靴箱の中・素敵な答え

江戸川ばた散歩

ある日突然

 僕等がそれに気付いたのは、事が起こった翌々日のことだった。

 気付かなかったのは、久々の連休に浮かれていた恋愛ピーク期の恋人同士にとっては当然と言えよう。

 前々から約束していた。二人でひたすらだらだらいちゃいちゃしようと彼女の部屋に転がり込んでいた。

 時間は関係無かった。携帯の電源は切っていた。部屋の電話は留守電にさせてもらった。TVのスイッチも切っていた。

 そこにあるのは、僕と彼女だけだった。それだけで充分だった。


 だから気付かなかった。僕等以外の全ての生き物が、いつの間にかこの世界から消え失せていたということに。



「何が起こったっていうのよ」


 気付いた時、彼女は大きな目を更に大きくして叫んだ。

 TVもラジオも波の音、何処の誰にも電話はつながらない。外は静か。どうしようもなく、静か。車の音、犬の吠える声、近所の子供達、音楽、けたたましい街宣車、電車の通る音、アナウンス――― 何も、聞こえてこなかった。

 耳が痛くなる程静かな空間。そうかそういうものか、とひどく良く理解できた様な気がした。


「ねえ一体、どうしたっていうのよ」


 彼女は僕の身体を揺さぶった。両腕を掴んで、目を凝らして、時々首を左右に振って、ねえねえねえねえねえ、と僕に詰め寄った。


「判らないよ僕にも」

「もう!」


 そう叫ぶと、彼女は僕を突き飛ばし、部屋から飛び出して行った。僕は彼女の後を追い、エレベーターの前で捕まえた。


「落ち着いて」

「できる訳ないわよ! あなた平気なの?」


 僕は困った。平気だったし。だってここに君が居て。どうして僕がそれ以外の事で動揺なんかできる?

 とれあえず落ち着かせよう、と彼女に軽い睡眠薬入りのホットミルクを呑ませた。

 彼女が寝付いた後、僕は改めて外に出てみた。

 ざわ、と近くの街路樹が風に揺れていた。

 やけにリズミカルな音が聞こえると思ったら自分の足音だった。

 風の音、木々の音、自分の足音、他には何の音もしない。

 近くの家をそっとのぞき込んだ。

 犬小屋があった。首輪があった。首輪だけがあった。エサが残っていた。首輪だけが残されていた。

 もうしばらく歩くと、車が止まっていた。キーがついたままだった。そんな車を時々見かけた。チャイルドシートがついたものもあった。

 行きつけのコンビニに入った。重い扉を手で開けた。やはり誰も居ない。店内にいつも流れている喧しい音楽も無い。

 そう言えば金を持っていなかった。まあいいか。僕はそのままレジの中へ回り込み、一番大きな袋を引っぱり出し、パンとおにぎりとデザートと飲み物、幾つかの袋菓子を詰めて外に出た。

 やはり風の音ばかりだった。


 起きて、と。彼女を呼ぶが無理だった。僕はしばらく彼女の寝顔を見ていた。そのうち何となく布団の中に手を入れた。温もり。浅い眠りの中に居た彼女は僕の手を掴む。僕は何も言わず、そのまま中へと入って行く。



 だらだら。

 そんな日々が一週間ほど続いただろうか。

 起きて、本を読みながら食事をし、彼女を抱いて、本を読んで、食糧を調達に行き、本を読んで、二人で食事をし、また彼女を抱き。

 やがて彼女は言った。


「あなたって変」

「何が?」

「どうして平気なの?」


 問いかけの意味が判らなかった。


「誰も居ないことよ。あなたあちこち見てきたんでしょ? 私だって時々起きたわ。テレビ点かないスマホは通じない、実家や警察へも通じないし、窓の外は静かだし、犬の声はしないしいつもやって来る猫も見えないし」


 目が合った。咎める様な視線が僕を刺した。


「考えはしたよ」

「考えただけ?」

「いくら考えても答えなんて出ないし。ねえ、僕等にできることなんて何も無いだろう?」


 彼女は微妙に困った顔をした。



 次の朝、彼女は僕と一緒に起き出して風呂に入り着替えをした。

 テーブルについて朝食をとった。ぱくぱく。

 コンビニで昨日も見かけた丸い、胡麻つきのパンをトースターに入れると、軽く焼いてその一つにバタを塗った。別の一つにピーナツバタを塗った。また別のものにブルーベリイジャムを塗った。

