。
そうやって何でもない振りをして、送信ボタンを押した。
本当は無視してやればいい。知らないと突き放してやればいい。
だけどできない。なんて愚かなんだと嘆きながら、お店を教えてあげるくらいならと、私は都合よく来た連絡に都合良く返事をしてしまう。
私は、そんなほんの少し情けない自分がどうしようもなく嫌いだ。
◇
私たちの恋は交差するいいねと一通のメッセージから始まった。
いわゆるマッチングアプリ。
とは言え私は彼氏が欲しかったわけでも、セックスの相手を探していたわけでもなくて、周りの友達がやってるもんだから流されるままになんとなく始めたにすぎなかった。
友達同士の会話のネタにはなるけれど、それだけ。画面から滲んでくる獲物を探すようなギラつきが苦手だったし、下心を見え隠れさせながら繰り広げる会話も何だか面倒だった。元々まめじゃない私はすぐに放置気味になって、週に数回しかアプリを開かなくなった。
そんなときだ。溜まっていたメッセージの一番上に、君からのメッセージを見つけた。
同い年の大学生。写真の顔は少し遊んでいる風で好みじゃなかったけれど、送られてきたメッセージがひどく他人行儀で礼儀正しくて、アプリでは珍しく好感を持てた。
私は君に、同じように他人行儀でかしこまった返信を送った。
話してみて気がついたのは、まるで生き写しみたいに、性別以外の全部がそっくりだということ。
好きな食べ物。嫌いな食べ物。好きな映画。最近観たアニメに、旅行で行ってみたい場所。お互いに兄弟姉妹の一番上で、小さいときはおばあちゃん子。人混みが苦手で、ラーメンは絶対に醤油豚骨。虫が嫌いなのに自然が大好きなところや、得意じゃない辛いものを無理して食べるところも同じだった。
言うなれば、男版私。
私たちは毎日のように、気がつけば朝陽が上るまでメッセージを送り合っていた。
どちらからともなく会う流れになったことにも不思議はなかった。
待ち合わせ時間のぴったり五分前にやってきた君は、メッセージの印象通りに丁寧で穏やかな人だった。
君は出会いを求めてマッチングアプリをやっていると言っていた。目的は違ったけれど、そんなことは些細な問題だった。私と君を結び付けてくれたアプリに感謝してさえいた。
会えない間も君のことを考えた。君もそうだったらいいと思った。君からの返信を待っている時間が苦しかった。だけど同時に幸せでもあった。
それは恋だった。
三回デートをして、君のほうから告白された。返事は決まっていた。
付き合うことになった私たちは付き合う前と変わらず、夜遅くまでLINEや電話で話し込み、たまにデートに出掛けた。似た者同士である君と過ごすのは、余計な気遣いをする必要がないからか、すごく快適で、君もまた同じようなことを考えていたのだと思う。
私が思っていることは君も同じように思っている。
君が思っていることは私も同じように思っている。
その安心感が、微妙にずれて歪んでいく私たちの関係の変化に気づく感性を鈍らせていた。
そして気づいたときにはもう、私たちは簡単に、取り返しのつかない一線を越えていた。
「俺たち、なんか、付き合ってる感じあんまりしないよね」
付き合ってから半年が経って、君は私にそう言った。
行為の後だった。シーツに包まる私に背を向けて、君は煙草を吸っていた。
君が喫煙者だと知ったときはイメージと合わなくて驚いた。私は元々煙草の臭いが得意じゃなかったけれど、君の匂いだから好きになった。煙草の残り香のするキスだって、好きになった。
「まだ半年なのにさ、夫婦みたいじゃん」
それの何が悪いのか。
私は言葉にすることはできなかった。
つまりはもっとドキドキして、熱にうなされるような恋をしたい。君が言いたいのはそういうことらしかった。
「他にいい人でも見つかったの?」
面倒な女にはなるまいと、そう思っていたけれど、私の口を突いて出たのはそんな言葉。もちろん君が同時進行で別の女の子を口説くような人でないことくらい分かっている。分かっているのに、私は面倒くさくて嫌な女だった。
君はほんの少し眉をしかめ、灰皿に煙草を揉み消す。
「そういうことじゃなくてさ」
「そういうことじゃないなら、どういうことなの」
