足洗酒
漆目人鳥
酔姫
「あら、あなた私の正体が見えるのですね?」
俺の隣に座っていた長い黒髪の女と目のあった瞬間、女がそう言って知的な赤い唇の口角を上げた。
或る夏の日。
日中、体温を沸騰させるような日差しと、アスファルトの照り返しの中、蒸発寸前の身体を引きずるように徘徊する事を余儀なくされ、日が傾きかけてもなお、蒸し殺されかけている身体で、命乞いのように飛び込んだ雰囲気のいい居酒屋のカウンター。
そこで出会った、美しくも冷たい微笑みに、俺は思わず椅子から転げ落ちそうになりながら身を引く。
見える?とは?
なんか、そういうシチュエーションどっかで聞いた気がするぞ。
これって、普通の人には見えない幽霊が、自分を見つけた人間に警告のように囁きかけるって怪談のノリじゃないか?
驚愕の面持ちで女を見つめる。
いや、コワくて目が離せないだけなのだが。
「もう!姫、お客さんに絡んじゃ駄目!」
忙しそうにホールを走り回っていた若い小柄な女将がそう言って、俺と姫と呼ばれた女の間に割って入った。
「お客さん、ごめんなさいね。この
女将がそう言って女を一瞥する。
……女、姫はあらぬ方に視線を走らせながら陶器の杯に入った日本酒を煽った。
その様子は、完全に母親に悪戯をたしなめられた駄々っ子だ。
が、どう見ても女将の方がこの姫様よりも年下に見えるのが違和感。
どうやら、この姫と呼ばれた女は常連の客らしい。
まあ、居酒屋ではあるあるの部類な話といえば話だが。
「ついてないですね」
姫が独り言のように呟く。
「いや、ついてるか」
今度は、ハッキリと俺に向かって話しかけている。
「何を言ってるんですか?ツイテル、ツイテナイ?」
俺が話に乗ってきたことを感じると、姫は顔を俺の鼻先まで近づけてにやりと笑った。
「あなた、最近良いこと無いでしょう?最悪ですよね?」
俺はその言葉にウッと身を引く。
身に覚えの無いわけではない。
確かに最近すべてが鬱陶しい。
大学を出て就職した会社が一年もしない間に急激な右肩下がりで営業不振に陥り倒産。
日銭稼ぎに勤めたコンビニエンスストアはドミナント戦略の煽りを喰らい、3店勤めて3店とも潰れた。
しかも、あろうことか共倒れ。
地域にコンビが1店舗も無い不毛地帯と化してしまった。
ついでに先月、同棲していた彼女がそんな俺に愛想を尽かし、ほかに男を作って逃げた。
しかも、彼女は俺のカードで馬鹿みたいに借金をしていたことが先週発覚。
現在、もめにもめている最中だ。
つまり、確かに最悪。
「相談に乗ってあげるから一杯奢ってください」
姫がそう言って小首を傾げる。
単に一緒に呑もうというお誘いに取れる。
こんな美人さんと相席できるというならば悪い気はしない、
しかし、相談に乗るという言葉が引っかかった。
「あのー、自分、宗教とかそういうのはちょっと興味ないんで」
とりあえず牽制してみる。
姫はくくくと声を殺して笑った。
「当たらずとも遠からずって奴ですね」
姫はそう言うと肩を寄せてきた。
何かヤバイ雰囲気が漂う。
「私は、霊が見える人なんです」
うさんくせぇ。
よく見れば、服装も真っ黒で一見喪服のようなワンピース、
見える人といわれれば神秘的なそれっぽくはあるものの、病んでる人ととれないことも無い。
が、しかし、怪しい団体とかの勧誘で無いというなら、
多少胡散臭くても一緒に呑んで話を聞くのもありかもしれない。
暇つぶしにはなりそうだし、いよいよになれば女将を呼んで黙らせればいい。
さっきそうしてくれって言ってたし。
「いいですよ。奢ります。なんにしますか?」
やがて、彼女が選んだ酒の瓶が運ばれてくる。
深い緑色の一升瓶に、縦長の短冊形をしたラベルが貼ってあり、
そのラベルに沿うような変則の横書きでROOMという文字が黒々と上品に描かれている。