 ミルクティを入れたら、がぶがふと呑んだ。おかわりと言った。そして言った。


「探しに行きましょう」


 探しに? だが何を。そんな僕の表情に気付いたのか彼女は怒鳴った。


「人間よ。居るはずよ絶対。私達だけのはず無いわよ。ねえそうでしょ?」


 同意を求められ、仕方なく僕はうなづいた。彼女のお願いなら仕方がない。



 彼女は意外な程その日から活動的になった。ねえねえこれこれ、と車を見せてきた。彼女のいつも乗っている軽自動車ではない。


「どうしたのそれ」

「鍵がついてたから。失敬してきたわ」


 トランクの中に中身も詰まっていた。水や食糧。コンビニかスーパーからだろう、と僕は推測した。何が必要なのか。そういうのは彼女の方が詳しい。


「必要でしょ? ああ、運転は交代でね」


 彼女は苦笑した。ああ、と僕はうなづいた。

 そして僕等は動き出した。



 少し走っては車を止め、人の所在を確かめながら進んだ。

 二人で意味も無くぶらぶらと歩いた渋谷の交差点、何で西側に西武じゃないんだ、と僕がわめいた池袋、夏の日差しに息も絶え絶えになった彼女をカフェまでひきずったお茶の水、無理矢理彼女に野球観戦に連れて行かれた東京ドーム、近くの遊園地、海が見たいとドライブに出かけたお台場、何処にも人は居なかった。生きていたのは信号だけ。


 開いた、と彼女は市ヶ谷の安ホテルの自動扉の前で言った。機械は生きていた。スプリングの固すぎるベッドの上で、彼女は転げ回り、何で誰も居ないのよ、と泣いた。チェックインするのよ出て来なさいよ、とわめいた。


 お台場の大きなリゾートホテルの前でも言った。ロイヤルスイートルームの大きなベッドの上では怒った。私達不法侵入なのよ。彼女は怒鳴った。生けられていた花を投げた。自棄だとばかりに大きな風呂場で泳いだ。だが誰も出て来なかった。その間に僕は地下の売店のドアを破って漁って、彼女の好きそうな菓子を選んだ。備え付けの紙袋の中に入れて、一杯に手に提げ、エレベーターで最上階まで運んだ。

 部屋の扉を開けた。風が吹いていた。だが彼女の姿が見えなかった。

 僕は彼女の名を大声で呼んだ。叫んだ。袋を放りだした。クッキーの箱がばさばさと飛び出した。窓が開いている。まさか。


「どうしたのよ、あなた」


 風に混じって彼女の香りがした。何も身に着けず、開け放った窓から外を見下ろしていた。僕はほっと胸をなで下ろした。他の何が無くなっても構わないが、彼女が居ないのは嫌だ。


「そんな顔して」


 僕は黙って彼女に近付いた。引き寄せた。


「何よ甘えん坊」


 そうかもしれない。でもまあ別にいい。そう思うならそうなのだろう。


「何してたんの?」

「暑かったから」


 彼女は答えた。そうか暑いのか。そして僕も服を脱いだ。



 何日かをそのリゾートホテルで過ごした。

 調理室に新鮮な食事の材料がたくさん残されていた。普段なら滅多に口にしない様なものを、手当たり次第僕等は食い散らかした。

 彼女はローストビーフを分厚くナイフで切ったものをパンに挟んでかぶりついていた。冷凍庫からひどく濃いアイスクリームを取り出した。舌を出して舐めだした。


「美味しいわよ。あなたもどう?」


 彼女はスプーンを突き出してきた。僕は彼女の手を取るとスプーンと指を一緒に舐めた。舌をそのまま腕に這わせ、やがて彼女をステンレスの調理台の上に押し倒した。ぐわん、と低く響く音がした。


