第33話 奇跡の夢の花
そこは静かで無機質な、どこからか差し込んでくる光が足元を照らす、無駄なものが一切ない部屋だった。
コツ……、コツ……、コツ……。
歩く度、爪の音が響く。
俺は嵐蔵に戻っていた。
部屋の中央には一脚の椅子が置かれている。
どこかで見た事があるような……。
あっ……!
あの、いつもみる夢の景色だ! と言う事はつまり……。あの夢の中?
「待ちわびたぞ。気高き魂を持つ神の犬よ」
……この声……!
夢の中の、あの人物の声だ。
いつのまにか隣に立っていたのは……。
端正な横顔。銀色の髪。……折座?……いや、違う。似ているが、あの折座特有の、清々しくも力強い波動とは少し違う。
俺はその人物を見上げ、しげしげと見た。眼光鋭く、炎と風が一体化した様な波動。凄みを感じさせる様相は、見たことのない初代酋長のイメージと重ね合わされた。ほぼ間違い無いだろう。この人物は折座の父……五代目酋長だ。
……と言う事は、夢に出てくるあの人物は五代目酋長だったのか!
「この場所には何人たりともそう容易くは来れぬ。信じていたぞ。やはりお前は来た。嵐蔵よ」
五代目酋長は俺の背中に手を当てた。
ざわっ……、と風が身体中を駆け巡った。俺の背中の毛が尻尾の先まで逆立っていく。
「酋長。この犬が例の神の犬でございますね」
声のする方へ目を向けると、見覚えのある姿が慎ましげに佇んでいた。
「長老よ。お前には苦労をかけてしまった。許せ。お前の力添えがなければ今こうしておらぬかもしれぬ。心から感謝する」
長老とは……。折座の側にいて姿を消した、あの長老か。
「恐縮至極でございます、酋長。長い年月をかけ、時代を超え世代を超え、こうして子孫の力を高める事のお手伝いができております事に、私めこそ、感謝申し上げる次第でございます」
五代目酋長は深く頷いた。
「もはや希望しか残されていなかった」
俺の顔をまっすぐに見据えた五代目酋長の目は、無表情でありながらも奥深い優しさを湛えていた。
「この世界に送られた時の事は今でも鮮明に覚えている。覚悟はしていた。そうだ。お前が紐解いた通り、私のとった行動は神に下克上を叩きつけたも同然だった。大いなる神の恐ろしさに真っ向から挑んだ。そうするより仕方がなかったのだ。想像以上の恐ろしさであった。悠長にもこの様な言い方ができるのは300年という月日のおかげである。ここに至るまでの経緯は筆舌に尽くし難い。とりわけ物事とは、仮に全てが決まっている事だとしても、全てに意味があると捉えれば己の行く先は希望で切り拓く事ができる。この考え方は、我が意識を正常に保つ為、大いに役立った。捉え方一つ、見方一つ、考え方一つで、荒れ野原を新緑の山に変える事さえできるのだ。心に花を、清々しい風を、足元に道を作り上げて行く事さえも……。嵐蔵、お前がたった今、実践してきた様に」
視界の隅で何かがうごめいた。
無機質で冷たかった部屋の片隅に一本の雑草が生えていた。たった一本の雑草にこの様な力があるものなのか。
ふつふつと湧き起こる希望が、この時をかけがえのないものとした。しかしその一方で、この神秘的な奇跡にさえ感動を露わにはしない無表情な二人、五代目酋長と長老の顔に、壮絶な時間を過ごしてきた痕跡を見た。
「大いなる神は恐ろしくも慈悲深い。暗闇だけを差し出す事はしない。どんな困難の中でも、
この様な心に響く言葉は、強い心の持ち主だからこそ生み出せるものなのだろうか。そんな思いに浸っていると、視界の中にまた異変を感じた。
先ほどの雑草に目をやると、小さな蕾が一つ蓄えられている。そしてそれはみるみるうちに膨れ上がり、やがてゆっくりと花弁を広げ、
思わず条件反射で深く息を吸い込む。ほのかに甘く爽やかな香りは、まるで天然の気つけ薬だった。
