仮面の町

鯰屋

仮面の町

 この町では皆一様に、ストローで酒を呑む。


 町──とはいっても、それはおそらく町ではない。形を持たぬ酒場という説が最も有力である。どこから入るかも分からず、またどこからでも入れるらしい。

 『仮面の町』と呼ばれる神出鬼没のその酒場には服装も身分も、会員証の提示など煩いルールこそ無いが、ただ一つことのできない暗黙の了解ルールがあった。


 それは、仮面を身につけること。より具体的に言うのなら、顔を隠していることだ。目元のみを覆うベネチアンタイプ、口元を覆うハーフマスク、顔全体から後頭部までをすっぽりと覆うフルフェイス──型は問われないが、とにかく顔を隠すことがルールであり、入場するための条件でもあった。


 薄暗いホールに充満する甘ったるい香り。バチバチと明滅するジュークボックスに代わって、仮面にタキシードの男たちが気の利いたジャズを遊ばせていた。

 グランドピアノにサックス、ウッドベース。既に少し酔っ払った私は、ふらふらと小舟に揺られるようなステップで歩く。


 袖口から覗く素肌には、黒も白も黄色も見える。顔を隠し、薄暗いダンスホールで照明に当たれば、琥珀色か蜂蜜色かを見分けろと言っているようなもの。些細な差であり、偉大なる神の設計の誤差でしかない。話題に上げること自体ナンセンスだ。


 今宵も人で賑わっている。幼き頃、家族と歩いた道を再び一人で歩く感覚に近い。導く者もいなければ、呼び止める者もいない。眼前に広がるは自由。小舟ひとつで放り出された大海、羅針盤も地図もない。必要がない。


 右に行くも左へ行くも、全ては自由なのだ。

 怪奇千万の『仮面の町』は、昼間と同じ姿形の町並みをより濃い影と綺羅びやかな誘惑で彩った。


 昼間、自分がどんな人間であろうと、ホワイトムスク系のコロンを身体へと馴染ませ、タイを緩めて仮面を被れば──私は、鳩の紳士となる。

 くすみ一つ無い真珠のような鳩を模した仮面。顔全体を覆うこの面は、昼間の私から夜の私へと変身させる最後のトリガーだ。


 カウンターの最端ひとつ手前に座る女性。孤高の雰囲気を纏って一人で呑んでいる様だが、本当に話しかけられたくないのなら一番奥に座りそうなものだろう。

 少し手前に座ってしまうのは、どことなく人気に近くありたいことの裏返しだ。


「やあ、おまたせ」


 金細工の施されたペルシャ猫の仮面。大きく背の開いた紫苑のドレス、唯一覗える口元にはルージュが自信たっぷりに弧を描いている。

 ライチの香りに鮮やかな青い色──彼女が呑んでいるのはカクテル。チャイナ・ブルーだ。


 猿人のマスクを被ったバーテンダーが縦長のグラスを差し出した。もちろん、サービスではないだろう。しかし、これに対して詐欺だ何だと喚くのは、やはりナンセンスだ。

 顎を引いて感謝を示し、コースターが張り付かぬようさり気なく手を添えてグラスを持ち上げる。


 微かに炭酸が弾けて手の甲に落ちた。スライスされたライムが氷と共に、ジンとソーダの中を泳いでいる。

 私としては、炭酸の風味は渋みの邪魔になるものだから、ジンベースのカクテルならジンライムを手に取りたいところではある。

 しかし、こちらの体調を伺うように比較的口当たりの良いカクテルを一杯目とするあたりには、バーテンダーなりの配慮を感じる。


 今夜はカジュアルに、有難くいただこう。

 仮面の口元にストローを差し込んで吸い上げる。カクテルを呑む時、かき混ぜないようにするのが私のルールのひとつだ。作り手の混ぜ方を尊重し、バースプーンの使い方に敬意を払う感覚に近い。

 舌の上でしばし転がしてから飲み込む。ストローで飲むとより強く甘みを感じる。酔いの回りが速く感じることもあるが、それもまた一興。


 口元からストローを離し、仮面に残った水滴を拭う。これを忘れると、どんなに上品な酒を上品に嗜んでも、その人間の魅力は半減である。


 コースターへとグラスを戻し、隣の彼女へとカウンターを伝うようにして視線を向ける。私が声をかけてから今の今まで全く口を開かない彼女だが、その華奢な肩は私へと体重を預けている。