ワインだといわれれば多分信じただろうほどにお洒落でスタイリッシュな外見だ。
「山口県萩市 八千代酒造さんの、
女将はそのかわいらしい顔に似つかわしくないハスキーな声でそう言って、小さな酒枡を二つテーブルに置き、その中に陶器のグラスを立てて酒を注ぐ。
酒はすぐにグラスから下の枡に溢れ出し、その双方に表面張力いっぱいまで注がれて止まった。
その間、注ぎ方には一遍の躊躇も無い。
まさに名人芸である。
「瓶、置いておきますね」
女将はそう言うと瓶を置いて小走りに去っていった。
味覚と視覚で酒を楽しんでくれという趣向のようだ。
「名前に色々意味があるお酒なんですが」
姫はそういいながら、グラスを人差し指と親指で挟んで持つと、枡から垂直に上げて行く。
グラスを抜かれて減って行く枡のお酒の分だけ並々と注がれたグラスのお酒を零していき、持ち上げ易くしたグラスを引き抜くと、軽く俺に向かって掲げた。
「とりあえず、あなたのこれからの運命に乾杯」
俺は、慌てて彼女の真似をしてグラスを掲げ、「乾杯」といって一口含んだ。
少々甘口だが繊細で芳醇な香の広がる口当たり。
飲み込む際のひんやりと澄んだ透明感のある喉越しが何とも清々しい。
「さて、アンタはさっき俺の相談に乗るって言ってたが」
俺は話を切り出す。
「俺は、アンタにどんな相談をすればいいんだ?」
俺は少々皮肉のつもりで言ったのだが、彼女にはそれがツボに入ったらしく、噴き出すように小さく咳き込んで笑った。
「そうですね、じゃあ、とりあえずあなたがこれから知らなければならないことを教えてあげます」
「俺が?なんだって?」
「知らなければならないことですよ。あなたは自分のことで知らないことが多すぎるんです」
そう言って彼女は酒を一口煽る。
「まず知らなくてはいけないことは、あなたは霊媒体質だって事です」
「霊媒?あの霊媒師とかの事か?」
「その霊媒師の師の無い奴です」
「なんだそりゃ?」
「だから、体質なのです。霊が寄って来安いんです。霊媒師はその事を理解していて、自分なりに解決の方法を知っている人。あなたはそれが出来ない人。つまり……」
姫が声をひそめる。
「取り憑かれ放題です」
何を言い出すんだこの女。
俺は返す言葉が見つからず、ただ唖然としていた。
「むしろ呼び込んでる」
「なるほど」
俺はなるたけ真顔で答えた。
「つまり、今の俺には貧乏神が憑いているので、幸せになる壷を買えと?」
「私、まじめな話をしてますよ?」
「奇遇だな、俺もいたってまじめだ」
姫がため息をついた。
「いいでしょう、信じろって方がムリなのは承知の上です。ただ一応言っておきます。
あなたは今、非常に危険な状態です。本来、霊っていう物は、無に返らなければいけない存在なんです、ところがたまに生きてる人間に憑いてしまい、その煩悩を吸って生へ執着してしまう奴が居ます。
ただ大概の奴はすぐに人間から離れて煩悩も薄れて行き、消えてしまいますが、たまに執着から離れられなくなり人間に憑きっぱなしになってしまう奴が居るんです。そうすると、生きてる人間の因果に干渉しだして本来の有るべきその人の人生に乱れが生じて死ぬまで不幸が続く。コレが悪霊」
「悪霊には幸福の印鑑でいいのか?」
「黙れ」
かなりきつい口調で制されてしまった。
さすがに怒ったか。
しかし、俺にしたって、ただ茶化しているわけじゃない。
話が突拍子も無さすぎで、どう対応したらいいのか、知っている人が居るなら助けて欲しい状態だったんだ。
ギリギリ、ムリ。
「今は大丈夫。だけどいずれアナタの体質が呼び込んだ霊が悪霊になってしまう可能性は100パーセントです。そうなる前に」
「体質改善か?ニンニクを食えばいいのか?」
「肉体的な問題じゃ無いからそんなんじゃ治りませんね。むしろ、何をやっても治らない」
ふふん、と鼻を鳴らして彼女が続けた。