「あなた私を料理するの?」


 彼女は笑った。確かに。周囲には鋭い、手入れのされた包丁がたくさんあった。

 服を剥いだ。床に落とした。彼女は笑った。僕は包丁を一つ手にした。ぴたぴた、と彼女の頬を叩いた。刃の脇を彼女は舐めた。鉄臭い、と彼女は顔をしかめた。


「私を食べる?」


 彼女は言った。悪くない、と。僕は笑った。彼女も笑った。

 僕はひとしきり彼女の身体を包丁の背で撫で回した。彼女の喉から声が上がった。僕は包丁を投げ捨てた。がらん。床に落ちた。きっと刃は欠けてしまっただろう。



 本屋で地図を入手した。コンビニでもよかったが、できれば全国道路地図の詳しいものが欲しかった。滅多に車で遠出はしたことがない、基本インドア派としては。

 そのまま本屋を出ようとする。だが彼女はきょろきょろと辺りを見渡していた。珍しい。僕の名を呼んだ。そして言う。


「何か小説、読みたい」


 僕は唖然とした。彼女の口からその言葉が出る日が来るとは思ったこともなかった。僕とは反対に、活字嫌いの彼女が。


「私だって本くらい読むことはあるわよ」


 彼女は口をとがらせた。


「でも、あなた詳しいし」


 彼女は言う。ああ確かに詳しい。暇さえあれば彼女の側でも本を手にしていた。


「マンガの方が良くない?」

「小説がいい」


 僕は迷った。

 結果、とある有名作家の文庫本を選んだ。白と黄色のツートーンのカバー。薄く、中の文章は軽く、センテンスは短く。作品自体はベストセラーという訳ではない。だが書いた時期が僕等の年代に近い。

 書棚から出して渡すと彼女はそれをぱらぱらと繰った。うん、とうなづき大事そうに脇に抱えた。



 何処へ行こう、と僕は彼女に問い掛けた。


「北」


 彼女は答えた。


「今ならいいけど、冬になったら寒いでしょ」


 確かにそうだけど。


「雪はいいの? 雪合戦好きじゃなかった?」

「好きだから、したくないの」


 ああそうか、確かに雪合戦は。

 別に僕は二人でも構わないが、彼女の言うところの雪合戦はあれだろう。会社の同僚や友人だのと集まって、皆でわーわーと子供の様に遊ぶもの。

 それはもう無理だから。


「そうだね。じゃあラベンダーを見に行こうか」


 僕はそう切り出した。


「ワイン工場で色々物色して、いちばん美味しいワインを探そう」


 彼女はうなづいた。



 僕等は北へ向かった。日が暮れると最寄りのインターで降りて適当な宿を探した。

 ガソリンが切れると車を乗り換えた。鍵のついた車は何処にも転がっていた。

 メンテの方法も判らない僕等は新車に近いガソリンがたくさん入ったものを選んで乗った。 

 車種にもこだわらなくなっていた。物を積み込むこともさほど無くなった。適当な店で扉を壊して調達すればいい。時には何処かのお宅に不法侵入。服もそうだ。

 だが、農村のど真ん中でガス欠になった時には最寄りの家まで歩いた。足が痛くなり、運動不足だ、とたどりついた農家で足を揉み合い、笑い合った。


「歩くにはあなたの靴は向かないわね」


 彼女は笑った。何処かで歩きやすい靴を取ってこよう。

 ふと、彼女のポケットが片方だけ下がっているのに僕は気付いた。本が入っているのだ。あれからずっと本を寝る前に少しずつ読んでいる。



「あなたが読書好きなのも判る気がする」


 ある日彼女は言った。


 僕は心の底から驚いた。



 やがて僕等は北の地についた。

 走った。走った。ひたすら走った。北の地は広い。道路は長い。果てなく遠い向こう側。道の続きは何処へ行くのだろう。とりあえずはラベンダーだ。そう決めていた。

 青函トンネルを通って出て函館、小樽、札幌、そこから東へ、旭川、富良野。ラベンダーが何処で見られるかは知らなかった。

 本屋でガイドブックを取った。地図を取った。食糧を取った。牛乳が美味しい。パンが美味しい。バターが美味しい。チーズが美味しい。アイスクリームが美味しい。水が美味しい。

 ワインはどうだろう。行ってみなくては判らない。

 代わりの車が調達できるかどうかがこの地では判らないので、スタンドに一日泊まり込んだ。ガソリンをたっぷり入れた。予備タンクにも詰めた。できるだけ早く車は取り替えよう。彼女のポケットが少し重そうだった。気のせいだろうと僕は思った。

 やがて僕等はラベンダー畑についた。見渡す限りのむらさき、むらさき、むらさき。売店のキティまでむらさき。


「優しい色だわ」


 そう言って彼女は笑った。倒れた。埋もれた。その拍子にポケットから本が飛び出した。あれ。拾い上げる。僕は違和感を覚える。黄色と色の装丁。ラベンダーの色の中で目立つ。同じ作者。けど違う本だ。むらさきに、香りの中に埋もれる彼女を見る。視線に気付く。


「ああ」


 彼女は起きあがる。


「まえの、読んじゃった」


 僕は目を丸くする。


「だって、短いでしょ。だから続き取ったの」


 そう続き。確かに彼女が持っていたのは続きだった。僕の渡した本の続き。同じ語り手、同じ主人公の登場する、時間だけが少しだけ先に行った。


「このひとたちも北海道に行くのね、羊探しに。ああ、あの別荘いいな」


 別荘。あああれか。主人公が導かれていった場所。友と会うために。


「あれならしばらく居たいな。暖炉があって。古い本があって。そこで床にワックスをかけて、疲れたらフレッシュジュースを呑んで、ハーシーのチョコレートをかじって、スパゲティをゆでるの」

