偽界/戦争 お試し1話版

ユウティン

第1話「偽りの世界へ」

『偽界/戦争』


第1話「偽りの世界へ」





「ねぇ……ユウさんは今、幸せ?」


僕は、目の前の少女に問いかけた。

シャープな紺色の制服に、高校生らしく短い朱色のスカート。春風に吹かれ靡く桜色の髪は、夕陽に照らされとても煌びやかだ。



初めて会ったはずなのに、とても愛おしく見える彼女は、少し間を置いて振り返る。

彼女の周りには、役目を終えた桜の花びらがふんだんに舞い踊り、春の終わりを感じさせていた。


こうして、季節は巡り行く。そんな人生を彩る些細な色でさえも、大切で、特別で、かけがえのないことなんだろうと今になって思う。


これで良かったのだろうか、これが本当に正しい選択だったのか。そんなこと、僕には決して分からない。多分、いつまで経っても答えなんて出ないだろう。


でも、彼女が、そして僕自身が夢見てきた世界を目の当たりにして。

僕の口元は、薄っすらと綻んでいた。




そして、彼女は口を開く。





第1話「偽りの世界へ」





ある春先の夜。冬も終わりを告げ、肌を撫でるように暖かい風が吹き渡り、鬱蒼と茂る野花。

空には無数のオーロラが、今が夜だということを忘れさせるほど眩しく大地を照らし、輝いていた。


「綺麗……」


金色の星空にも劣らない、連綿と咲き誇った花々の上でじゃれ合う子供が2人。


1人はおとなしそうな顔をした冴えない黒髪の男の子。

見たところ7歳くらいだろうか。両手を地面に付け、花畑に腰を下ろしている。

その前には、男の子とほとんど変わらない背丈の女の子。


女の子と言っても、顔には靄がかかっておりその子の人柄や、髪色さえまるで分からない。

2人の会話の中から聴き取れる口調や声色から、その子が女の子だと思ったのだ。



「ねぇ、君の夢、教えてよ」



男の子を振り返り、女の子はふと囁く。

靄に隠れているとは言え、その表情はとても穏やかなものだと感じ取れた。風により靡く髪は、上空の光を反射させていて鮮麗だ。


男の子はそんな彼女につい見惚れてしまっていた。返事を待つ女の子と目が合うと、視線を泳がせながら応えた。


「夢、夢かぁ……君は?」

「えー、私?」

「うん、君の夢」



「そうだなー」


人差し指を顎に置き、笑い混じりに言ってみせた。

やがて真剣な表情を作ると、女の子は再び夜空を見上げる。


「幸せになりたい」

「……幸せ?」


随分と捻りのない回答だ。ありふれた女の子の願いを、男の子は真摯に聞く。

それが嬉しかったのか、女の子はもう一度男の子を見て微笑む。


「うん。こんな、悲しいだけの世界から抜け出して、元の世界に帰って、いつか心から笑えることができるのなら……君と一緒に幸せになりたい。それが私の夢!」

「僕と?」

「そう!君と」


ここまで想いを伝えてくれた彼女の気持ちを裏切るわけにはいかない。その一心で、男の子は強く立ち上がると、勇ましく言い放った。


「分かった……じゃあ僕もそうする。それが僕の夢!」


嬉しそうに頬を緩める女の子の手を、男の子は優しく握る。


「ありがとう、私の世界に色をくれて」


俯いた視線をゆっくりと上げ、男の子の瞳を潤んだ目で見つめる。


「でもぉ、ちゃんと自分の夢持たなきゃダメだよ?」

「そっか。ならー、考えとくよ」

「うん、また教えてね」


涙交じりに微笑んで言った女の子に、男の子も笑ってそう返す。

そして、女の子は続けて何かを言おうとして、噤んでいた口を開いた、その時。


「優君……」


視界に稲妻が走り、激痛が頭を襲う。そして聞こえる、謎の声。



『優君!!』

『逃げて!』

『優!!』

『10年後に、全てをた』

『優!!!』


『優……お願い』

『お前は…………だ』



『待っ』

ガコッ!!!