「方法はただひとつ。取り込んで諭し、無に返す」
「何を言ってるのか全然判らないんだが」
「穏形開放」
姫は、やけに冷たくひんやりとした右手で俺の両目を覆い隠すと、そう言って手を離した。
「何をした?」
ちょっとあせって目の周りを拭う。
「もともと素質がある人だから、とりあえず見えるようにしてあげました。後は実践してみないと、アナタみたいな人は口では説明が難しいですから」
そう言ったと同時に彼女はカウンターの席を立つ。
「ごちそうさま。良い夜を」
有無を言わせぬ素早さでそういい残すと、手にした伝票を振りかざしながらレジへと歩いていく。
ふと、思い出したように立ち止まり、首だけ後ろに巡らして口を開いた。
「La+ROOMの意味は、『新しい希望(La+)の部屋(ROOM)』という意味が転じて、『希望の入り口』って意味もあります、アナタとの乾杯のために頼んだのです。覚えておいてください」
嵐のように姫が去ったあと、独り、酒のグラスを口に運びながら、ふと、今あったことを反芻する。
狂人の妄言か、はたまた酔っぱらいの戯言か?
大体、あの女は何者なのだ?
自分があの姫という女について知っている事は、霊の見える居酒屋の常連客ということ。
しかも、すべてが不確定。
『らしい』という情報のみ。
姫という名前にしたって本名なのか、あだ名なのか。
あまりに一方的かつ浮世離れた展開すぎて、酒に酔った自分が見た妄想だったのでは?
という気さえする。
だが、カウンターの上に静かに鎮座している『ROOM』の瓶。
これは現実。
それは理解できるが、もやもやとするこの気持ちはなんだ?
姫はそれが希望の入り口だと言った。
入り口だというならは、その先があるはずではないか?
ああ、なるほどそれで気が付いた。
入り口ならその先、続く話があるはずなのだ。
なのに彼女は何も話さず去ってしまった。
なぜ?
「怒ったんだろうなあ」
ひとり呟く。
そして、少しばかり損をしたような気持ちになっている自分がいた。
どうやら、常連客であることは間違いないようだし、せめて彼女の素性だけでもと、店のホールを見渡して女将の姿を探す。
女将は、満卓に近い店内を忙しそうに走り回り、とても相手をしてもらえそうな状態では無いのが見て取れた。
それからほんの数分、頃合いを見計らうが、女将の手が空きそうな気配はない。
ならば。
「お会計お願いします」
女将に声をかけて店の入り口にあるレジへと向かう。
支払いの最中なら少しの間ではあるが話が出来るはずだ。
「はい、はーい!カー卓さんお会計でーす」
元気いっぱいな女将の声が応えて、パタパタというサンダルを鳴らす足音が近づいてきた。
俺は、女将がレジ打ちを終え、支払いの金額が告げられるまで静かにまった。
「ところで」
告げられた金額を財布から出しながら質問を始める。
「ところで、さっき俺の隣で飲んでた姫って女性は常連さん?」
女将の顔がさっと曇り、受け取ったお金を持った手にきゅっと力が入るのが見て取れた。
「あ、あの
「え、いや、なかなか楽しく呑めたのでちょっと気になって」
俺がそういうと、途端に女将の顔が明るくなる。
気のせいか、顔色までよくなった気もする。
「それならよかったあ。それにしても」
そういいながら俺の手におつりを渡し女将が続けた。
「姫と飲んで楽しかったとか、お客さん変わってますねぇ」
そう言うと深々と頭を下げ「ありがとうございました」と挨拶して、再び他のお客さんのもとに走り去る。
俺は、作戦に失敗したことを悟り、仕方なしに店を出るのだった。
居酒屋を出た時にはとうに夜半を過ぎていた。
時間の所為か人気も車通りも無い大通りを歩き出す。
月の無い晩だ。
気温がそんなに下がったわけでは無いだろうが、酒で火照った身体には程よい夜。
久々の夜遊びした帰り道は生ぬるい風すら心地よかった。
