第40話 魔術師の涙
秘宝植物さえあれば、母親を救えたかもしれない。
秘宝植物さえあれば、自分の能力に唯一欠けているものを補える。
魔術師があんなに執拗に秘宝植物を欲しがったのは無理もない話なのか……。
俺の頭の中には更なる続きが用意されていた。
……ザーッと降り出してきた雨。悲しく虚しい、魔術師の涙の様な雨。
相変わらずの色のない風景を濡らしていく雨は、どこかとてつもない寂しさを感じさせた。
遠く微かに浮かんでくるシルエット。
そこには頭を抱えうずくまる魔術師の姿があった。
彼の周りには全てが用意されていた。
広々とした部屋。山積みにされた果実に肉や魚。酒に女。金銀財宝。豪華な衣装……。贅沢の極みは留まるところを知らぬといった具合に、物で溢れ返っていた。
本来、宝というものは美しい。それが、色を無くしただけでこんなに重々しく虚無的な印象を受けるものなのか……。
それは、これらの物を手に入れる為、魔術師が重ねてきた罪の数々が要因である事に違いないだろう。今、俺の脳裏にはそれら全ての悪行が映し出されている。その残虐さたるや、枚挙に
同情してしまう節もあるが、彼の愚業はあまりにも無情すぎた。このまま行けば、生まれながらに持つ強大な力に彼自身が押し潰され、破滅へと向かう事は言わずと知れていた。
もちろん、何の手も下さず破滅を待つ道もあるだろう。だがそれでは、かつて初代酋長が魔術師の魂を封印した事、そして更には、魔に操られた『後の民』を暗黒の道から引き上げ、幸福と繁栄を持続させ魔術師の復活を遅らせた五代目酋長の功績が、水の泡となってしまう。単に破滅させるだけならば、魔術師はまた後世で蘇る可能性があるからだ。そうなれば
…………チリリリリン…………チリリリリン…………
鈴の音に反応した魔術師は、ひざまづいたまま首を持ち上げた。顔は抜け殻の様に無表情、精根尽き果て腑が抜けた様子で、突如目の前に現れた五代目酋長の姿を見ても何の動揺も示さなかった。
…………チリリリリン…………チリリリリン…………
五代目酋長の手の中で、先ほど折座が放ったあの銅の鈴……神宝の鈴が、嬉しそうに音を鳴り響かせた。その音は、頭の中から瞼の奥、そして毛の先までを震わす爽快さを感じさせた。身体中の全ての細胞が共鳴したような気分だった。
魔術師はまたしても鈴の音に反応し、まるで最後の力を振り絞るかの様に弱々しい声で呟いた。
「その鈴を俺によこせ……」
黙って見ていた五代目酋長は、鈴をいたわるように両手で持ち直すと、魔術師に近寄り始めた。
もしかして鈴を魔術師に渡すつもりなのか?! そんな……! 危険過ぎる!
俺は頭の中で必死にもがいた。だが今の状況の中の俺には手も足も出ない。ただひたすら五代目酋長を信じて今を見守る事しか……。
徐々に近づく五代目酋長を、魔術師は無表情のまま見つめている。
ひざまづいている魔術師の前で、五代目酋長は歩みを止めた。そしてそのままゆっくりと腰を下ろすと、鈴を乗せた両手を魔術師の目の前に優しく差し出した。その時初めて彼は驚愕の表情を見せた。
「何故……?」
魔術師は死を覚悟していたのだろうか。ふと、俺の頭をそんな思いが横切った。鈴を守る為、何らかの形で五代目酋長が自分を攻撃してくると踏んでいたのでは? だから鈴を差し出した酋長に驚きを隠せなかったのでは……?
