第3話 最期

「けどなあエルネスト」

 薬屋の婆様の言葉を受け取ったリカルド親方は怒りもなげきもしませんでした。が、工房の腐敗ふはいうれ徒弟とていの言葉に良い顔もまたなぜかせず、その白い眉を大いにひそめました。

「お前も、もう少し大人になってやっちゃどうだ」

「はい?」

 エルネストは思わず首を傾げました。まるで彼や他の工房の面々にも非があるかのような、あのガルティエロを擁護ようごするような口振りに聞こえたからです。

 疲れていらっしゃるのだろうか。エルネストは真剣に親方の体調を案じました。

 なるほど、工房は現在ある教会の壁画の製作を任せられており、連日の激務に誰もが文句を垂れていました。テンペラ画の作業は何しろせわしないのです。蓄えた白鬚しろひげも立派な、ドワーフの王でも通りそうなリカルド親方が、その日はまるで別人に見えたのも仕方のないことかもしれません。

 ただそれにしたって、とエルネストは思いました。疲れて気が弱っているにしたって。親方の口から、あの悪魔をかばうような言葉が出るなんて。

「いるんだよ世の中には。あいつみたいなのが。誰かをなじることが何より好きな、どうしようもなく性根しょうねの腐った、ああ言えばこう言う、くだらなくてろくでもなくてたちの悪い奴が。最悪だろう。実に実に、実に哀れな奴だ。そう思わないか」

「思います」

 ですが、と続ける前に、だったら、と親方が言い被せてきました。

「辛抱してやれ。ガルティエロはどの助手よりも捌ける。この工房に貢献してる。違うか」

「それはそうかもしれません。けれど」

「西の壁の、天使に追い払われる悪魔の絵。俺はあれをガルティエロに任せるつもりだ。中身はどうあれ仕事熱心なんだあいつは。同じ熱心さを周りにも求めようとして、ままならなさに苛立いらだってる。それだけなんだ」

 親方は分別ふんべつある年寄りという都合の良いからに逃げ込もうとしていらっしゃる――。エルネストが軽くはない失望を覚えたその時でした。小さくうめいて前屈みになった親方が床に膝を付き、横様よこざまに倒れ込みました。

「親方!」

 ミラノにおける黒死病ペストの大流行の、これが始まりの日でした。


 ヴィットリオが死に、ウーゴが倒れても、真っ先に世を去った親方から残りの仕事をたくされたガルティエロは教会を去ろうとはしませんでした。

「ああもう! クソが! どいつもこいつも役に立たねえな!」

 徒弟にまた死者が出たのです。死人をさえ罵倒ばとうするガルティエロに進んで従う者は少なく、今や工房は惰性だせいで回る車輪でした。

 予言された『終わりの日』が来たことをエルネストは痛感しました。

 仕事場はまさに地獄でした。ガルティエロはいよいよその悪魔的本性をき出しにして、エルネストたち徒弟は仕事が進むほどに心身をけずられていきました。

 何か下手を打った者は今だとばかりに面罵めんばされ、見下みくだされ、かろんじられ、苛々いらいらけ口にされた挙句あげく疎外そがいされました。優しさや素直さは美徳でも何でもなくなり、思い遣りやねぎらいの心は持つだけ無駄なものとなり、責任逃れや足の引っ張り合いが横行おうこうし、エルネストにとって尊敬にあたいする者は一人もいなくなりました。

 そんな中、元凶げんきょうたるガルティエロばかりは猛然と仕事を続けていました。

 エルネストは親方の言葉の一端を認めないわけにはいきませんでした。ガルティエロは確かに仕事熱心です。彼はただ、なんありなその性格の難があまりにも何なのでした。周りを巻き込みながら奈落の底へ落ちて行く真っ赤に焼けた鉄の車輪のようでした。


 そんなガルティエロまでがとうとうペストに倒れたのは、4月の半ば頃でした。

 エルネストを含む残された徒弟たちが大いに喜んだことは言うまでもありません。

 問題は壁画でした。たとえペストが猖獗しょうけつきわめていても、仕事をまっとうせずに引き上げてしまってはリカルド工房の名がすたる。

 おびえて縮こまっていた心が、その時、大きく伸びをするのをエルネストは感じました。抑圧から解放されたことで、自分がこれから何のためにどんな絵を描くべきなのか、ようやくはっきりと見えたのです。

 エルネストはガルティエロが描きかけていた西の壁の悪魔の絵を塗り潰しました。

更にその上から、ガルティエロその人を描くつもりで悪魔の姿を描き直しました。文句を言う者はいませんでした。これが悪魔というものだと納得しない者はない、しんせまった仕上がりとなったからです。

 こうしてガルティエロの悪魔的な底意地そこいじの悪さはその絵姿とあわせて長く後世に語りがれる運びとなったのでした。

 十八世紀の半ば頃に教会の壁からがされたこの絵は、今はある美術館の収蔵庫に大切に保管されています。

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工房の悪魔 夕辺歩 @ayumu_yube

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