いつも人生が順風満帆であったわけでは無いが、ここの所は特に世知辛い事柄が多くて、気持ちが荒れていた。
だか、今はなぜか心が軽い。
理由はすぐに思い当った。
姫の話が頭を過ぎる。
「希望の入り口、か」
呟いた口元がほころぶのを感じた。
自分は多分求めていた。
行き詰った人生を抜け出すための新しい扉を。
電車の高架を抜けたところで住宅街の細い通りへ折れると、急な坂道が目の前に現れる。
その上り口に、佇む人影が見えた。
人影は、身に着けているブラウスとスカートから、女であろうと推測したが何故か違和感があった。
すぐにその違和感の理由に気が付きゾワリとする。
髪が、まるで坊主のように短いのだ。
キチンと刈り揃えられた坊主ではない。
まるで、生えていた髪を雑に毟り取ったように不揃いで、手入れの悪い庭の雑草のように生えている。
異様さはそれだけではない。
身に着けている洋服からも彼女自身からも色が感じられないのだ。
女はまるで、そこに白黒写真のポスターが貼ってあるように薄っぺらい印象があり、なぜかゆらゆらと揺れているように見えた。
いや、身体を揺らしていると言う意味ではない。
陽炎のようにゆらゆらと『揺らいで』いる。
「うああ」
思わず声を上げ、たじろぐ。
(髪を切ったノ……)
女が近づきながら呟いた。
(切ったノ。髪を切ると運勢が変わるっテ)
ゆっくりと近づいて来る。
(切ッたノ)
ぶつぶつと繰り返していたかと思うと、一際大きく姿が揺らぎ、掻き消えた。
ヤバイ、これはヤバイ。絶対に人ではない。
姫の言った「見えるようにしてあげた」という言葉を思い出す。
まさか。
はっとする間もなく、俺の真横に女の顔が覗き込むように出現する。
色の無い乱れた映像のような顔。
そこからは、表情も、精気も、正気も伺えない。
声も出ねぇ。
(ハナサナイ)
身動きが出来ない。
(いっしょ)
そう言いながら迫ってくる。
唐突に、或る情景が目の前に広がった。
ありふれた狭い和室の部屋。
三歳くらいの小さな女の子が泣きじゃくっている。
傍らにはその母親らしき女性が憤怒の表情で立っている。
「この野郎!」
母親は突然怒鳴ったかと思うと、子供の頭を平手で叩き付ける。
「いてえ!」
何故か俺の頭から足の先まで、稲妻のように鈍い痛みが走り抜けて思わず声を上げる。
「なんで、お前はいつもいつも、ダメだって言ってることを繰り返すんだ!」
母親が再び叫び、今度は拳で頬を殴りつけた。
俺の目の前に火花が散る。
その瞬間、痛みだと気づく事が出来ないほどの激しい刺激が身体を引き裂くように駆け巡る。
意識を失いそうになる。
いや、いっそのことこのまま意識を失ってしまった方がどんなに楽だったか。
(やめておかあさんやめて)
抵抗出来ない絶対の恐怖。畏怖。そして、絶望。
そのぎりぎりの精神状態の中で、俺は気づいた。
これは、この人ならざる女の意識が自分に流れ込んでいるのだと。
再び拳が振り上げられ、思わずその手を払いのけようと大きく振った女の子の手が母親の頬に当たる。
(やめておかあさんやめてやめておかあさんやめて)
母親の頬に女の子の爪で、深い引っ掻き傷が出来、血が滲んだ。
大好きなおかあさんを傷つけてしまった。
切なさに心が潰れそうになる。
(おかあさんおかあさんおかあさんおかあさん)
いつの間にか、母親は女の子の右手を左手で掴み、畳に押さえつけていた。
右手には大きな爪切りを持っている。
嫌な予感しかしない。
母親が女の子の爪を勢いよく切り始める。
激痛。
深爪。
なんて、もんじゃない。
爪と一緒に指の肉を切り飛ばしているのだ。
「いてぇー、いてえ!やめろお!やめてくれえ!」
俺は思わず、声にならない声で許しを乞うていた。
(いたいいたいいたいいたいいたい)
なんてことしやがるんだこの母親!