 辛い態度と甘い仕草。彼女の被った仮面の通り、まさに猫のような女性だ。カシューナッツを口へと運び、指に残った塩味を舌先でチロリと拭って、


「あなた、少し鍛えた?」


 少し気怠そうに言う。思考する数秒、跳ねるピアノの音が私たちの間を取り持った。そのお陰で、こうした沈黙も心地よいものとなる。


「少しだけね。またボクシングを始めたんだ。もう僕は若くないからね」


「……そう」


 彼女はハンドバックから鏡を取り出して、己と見つめ合いながら唇に触れて口紅の色を改めている。ハンドバックの中に財布らしきものは見当たらない。

 お酒が呑みたければ香水と一緒に外を歩けばいいの、向こうからやってくるから──そんなことを言っているように感じた。


「ヴァジュラの新作、薄暗いところだと少し艶が足りないと思わない?」


 しばらく鏡と見つめ合ったのち、ふっくらとした唇から嘆息が零れる。


「そうかもね。でも、とても上品だよ」


 欲しかった答えに気を良くしたのか、ルージュの端が僅かに綻んだ。

 彼女は、カシューナッツの入った小鉢を私との間へ滑らせた。毎度のことながら警戒心を解くまでに時間がかかる。本当に猫のような女性だ。


「では、失礼して」


 仮面を少し持ち上げて間からナッツを差し入れる。その間、彼女は頬杖をついてジャズバンドの方へと身体を向けていた。私の素顔になど興味は無いのだろう。私もそうである。


 カジュアルな空気になったところで、世間話でもしようか。カクテルを少し吸い上げて舌を濡らし、


「最近、いやずっと思うことなんだけれどね。この国は文化を殺してしまう」


 そう思わないかい? と彼女の背中へと投げかける。さあ、と興味無さげな返事。

 自信たっぷりに大きく開いたドレスから覗くは、薄暗い店の中でもはっきりと存在を主張する白い肌。点灯と消灯を規則的に繰り返す照明──シアンからピンク、オレンジからレッドへ。

 彼女の肌に色が乗るたびに、その華奢な背の語る表情は目まぐるしく変化していく。時に激しく、時に切なく、人形のように冷たくも聖母のように暖かい。

 その背には尻尾こそないが、鼻先をくすぐられている感覚は猫のそれ。触れようと手を伸ばせば幻のように空を切り、また遠くに現れて微笑んで見せる──蜃気楼のような艶やかさがあった。


 歩み寄ってきたかと思うとコレだ。まったく面倒である。が、楽しくないわけじゃない。私は、少しだけ彼女に背を向けてカクテルを飲み干した。


「陰湿な人間が多く、議論や意見表明と称するソレは取るに足らない中傷と個人的な人格の否定。この国では天才が育たない。人知れず、朽ちていく花に見向きもせず、眼前の光る玩具に遊ばれている」


 ゆっくりと語ったつもりだったが、いささか喋り過ぎただろうか。お酒の席でやってはいけないことといえば、説教と自慢話。そして要らん講釈だ。私としたことが、酔いに任せすぎたかもしれない。

 彼女の両の肩が落ちて背が少し丸くなった。身体全てから蒸散するように嘆息されている気がした。また始まったわ、おじさまのお説教。そんな空気が伝わってくる。

 冷や汗の伝う沈黙、スローテンポのはずのウッドベースが鼓動を急かしてやまない。

 左手で仮面の顎に触れて『チェック』の意を示す。彼女の分にチップを上乗せして、空のグラスの乗ったコースターの下へ札を挟みバーテンダーの見える位置へさり気なく滑らせる。


 彼女はこちらへと向き直り、チャイナ・ブルーを飲み干した。

 

「難しいお話は解らないの。教鞭は教壇の上でお願い」


 いたずらな笑みを浮かべた彼女は細い首を傾げてみせる。ごめん、と私は微笑み返す。もっとも、彼女と違って、全てを仮面に覆われたこの笑みが届いているかは分からない。台詞が芝居がかって抑揚がはっきりとするのも必然である。

 行きましょ、と組んだ足を解いてチェス盤のようなフロアを堂々と歩いていく。ピンヒールからすらりと長い脚へ続き、緩やかな曲線を描いて少しだけこちらへと振り返る猫の仮面へ。

 仮面から覗く青い目が刹那の間、私を一瞥して彼女はすぐに歩き始める。


「一杯だけで失礼。また来るよ」


 手短な言葉に、無言で顎を引いて応じる猿人のバーテンダー。ジャケットの襟を整えて彼女へと続く。エスコートを嫌う孤高の猫は、丸テーブルの連なりを抜け、注射器を二の腕にぶら下げたまま地面へと突っ伏した男を跨いで歩く。