「うっ」



石か何かを轢いたのだろうか。

少年が乗っていた荷馬車は軽く上空へ浮き、しばらく浮遊感を漂わせた後、鈍い音を立てて落ちた。

うとうとしていた少年の意識を現実へと引き戻すには過不足ない衝撃だった。


そして荷馬車は、何事もなかったかのように再び走り出す。

「おぉー悪い、デカイの踏んじまった」


荷馬車の先頭に座り、馬を引く高年の男。

その見た目に反し、少年の乗る荷台の1番端まではっきり聞こえる大きな声でそう言った。

先程森を降りていた少年を偶然見つけ、進路が一致した為目的地まで送る、という段階。


少年の目的地は、この世界では比較的大都市である4大都市の1つ「セーフティ・ノース」。本来なら森の中にある少年の家から1時間程歩けば着く場所にあるのだが、この調子ならばあと数十分で着くだろう。


「いや、大丈夫です」



少年はそうとだけ答えると、自らの持ち物である倒れていた長い巾着袋を懐に戻し、真反対に広がる外の風景へ目を向けた。

凄い速度だ。先程まで近くにあった木々が数秒も経てば新しい木々へと入れ替わる。

雲はすぐさま形を変え、少年を飽きさせない。


「また……この夢」


先程まで見ていた夢にふけり、そんな独り言をぼやく。

少年の名は、桐原(きりはら)優(ゆう)。


黒髪で、一見どこにでもいる普通の17歳。

だがその顔には似つかわしくない赤い瞳を持っている。

冬を越す為の白の薄手のパーカーを覆う灰色のシャツ、そこから羽織った黒いロングコートに、黒い長ズボン。

まるで夜に紛れんとばかりに全身真っ黒で、その中でも異質な赤目がやはり目立つ。



いつまでも変わらない同じような景色に、変化が訪れた。セーフティ・ノースへ向かう途中必ず目に付く謎の黒い物体。

ここからかなり離れた場所に突き刺さっており、それでも尚はっきりとここからでも見える程長く、大きい"ソレ"は、優には到底分かり得ない未知の金属物質だった。


昔読んだ絵本に出てきた飛行機とやらに見えなくもないが……大きな爆弾のようにも見える……と、優は毎度のようにあの正体不明の巨大物について考察を広げる。


その時、黒い物体に囚われ微動だにしなかったその瞳がピクッと動き、優は空を仰いだ。



「雪、か……」





季節は冬の真っ只中。優を乗せた荷馬車がセーフティ・ノースに着く頃には、辺り一面に真っ白な氷の結晶が舞っていた。

馬車の停止を確認すると、巾着袋を無作法に肩に掛ける。すぐにその場から降り、先頭に座る男の前へと踏み寄った。


「ありがとうございました。助かりました」

「いいさ、この先のセーフティ・ウェストにちょいと用事があったからな。気にするな」

「西の街……あそこは危険なのでは」

「物を運ぶだけさ」


そう言うと、男は帽子を目深に被り、鞭に手を掛け体制を直しながらぼそっと呟く。

「気を付けろよ。きっと、この辺りは戦場になる」


その言葉に目を丸くし、固唾を飲んだ優だったが、すぐさま表情を戻す。

男に軽く会釈をすると、きびすを返して歩き出した。

背後からは雪を掻き分ける車輪の音が耳を掠め始める。優は男を振り返ることなく、ガサッ、ガサッと雪を抉り、セーフティ・ノースの入り口へと向かった。



セーフティ・ノースを囲う巨大な壁を伝って門へ至り、優は街へと足を踏み入れる。

この街には特に入門審査などはなく、誰でも、いつでも気軽に入ることができる為、人と話すことが苦手な優にとって大変便利であった。


もし審査などがあろうものなら、優1人では決して中に入ろうとはしない。

かと言って優が1人で暮らしていた家は山奥である故、周りに村などは一切ないので物資を整える為には必ずセーフティ・ノースに来る必要がある。

その為検査がないのは大変ありがたい。



たかが入門審査など、と思うかもしれないが、優は見知らぬ人に話しかけられると完全に固まってしまうタイプの人間なので、ここはとても重要である。





と、そうしている間に、優はかなりの距離を歩き、廃棄区画を抜け、居住区まで辿り着いていた。ここら付近は空が建物に遮られていて、地面に雪が積もらないので大変歩きやすい。