(イタイヨネコワイヨネワカッテクレテうれしいヨ)
女の子の口がカエルのように広がり、ニタリと笑った。
場面が変わる。
どこかの学校の教室のようだった。
妙にがりがりでセミロングの髪をした女の子が、同じ制服を着た5人の娘達に囲まれている。
高校生くらいには成長していたが、間違いなくあの母親に虐待を受けていた子だ。
周りの娘たちが何か言っているのが聞こえてきた。
「ブス?」
「ブスブスブス、ブス・ブス」
「ブスブスブスブスブス」
「ブス」
何を言っているんだ?こいつらは。
(カナシイかなしいかなしイかなしい)
「ブース、ぶーす!」
突然、囲んでいた娘の一人が叫び声を上げ、無抵抗な女の子の髪に掴みかかったかと思うと、そのまま彼女の身体を荒々しく振り回し始めた。
いてぇ。
だけでは無い。
その行為そのものが、自尊心をエグッて行く。
ズタズタに切り刻んでいく!
女のやることか?いや、人間のやることか?
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさイ)
女の子がいくら謝っても、振り回している娘は一向に止めようとせず、あろうことか、大声で笑い出した。
周りの奴らも重ねるようにして笑い出す。
腹を抱えて笑ってやがる。
いてぇ、苦しい、辛い、悲しい。
終わりの見えない切なさに、胸が締め付けられる。
気持ちが折れそうになったそのとき、ブツっという生々しい乾いた音とともに、鋭い痛みが走り、娘の身体が吹っ飛んで壁に叩きつけられた。
髪の毛の塊が、根元から抜けたのだ。
なんてことを!
もはや、痛みよりも怒りが勝っていた。
悔しさのあまり目の前が真っ暗になる。
(やさしいやさしいアナタはやさしい。いつもダイスキ、いつもヤサシイからダイスキ)
暗転が晴れると、囲んでいたはずの娘達はいなくなっていた。
場所はまだ教室で、女の子は窓際に佇んでいた。
彼女の頭を見てぞっとする。
あの頭だ。
坊主のように短くて。
キチンと刈り揃えられてはいない。
まるで、生えていた髪を雑に毟り取ったように不揃な。
手入れの悪い庭の雑草。
(髪を切ったノ……)
真相は分からない。
(切ったノ。髪を切ると運勢が変わるっテ)
だが、彼女はそういった。
空中に真っ赤な電気のコードがぶら下がっているのが見える。
細長いコードの先は丸く輪が作られており。
疑う余地も無い。
これは自らの命を絶つための道具であると理解できた。
(やさしいから)
女の子の姿が最初に見たブラウスとスカートの女の姿に変わり、輪っかを俺の首にかけようとしている。
(ずっと)
身動きが出来ない。
色の無かった女の瞳が真っ赤に染まった。
(いっしょ)
そう言いながら口を大きく開き、蘇芳色の口蓋を晒しながら、輪っかを掲げて迫ってくる。
もうダメか、と諦めかけたとき。
唐突に何者かの手が俺の
途端、今までの景色が消えて、あの急な坂道が目の前に現れる。
「つかまえた」
その声に、はっと我に返り前を見ると、そこには右手で俺に喉輪を喰らわせて立っている姫の姿があった。
再び、人でないあの女の意識が流れ込んでくるのが感じられた。
場所は先ほどの居酒屋のカウンター。
座ってこちらを見ているのは姫の顔。
姫が口を開く。
「あら、あなた私の正体が見えるのですね?」
女が焦る気持ちが感じられる。
(ヤバイヤバイヤバイこの女ハヤバイヤバイヤバイ)
女の意識が消える。
助かったのか?
そう思っていると、
「さっきの居酒屋でアナタに憑いているこの女が見えました。
私の力が見えるのかって聞いたら一度アナタから離れて逃げましたが、
絶対に戻ってくると思いましたよ」
「でも、もう逃がしません。今、あなたの中に封じ込めましたから」
姫の指ががっちり食い込み声を出すことが出来ない。
助かってない!