 フラミンゴやガスマスク──蚤の市にも近しい仮面の群れを眺めながら外へ出る。ドアベルが低く鳴り、扉が閉まるに連れてジャズの音が遠のいていく。


 暖色の街灯に石畳、細く枝分かれする路地には新聞紙にくるまってこちらを睨む獣たち。大通りのやかましい喧騒ですら、彼女と共存すればただの背景と成り下がる。

 車もないのに明滅する縦型の信号機を横目に私と彼女は歩く。


「おい誰か、そいつを捕まえてくれ──!」


 唐突に響く野太い男の声。


「俺の仮面を奪って逃げてった野郎だ! ペテン師め、殺してやる」


 そう叫んでこちらへと突撃してくる無精髭の男。その手にはナイフが握られており、もちろん切っ先は私へと向いている。


 予想以上にバレるのが早かった。苦笑いして男の突撃を躱す。バタバタと走る男の足へと革靴を滑らせ、すれ違う巨大な背を押す。バランスを崩せば、後はニュートンにおまかせ。

 派手に転ぶ男へと鳩の仮面を捨て、


「どうぞ、素敵な夜を」


 発狂した男が起き上がるまでの一瞬、傍観する青い目を見つめて──私は街灯の無い路地へと走る。



 ○



 男が去り、追うべきか否かを右往左往したのち、


「いつも一緒に呑んでただろう? 見苦しいところを見せてしまったね。二人きりで呑み直そう」


 鳩の仮面を被り直した男は、猫の仮面へと告げる。


「嫌よ。偽物とはいえ、彼の方がずっとクールだったわ」


 仮面の奥の瞳が男を冷たく一瞥し、踵を返した猫は確かな足取りで夜の街へと消えていった。


「そんな……」


 項垂れる男のもとへと集まる戯(おど)けた顔の警察官の仮面。ひとつ、ふたつと警察の仮面は増えていく。


「おい……! やめろ、下ろせ!」


 群がる警官仮面たちは歓声を上げながら男を囲み、やがて担ぎ上げた。胴上げのように仰向けで交差点の真ん中へと運ばれていく。


 「今夜の祭りはアイツだ」と、人垣に担がれて喚く男を指差す。人々は。紳士淑女らしく穏やかに笑いをこらえて遠巻きに眺めていた。


「よせ、おい! やめろ──!」


 みるみるうちに群衆は数を増し、運ばれた鳩の仮面を中心に膨れ上がっていく。

 いつしか出来上がった巨大な仮面たちの円。群衆は思い思いに中央へと物を投げる。花束、新聞、干からびたパン──撒き散らされるガソリンと宙を舞うウォッカの瓶。紙吹雪が舞い、ブブゼラが叫ぶ。


「なんだお前ら──!?」


 ずぶ濡れの鳩の男は、全方位を仮面に囲まれた異様な光景に怯えて声を震わせる。


 絶叫にも似た歓声と共に人垣が割れ、道化師ピエロメイクの男が現れた。

 品の無い派手な服、だぼだぼのズボンに自ら足を取られて派手に転ぶ。その手には松明が握られていた。

 歓声を上げ、手を叩いてはやし立てる群衆。人々は遠くから札束を投げる。


 右、左、右右、左。ぴょんぴょんと道化師は中央へと跳ねて移動する。真っ赤な付け鼻を弄って笑う。鳩の仮面へと顔を近づけ、裂けるような笑みから覗く歯はどす黒い。


「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだイヤダイヤダ──!」


 仮面のジャズバンドが陽気な音楽を鳴らす。ラッパが高らかに響き、ピースサインしたピエロが両手を振って「ばいばい」と笑う。

 燃え上がる男の身体。男は悶えて叫ぶ。が、ファンファーレと熱狂にかき消されて、静寂の中独りで暴れているように見える。


 消化器を持って現れたスカルマスクの消防隊。慌てず焦らずピンを抜き、ホースを燃え上がる男へと向ける。

 一斉に放出される液体は半透明の琥珀色。


「Yeaaaaaaaaaaaahh!!」


 引火して更に燃え上がる男。全身を覆う炎を振り払うように転げ回り、頭を抱えて体中を掻きむしる。

 群衆は手を繋ぎ、輪を作って炎の周囲を回って踊る。皆が口々に美しい歌を高らかに歌い、隣の者とキスをした。


 ここには正義と平和があった。少なくとも彼らにとってここは桃源郷であり、理想郷。シャングリ・ラであり、ユートピアだ。


 焼けた新聞。焼けた酒。焼けたスーツ。焼かれた男──


 やがて夜は明け、太陽が這い上がる。

 人のいなくなった路地にはペットボトルと食べかけで捨てられたポップコーン。萎んだ薄っぺらい風船がゴミ箱を満たして溢れ、注射器が突っ込まれている。石畳の隙間には吐き捨てられたガムが詰まっていた。


 『仮面の町』は祭りを求めて次の街へと移動する。後に残るは鳩の仮面。

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