優の目的地である、知人が運営している店もすぐ近くだ。このまま行けばすぐに店に行き着けるだろう。



の、筈だったのだが……

この辺りの区画はかなり入り組んでいて、結構な頻度で街を訪れている優でも度々困惑する。今回もそれだ。

いつものルートを辿ったつもりだったのだが、完全に道に迷ってしまった。

しかも今日は朝早くにも関わらずかなりの人が道を行き交っている。


「くそっ、こんな日に……」


優が時間を気にするように辺りを見回すと、あるものが目に付く。優の目線よりも高い、家々を繋ぐ板版の上を駆ける子供4人。


子供たちを支えている板は、それなりに分厚いが、老朽化によりかなり不安定な状態なのだ。更に積もりに積もった雪ときている。皆遊びに夢中だが、側から見ればかなり危なっかしい。


「おーーい!危ねえぞお前ら!降りてこい!!」

優と同じく板版の劣化を懸念した大人らが声を上げる。だが、子供たちは気にする素振りも見せず続けた。

「大丈夫だって!ほらお前ら早く来ーい!」

「なんでアンタが指図すんのよ!」

「は、早いですっ」

「……」


子供たちが板を踏み付ける度ミシミシと不穏な音が響く。何か起きる前にその場から離れようと優が再び足を動かし始めた、次の瞬間。


「あっ!!」


バキッ!!!という無機質な音と共に、やはり板が割れた。4人の内最も遅れていた黒髪の男の子が巻き込まれ体勢を崩す。

他の3人は幸いベランダを渡った後だったが、男の子の身体は宙を舞う。

周りの大人たちは騒然として足を動かし始める。しかし遅い。

あの高さからでも落下速度は一瞬だ。声を上げる暇すらない。

だが、痛みは尋常じゃない。良くて骨折、頭から落ちれば確実に死に至るだろう。


男の子は目を瞑り、両手で頭を覆う。



男の子を掴もうと走る大人たち、その誰もが半ば諦めかけていた。

だが、彼らの間を、風が通り抜けた。


風は瞬く間に崩れる板の元へと届き、男の子を掴んで奥の壁に豪快に激突した。

数秒後に落ちるはずだった板の残骸をも切り裂いたのか、砂埃が舞う道には空洞ができていて、先の様子がよく見える。


何だ何だと近寄る野次馬たち。器用に壁や手すりを使って地面へと降りて来る子供3人を大人たちが軽くどつく。


「いっっった……」


砂埃から姿を現したのは、壁にもたれ掛かる黒髪の男、優と、優の懐にしがみ付く男の子。

何が起こったのか分からず周りを見回す男の子だったが、優を見上げると、状況を理解したのか、思わず涙する。

そんな健気な男の子の頭を撫で、優は呟く。


「気を付けなよ、危ないから」


どよめく大人たち。だがそれは、見事男の子を窮地から救った優への喝采ではなかった。野次馬たちの中から放たれる大声。

「は、早く!早くこっちに!!」


大人たちは優を見て怯えていた。その瞳は、ただただ恐怖と嫌悪に満ちている。

男の子が疑問に思い、皆が見つめる先、優の手元へと目を向けると……


優が握っていたのは、刀身が黒く染まった黒刀。先程崩れ落ちてきた板を叩き切った際に使ったものだ。

優のそれを、本物の武器だと認識した途端、男の子は身震いしながら素早く立ち上がり、一歩、二歩と後退りしてから大人たちの元へと走り去る。


優は諦めたように、膝を伸ばして立ち上がると、肩に掛けていた巾着袋の中に入った鞘へと刀を納め、群衆を再び見やる。

自然と目線は泳いだ。


「戦争……参加者」


誰かがそう呟いた。

その言葉に目を見開いた大人が足元に転がっていた石を掴み、優へと投げ飛ばす。

一直線の軌道を描き、優へと直撃した。



「っっ!」


想像以上の痛み、優は腕を抑えて嗚咽を漏らす。

虚しくも、容赦なく投石は続いた。石が尽きると、今度は板の破片や小道具などが飛んできて、そのほとんどが優の身体に直撃した。だが、彼を抉るのはそれ以上の罵声だ。


「人殺し!!」

「家族を返せ!」

「お前ら人間じゃねぇ!!」


「っ……」