「悪くないね」


 僕は笑った。


「でもそこ、最後には爆破しちゃうのよね。勿体ない」

「もうそこまで読んだの?」


 彼女は笑う。羊探しの話のラスト。


「だってあなた、アレは私に読めると思ったんでしょ? 違う?」

「え?」

「だから、あなた、私がこの主人公に共感できると思ったんじゃないの?」


 そんなつもりは無かった。ただ薄くて読みやすい本だから、活字嫌いの彼女でも。

 いやどうだろう。記憶をひっくり返す。

 ……ああ、そうだ。

 確かこの本は、とある気のいい先輩に勧めたことがあった。だけど彼は半分位で放りだした。

 どうして読まないの、と僕は聞いた。

 すると先輩は言った。この主人公、全てをあきらめてるなんで傲慢だ、俺には判らない、と。

 彼ならそうだ。いつも何に対しても真っ当でアグレッシブな彼には。

 では彼女は? 彼女はどうだろう。少なくとも僕は、彼女の中にそういう部分があると思ったのだろうか? 

 彼女は続きを読む。波長が合った様ににさくさくと続きを読む。

 そして。



「あのね」


 その晩彼女は繋がりながら、不意に言った。


「本当は」

「何?」


 僕は問い掛けた。

 一呼吸おいて、彼女は言った。


「私達もう、死んでるんでしょ?」



「それは違います」


 不意に天から声がした。



 慌てて僕等は身体を離した。心臓が本気で跳ねた。目を疑った。ラベンダー畑の農家の、床に毛布を敷いただけの寝床の上で。

 暗闇に。すうっと降りてくる、浮いている、影の無い、人。……人ということにしておこう。

 その姿形、人間の男にしか見えない。ただ眩しくない光を無闇に放っているだけで。


「珍しく被害届が出ていないと思ったら素晴らしい生体反応。えー、あなた方生きてます」

「被害届?」


 それまでの日々に、似つかわしくない単語がその場に響いた。被害届? 一体何の。僕等は何も不自由など。


「説明が必要ですか?」


 無論、と僕達はうなづいた。するとにっこりと彼は笑い、その場に腰を下ろした。僕も下ろした。視線の位置が揃う。何も着ていなかった僕等は毛布をそれぞれまとう。

 説明者はマジシャン宜しく、ぱっ、と手と手の間に何かを取り出す。


「はいこれは何でしょう」

「……フィルム」

「はい、映画のフィルムです。さてこの一コマ一コマ、区別がつきますか?」


 連続したシーンを切り取ったのだろうフィルム。彼が合図を送ると、勢い良く拡大した。


「……わからない」


 彼女はじっと見てから、唇を突き出し、つぶやく様に言った。説明者は尤もだとばかりに大きくうなづいた。


「まあ、つかないでしょう。因みに今のあなた方は、この一コマの中に居る様なものです」


 何ですと? 僕は眉を思い切り寄せた。


「フィルムは平面。二次元の世界です。そしてあなた方は三次元の存在。タテヨコ高さ、立体空間の世界の存在」


 僕はうなづく。彼女は困った顔で手を挙げる。


「ちょっと待って下さい。確かに生きている空間はそうかもしれない。だけど、時間は?」

「さてそこです」


 説明者はあごに手をあて、にやりと笑った。


「あなた方の言うところの『時間』は記憶に過ぎません」

「記憶……」


 彼女は呆然と繰り返す。

 そう、と説明者はうなづき、右手の人差し指を立てた。


「あなた方は連続した時間の記憶を持っている、連続した空間の一部でしかないのです」


 彼女は助けを求める様な視線で僕の方を向いた。僕だって頭の中を整理するには時間が要りそうだ。説明者は続ける。


「フィルムに映るものは、連続して第三者に見られた時、『動き』だします。観測者が居て初めてそこで『時間』が存在します」

「待って下さい」


 僕は手を上げた。


「ではあなたは、僕等が今ここで動いているのは」

「錯覚です」


 言い切った。言い切りやがった。


「あなた方は、あなた方の世界は、全て記憶の連続体に過ぎない。生物も非生物も」

「だけど」

「まあ最後までお聞き下さい」


 彼は手の指を大きく広げた。両腕も広げた。


「一コマ一コマ、普段は意識されないものです。だけど時々、困ったことに、例外というものがあるのです」


 はあ、と僕と彼女は同時に口を開けた。かなり間抜けな顔だったと思う。


