きりぎりす

安良巻祐介

 幾つものアプレゲエルの借宿が軒を並べる上辺町を歩いていると、中でも特にぼろぼろの一角から、男が一人、ふらふらと歩き出てきて、道端に座り込むのが見えた。

 粗末な装いというわけでもないのに、その出で立ちがひどく儚く見えたので、やあどうしたねと声をかけたところ、そいつは言葉を返す代わり、片手に持っていた個人看板をひょいと掲げて見せた。

「おれときりぎりす」

 そこには確かにそう書いてあった。

 よく見れば、男の足元にはからからに干からびた沢山の緑の虫の死骸が散らばっている。

 そして男は、見ている私の前でおもむろにヴィオロンを一つ取り出すと、ゆっくりと奏で始めた。

 それは物悲しいような、むしろ物悲しさを嘲っているような、何とも言い様のない音色であったけれども、あまりコインを投げたくなるような類いのものでもなかったので、黙って眺めていたところ、ヴィオロンを弾く男の顔が少しずつ青く、緑がかって、さらにみるみる頬が痩け、肉が細り、しまいには、いつのまにか、うす緑色の骸骨がヴィオロンを抱えて軋み声を上げているようなのになってしまった。

 さすがの私もわっと声を上げて逃げたが、奇怪なヴィオロンの音色はずっと背後から流れ続け、我が家へ逃げ込むまで、耳の中から離れなかった。

 今体験したことの、何が何やらわからないながら、きりぎりすが群れなして棲むあの上辺町のような場所においても、いっそう儚く、いっそう遊んでいて、いっそう浮かれている、きりぎりすの中のきりぎりすのようなものがいるのだろう。

 そして私が見たあの、人のような夢のような一幕は、そんな者たちの孤独を描いた抽象画をたまたま見かけたようなことであろう。

 ついさっきまで耳に染み付いていた音色、背中から追いかけてきたあの音色が、もうさっぱり思い出せなくなっていることに寂しさを感じながら、暖炉の前でコーヒーを飲みつつ、考えたことであった。

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きりぎりす 安良巻祐介 @aramaki88

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