二人の顔は相変わらずの無表情だったのだが、次の瞬間、瞬きを忘れ凍りついていたそれぞれの目に涙が溢れ始めた。
無表情な顔中を、大粒の涙が濡らしていく。
次から次に溢れる涙は、ぽとぽと……ぽとぽとと音を立て足元に落ちていき、小さな水たまりを作った。
「花だ……。花が咲いている……!」
どこから現れたのか、一人の男が感激に体を震わせ、その小さな花の前にひざまづいていた。
「何と美しい……」
するとまた一人、男が現れた。
「ありがたい……。この様な奇跡が起こるとは……」
一人、また一人と人が溢れてくる。
「奇跡だ……! 奇跡だ……!」
一輪だった野花は、一人に一輪ずつあてがわれても事足りるほどに、一輪、また一輪と咲き誇っていった。
無機質だった灰色の部屋は、あっと言う間に一面の花畑となった。
遠く細く、長い道が形取られていく。
数十人、いや数百人……? あり得ないほどの数の人間がゾロゾロと道へ流れ込んだ。
何処へ向かって行くのか。それぞれが一輪の花をいたわる様に両手に抱き、果てしなく続く道へ列をなす。
「この者たちは私と同じく、魂を閉じ込められていた者たちだ」
五代目酋長はポツリと言った。
「様々な罪を犯した者たち。それぞれに理由がある」
俺は歩いて行く人々の顔を見た。目を閉じたまま微笑んでいる。どの人間も皆同様に。まるで花の形をした赤子を抱く様に、小さな野花を胸元に抱き、その表情は優しさで溢れていた。
「この者たちに共通していた事は、罪を憎み、罪を犯した己を憎み、多大な制裁を己に課したこと。制裁を過剰にして行くことで罪そのものを消そうとさえ試みたこと。その挙げ句、彼らの自尊心は、もうこれ以上絞れない……と叫ぶボロ雑巾の様になっていた。今、彼らが大事に抱えている花は、失ってしまいかけた魂そのものを象徴している。彼らは取り戻したのだ。自分の魂を。お前がその道を切り拓いた」
どう言うことだ?
「彼らが過ごしたのは気の遠くなる様な長い年月であった。あと少し、と言うところまで来ては谷に落ち、あともう少しで……というところでまた転落し、何度も何度もそれを繰り返した。その地獄もまた、己が己に課した制裁の一部ともなっていたのであろう。目の前に解放への針の穴が見えているのにどうしても到達できない。目に見えない強い圧力に、彼らの精神は崩壊という避けるべき現象に徐々に侵食されていった」
俺は彼らの壮絶な戦いを垣間見た気がして思わず息を飲んだ。
「彼らに足りなかったあと一歩とは何か分かるか?」
俺は立ち尽くしたまま五代目酋長の目をじっと見た。彼もまた強い眼差しを向け、俺の心の奥底を探っているようだった。
「……さすが神の犬よ。その通り。彼らに一つだけ足りなかったのは気づきだ。それが最後の砦を突破させる鍵となるもの。誰しも己の事はなかなか分からないものであるが、しかし、誰よりも己を一番知っているのは他ならぬ己自身。無意識の上で、熟知している己を己が妨害する事は容易かったであろう。あと一歩。いいところまで行くのに、目眩しをくらう。それは己に課した制裁の中の最も恐るべき呪縛であった。もはや己が審判である以上、逃れようのない深い闇への渦の道に足を踏み入れる以外、他に道は見出せなかった。その道を、お前の気づきが、花咲き誇る希望の道へと変換させた。彼らは解き放たれたのだ」
隣で長老が涙を拭っている。
「この者たちは生命の限界を超えても尚、己の魂を磨き続けた。常軌を逸したその完璧主義は、神でさえ静止出来ぬほどとなった」
一面の花畑に、さわさわ……と、そよ風を伴う霧雨が降り注いできた。
「この雨は、大いなる神の涙だ」
五代目酋長は軽く顎を天に向け目を閉じた。
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