五代目酋長は両手を差し出したまま、困惑する魔術師の顔を無言で見つめている。
恐る恐る魔術師は手を伸ばした。ところがすぐにその手を引っ込めた。
「できない……! 俺にはもう……」
よく見ると、魔術師の顔が変わってきている。あの、細く吊り上がり血走っていた目は優しく澄んだ目になり、苦悩に満ちた表情は人間らしささえ感じさせた。
「すまない……。償っても償いきれない……」
魔術師はひざをついた状態で両手を床につけ、そのままうな垂れた。
ポタッ……ポタッ……と魔術師の目から溢れた涙が床を濡らす。
ポタッ……ポタッ……ポタポタポタッ……ポタポタポタポタポタポタポタ……
魔術師が全身全霊で泣き崩れた。
その様は、夏の日の夕立に似ていると感じた。
……ザーッ……
同時に激しく降り始めた雨に、部屋中の景色が剥がされる様に洗われていく。今にも黒いインクが足元を流れていきそうな勢いだった。
白黒に塗りつぶされていた花々は、蝶がサナギから脱皮する様にモノクロームを脱ぎ捨て、本来の鮮やかな色彩を惜しげもなく披露した。
部屋中のあちこちでは、蕾を付けた名もない花がポツリポツリと顔を出し、みるみるうちに背丈を伸ばして行く。
その一方で、床の上に異変が生じていた。何かがうごめいている。ボコボコ……ボコボコ……。床がグニャグニャと歪み出す。奇妙な音は、地響きを伴うほどに大きくなった。そしてそれは一瞬のうちにガスを発する沼地へと化し、無数に膨らむ水泡は弾ける度に淀んだ煙を放った。そこは決して近寄りたくない、無気味な溜水だった。
そこへ魔術師は何を思ったか、ためらう事なく近づいていく。沼地の淵すれすれのところまで行き、ただひたすらに膨らんでは弾ける水泡を見つめている。
ボコボコ……という異音が激しさを増し、次から次へと増えていく水泡。徐々に浮かび上がったそれは、人の顔だった。
苦しげに歪む表情はからは、助けて……、助けて……、と、声にならない願いが伝わってくる。
降り注ぐ雨が沼地に触れる度、煙が上がっている。
次の瞬間、激しい雨の風圧で、テーブルの上にあった果実が一つ、ポチャン……と沼地に落ちた。
……ジュッッ……!
あっという間にその果実は溶けた。
魔術師はその様を確かに確認した筈なのに、何を思ったか、自分の手を思い切り沼の中に突っ込んだ。
待ち構えていた様に、魔術師の腕を煙が取り囲む。
「うおおおおおおおお……………………!!」
魔術師は激しい叫び声と共に突っ込んだ手を思い切り引き抜いた。その手は、沼地の中で苦しむ人の手をしっかりと掴んでいた。
引き上げられた人はまた他の人の手を、そしてまた他の人の手を、そしてまた他の人の……。何十、何百というほどの人間が一体となり打ち上げられた。
激しく飛び散る水しぶきはダイヤモンドの輝きを放ち、溶けてもおかしくなかったはずの魔術師の手は、黄金色に輝いていた。
その手は、焼けただれている無数の人々の皮膚をみるみるうちに治していった。苦痛に歪んでいた表情は穏やかな微笑みへと変わり、名もなき一輪の花を、一人、また一人と、胸に抱いて歩き始めた。
五代目酋長を見つけた時と同じだ。無数の人々が一輪の花を抱き果てしない道を歩いて行く……。これがまたもや呪縛からの解放なのだとしたら、今頃また現代の世界では、流星群や流れ星が夜空を明るく演出している事だろう。
きっと何も知らない母は、いつもの調子で近所のおばさん達と「天然のプラネタリウムよね」などと感動を露わにしている事だろう。
……そんな事を思っていたら、急に父や母やなっくんが恋しくなってきた。これがホームシックとやらなのだろうか?
なんだか急に眠たくなってきた。強制的に瞼を閉じさせられていく感じだ。
霞む目に一身の力を込め焦点を合わせると、俺の頭を優しく撫でる五代目酋長の微笑みを捉える事ができた。
俺はそのまま安堵し目を閉じた。
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