「あまりにも瞬間の意志が強すぎると、独立してしまう存在というものがありまして。で、今回の元凶は、」


 あなた、と説明者は僕に指を突きつけた。


「ええええええっ!」


 思わず僕は叫んだ。


「あなた、とある瞬間、『ああこの瞬間が永遠に続けば!!』とか強烈に思いませんでした?」


 じろりと彼女はこっちを見る。


「あったんでしょう?」


 僕は口を歪めた。

 あった。確かにあった。

 そうあれは。

 あの前の晩。彼女と僕は、本当に、久しぶりに、気持ちよく夜を過ごしていたのだ。

 彼女と二人だけの時間。重ねる身体。

 いつもいつもそれは上手く行くという訳ではないのに――― その時、僕等は、それまでになく、上手くいった。巧く達った。

 肌の温もり、繋がった場所のもたらす快楽、ぬるぬると滑る汗のにじんだ身体、―――上がる声。

 その時全てが、頭を真っ白に焼き付かせるに充分だった。

 僕はその時、確かに。無意識に願ったのだ。

 このまま、ずっと。


「思い当たった様ですね」


 にやにや、と説明者は笑う。つまり彼はそれを見ている訳で。いやその。


「つまりその時、あなた方は独立した存在になってしまったんですよ」


 説明者は勝ち誇った様に断言した。僕は思わず両手を頬に当てた。


「この様な強い思いで次元を超える存在も久しぶりで、我々管理局の誰もが大はしゃぎでして。いやもう消すのは惜しい、是非生存選択肢を、ということで、自分が派遣されたんですよ」


 何の管理部だというんだ、何の……


「だ、だけど、だとしたら、その時間の流れの中の他の『僕等』は…」

「ああそれは大丈夫です」


 即答。


「あなた方は一コマが独立してしまったに過ぎないですから。前も在れば後も在る。素晴らしい偶然にも、途切れたからと言って大きな流れの中で問題になるようなものが無かったし」


 はあ、と僕は口をぱかっと開けた。


「ただし、さすがに次元を変化させるだけのエネルギーというのは、なかなか莫大なものがありまして。その一コマ内の生物全部と引き替えになってしまったんですよ」


 彼女は理解できずに既にに硬直している。


「そこで選択肢です」


 彼は再び僕等を指した。満面の笑顔で。



「飽きるまで、ね。……あなたらしいわ」


 説明者が消えた後、彼女はしみじみと、心底呆れた様な口調で言った。

 そう、彼は僕等に選ばせた。

 このまま人間も動物も居ない状況で二人きり。


 1 消滅するか。

 2 そのまま生き続けるか。


 僕は即答した。


「飽きるまで消えない、というのはどうでしょう」


 と。まあいいんじゃないですか、と説明者もすぐに応じてくれた。僕等の「飽きるまで」は彼等にとってはほんの一瞬に過ぎないらしい。僕は「2」のつもりで答えたが、彼にしてみれば「1」なのかもしれない。


「……でも、ま、いいわ。―――靴箱の中で生きるのも」

「何、それ」

「あら、あなたが勧めてくれた本の中にあったんじゃないの」

「え」

「何も期待しなければ、何も傷つけることはない。そう言った主人公に、その後で離婚する奥さんになるひとに、こう言われたじゃない。『靴箱の中で生きればいいわ』」


 ああ、そうだった。

 陽気な先輩が嫌だと言ったのも、そういう所だった。

 誰にも期待せず、誰も傷つけることもなく。そこはきっと、静かで穏やかで、何も変わらない世界。

 靴箱の中。


「確かに変だとは思ったけど。行く先々、何も変わってない。肉は腐らない。水は出る。電気も通ってる。……それって、箱の中でしょ?」


 僕は黙って苦笑した。


「そしてあなたはそれを、望んだんでしょ?」


 彼女の顔が微妙に歪む。目を軽く伏せる。やがてそれがぱち、と開く。


「でもそれも、いいわね」

「ああ」


 僕は即答した。

 僕と君と。それだけあればいい。

 あの瞬間思った、そんな世界がここにある。

 他の誰も傷つけることなく、世界は静かで揺らぐことが無い。

 それは何って素敵な世界。


「そうよ、飽きるまで居ましょ」


 あはははははは、と彼女は笑った。

 僕はとりあえず東京に戻ろう、と思った。

 何せ一番本があるのは東京なのだ。

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