ちょっとまて、どっちにしても俺は首絞められてますけど?
もがいてみるが、金縛りを喰らったように身体が締め付けられて動かない。
「いいか?よく聞け」
射すような視線を俺に向けて、姫が唱えるように語り出した。
「この世の全ては移ろいやすく、滅は生から移ろい生は滅より移ろう。
全ての存在は次の瞬間に無へと変わる。この世の形のある物は仮の姿なのだ。
今ある身体も心もいずれ移う。
オマエの求め欲する物、オマエを苦しめている物も、やがて移ろう幻なのだ」
姫の瞳に爬虫類のような冷たい光が宿る。
「苦しみが幻ならば、それを減らすことも増やすことも出来ないのは当たり前だ。
それがこの世でオマエのしがみついている物なのだ。
オマエはそこにあったはずの幻を求めて自分自身を苦しめているんだ。
得ようとすることをやめれば、妨げはなくなる。
妨げが無くなればオマエは自由になる」
俺は気付いた。
これは俺に語りかけているわけではないのだ。
俺の中に閉じ込められているという、あの女に向けて語りかけているのだ。
首を締め付ける手に力がこもって行くのが判る。
いや、違う。
力を入れているのではない、首が掌に食い込むほどに吸い付いていっている。
「そのことを知り、そのことを悟れ。そうすれば、オマエは自由になる。その時初めて真実が現れる」
グラリ、と俺に取り憑いた女の意識が撹拌されていくのが判る。
「考えろ、オマエは何物なのか?考えろ、オマエは何を求めている?
さらに考えろ、それらが幻であることを」
姫の手の力が緩められ、俺の身体はガクリとその場に崩れ落ちた。
「その時、お前は救われる」
(ありがとう)
穏やかな、あの女の声がした。
重苦しく俺の身体にまとわりついていた空気が軽くなっていくのが解る。
「終わりましたよ」
姫はそう言って微笑むと、地面に尻餅を着いた格好の俺に手を差し伸べてきた。
「アナタには黙ってましたが、私、霊が見えるだけじゃなくて、ナントカデキル人なんです」
「なんだ、今のは、俺に何をした!」
俺はその手を借りずに立ち上がると、何が何だか解らぬままに姫に食ってかかる。
「悪霊」
姫がポツリとそういって続けた。
「ずっと憑いてたんです、結構悪霊化が進んでいたからそこそこ長い間。
アナタには見えなかっただけ。
アナタは無意識にそれを感じ、彼女に同情していた。
言ったでしょ?アナタは憑りつかれ易いんだって」
「『だって』……ってオマエ」
言葉がない。
あの化け物を退治したっていうのか?
こいつ、バケモノよりバケモノだって事か?
「どうすればいいか教えてあげたんです。実際にね。言ったでしょ?『取り込んで諭し、無に返す』」
冗談じゃない!
居酒屋での話は、全部ホントだって事になるのか?
そんな馬鹿な事はあるはずないが、もしあるというのなら、いや、実際有ったのだが。
「俺には今みたいなこと出来ないぞ!」
これから寄ってくるバケモノ共を説得しなければ喰われちまうって事か?
「あんなのよっぽどの事がなければ居ません。
見えるようになったんですから、寄ってきたらやんわり話を聞いて諭してあげればいいんです」
「諭すって、どうやって」
「一緒にお酒飲んで話でも聞いてあげればいいんじゃないですか?」
はあ?何言ってんだこの女。
幽霊と酒を呑むぅ?
「とりあえず落ち着け」
姫はそういうと俺の肩をぽんぽんと叩く。
「教えてあげます
「?」
「言ったでしょう?相談に乗ってあげるって」
何か。
まだ何かありそうだったし、実際後日、あった事を知ることになるのだが。
こうして、俺は姫と知り合った。
そして、それが俺の新しい運命の始まりであり、
俺の前から姫がいなくなるまでの間、かなり酷い目にあいながらも、
俺は彼女とともに化け物達とかかわって行く事になるが。
それはまた、次の機会に。
足洗酒 漆目人鳥 @naname
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