「たしかに気も合うし、一緒にいて楽だし、好きなものも似てるけど、それと好きかどうかはまたちょっと違うっていうか」
君は困ったように、言葉を曖昧に濁す。困らせるつもりはなかったけれど行き場のない感情は止まらなかった。私の両手はシーツをぎゅっと強く握る。
「なら、あの告白は何だったの」
「好きになると思ったんだ。でもそうじゃなかった」
所詮は付き合って半年。しかも出会いはマッチングアプリ。たとえこの上なく気が合ったとしても、本気になるにはまだ気持ちの底が浅かったということなのだろう。
「俺たち、そんなに合わないんだよ」
それは決定的な言葉だった。私たちを繋いでいたはずの無数の記号を一瞬にして全て崩れ去せていく言葉だった。
相性がぴったりだと思っていたのは私だけ。
本気で好きだったのも私だけ。
そう思ったら涙が溢れた。
たとえ半年でも、マッチングアプリでも、底が浅くても。私は君のことを本当に好きだったのだと今この瞬間に気づかされる。
シーツに顔を埋めて泣く私を、もう君は慰めてはくれなかった。視線を逸らすように俯いて「ごめん」とだけ言った。
ホテルの部屋のなかには、君の煙草の匂いがまだ残っていた。
それから連絡を取り合わない二週間が流れ、やっぱり君は私に別れを告げた。
私の気持ちが変わらないのと同じで、君の気持ちも変わらなかった。
ただ好きという気持ちだけが、私と君のなかで噛み合わなかったのだ。
◇
君からの返事はすぐに戻ってきた。お礼を言われ、チーズケーキが美味しかったよねとか、この前観た映画の感想とか、最近何してるのとか、そんな他愛のないやり取りをした。
相変わらず会話のテンポは心地よくて、話している内容もすごくしっくりくる。
自分が美味しいと思えるものを美味しいと思ってくれて、自分が面白いと思ったところで同じように笑ってくれる。たったそれだけのことがどれほどに居心地のいいことか、きっと君に会わなければ一生気づくことなんてなかったのだろう。
君のことを本気で好きだった。私の大切な恋で、辛い失恋だった。
別れてからも時々君のことを思い出した。
照れくさそうに笑う顔。一緒に食べたチーズケーキ。二人して号泣した映画。煙草の匂いをまとうキス。
たとえあの日のあの一言が思い出たちを否定しようとしても、私が感じた幸せは本物で、君と共有した時間も本物だ。その果てで私に残ったものが失恋の傷だけだったとしても、私は君と過ごした半年を大切に思っている。大切に、大切に、思い出のなかに仕舞い込んでいる。
だからこそ、私は君の連絡先を消さずにいた。綺麗で幸せだった日々があったから、もしかしたらまたいつか戻れるときがくるかもしれないと、そう思って。
『俺たちほんと気は合うよね。友達としてだったら、上手くやれてたかな』
やり取りの最中、君がそう送ってきた。
一体何を思ってそう送ってきたのだろう。一緒に過ごした日々が急に懐かしくなったのだろうか。それとも一年前の別れは仕方のなかったことだと私に確認するためだろうか。
私もね、気付いたことがあるの。
一緒に過ごした日々の尊さは変わらない。感じていた幸せも変わらない。君に会えない寂しさも、君に振られた苦しさもあのときは紛れもない本物だった。
だけどずっと引き摺っていると思っていた失恋の傷はもうとっくに癒えていた。
まだ未練が残っていると思っていた君は、もうただの男の子になっていた。
君のことが好きだった。だけど今はもう好きじゃない。私が大好きだったのは、過去の君。
私にとっての今の君は、気の合うだけの男の子なんだ。
〝そうかもしれないね〟
私は心のなかで独り言ちるだけ、メッセージは打たなかった。代わりに打ち込んだメッセージを君に送信する。
『どうだろうね』
送ったメッセージに既読がつく。君の返信が来るよりも先に、私は君をブロックした。
もう返事を送ることはない。君からのメッセージが届くこともない。
これでよかった。
さようなら、あのときの私。
さようなら、好きだった君。
一年越しの失恋に、もう流れる涙はない。煙草の臭いもしない。
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