反撃せず、ただ跪く優。

彼らの言うことは全て嘘偽りない真実だから。



腕を前へかざしなんとか石を防いでいた優だったが、続いていた投石がついに優の頭へと命中した。


惜しくも目元、当たりどころが悪かったのか、すぐに出血が始まり優の視界は赤く染まる。衝撃で身体は地面に崩れた。

途端、優を殺さんとばかりに一斉に動き出す群衆たち。



しかし、次の瞬間。

彼らの道を再び落ちてきた板版の断片が遮る。大きく砂埃が舞い、一瞬の出来事に大人たちはもちろん、優をも困惑する。

その時、誰かに身体を起こされた。


「こっちです」


今にも溶けてしまいそうな、甘く優しい声がした。声の主であろう人物へと目を向けるも、視界がぼやけてよく見えない。優は朦朧とする意識をなんとか飼い慣らし、無我夢中で走り続けた。






なんとか彼らから逃げ切り、人気の少ない路地へと場所を移した優。そして、優を支えながらここまで一緒に逃げてきた謎の人物。

両膝に手を預け、荒く息を吐き続けるこの人が、先程優を助けてくれたのだ。


顔は……フードで覆っていて分からない。首から下も、足まで伸びる長いマントを羽織っている所為で何1つとして人物像は掴めなかった。


「はぁ……はぁ……なんで、助けてくれたんだ」

「はぁ、はぁ、はぁ……ん、放って、おけなかったから、です」


呼吸を整え、座り込む優を見下ろす。額に腕を回しフードを外すと、そこから現れたのは実に健気な少女だった。


アホ毛が伸びる薄く透明感のある綺麗なピンク髪、吸い込まれるかのような碧眼、そして整った顔立ちの、少女だった。

優と同じくらいの歳の、普通の女の子だったのだ。


「血が」


少女は膝を下ろし、すっかり少女に見惚れていた優の額に手を差し出す。

「っ!!」

「ご、ごめんなさい!すぐ手当てを」

「いいよ、助けてもらったんだ、それで十分だ」

「ダメです、放っておけないと言ったはずです」



「少し目を瞑っててください」


拒否する優を遮って、少女は優の耳元で囁く。

少女に促されるまま、渋々目を閉じる優。おでこに少女の指先の感触。怪我の痛みがどんどん引いていくのが分かった。


「はい、もう大丈夫ですよ」


しばらくして少女の声が聞こえ、再び瞼を開く。すると額の傷は完全に消えていて、血も止まっていた。額に再び手を添え、唖然とする優。目の前の少女へ興味津々に迫る。


「今……な、何を」


優を眼前に控えた少女は照れ臭そうに頭を掻き、人差し指を唇の前で立てた。


「えーと、内緒です」

「……」


なんとなくその仕組みを理解し、優もそれ以上は言わなかった。

一瞬の沈黙を置いて、優は再び口を開く。


「いいの。俺を助けて」

「……え?」

「だって俺は……」


そう、優は皆から毛嫌いされる戦争参加者の1人。人殺しだ。そんな人間を匿ったら、この子もきっとただでは済まない。

そんな優を助けてくれた彼女の真意は、一体なんなんだろうか。


「……え??」

「え?」



……ま、まさか。

彼女が頭上に「?」を浮かべていることを理解した優は、心許なげに少女に問う。


「あの、俺がああなってた理由、知ってる?」

「え、知らないです」

「……あぁう」


どうやら彼女は困っている人がいればすぐに手を伸ばしてしまうタイプの人間らしい。あの状況の原因を何1つ知らぬまま、恐らく彼女から見ても憎き存在である優を助けてしまったのだ。

心苦しそうに優は頭を抱える。とにかく、これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。


「ごめん、俺、もう行くよ。ありがとう。本当に助かった」



優は少女の返事を待つことなくその場から立ち上がり、逃げるように走り去る。

背後から「あ、あのっ!」という少女の声が確かに聞こえたが、聞こえなかったことにして走る。

だが、ある事に気付いてすぐにその足は止まった。それは……


「どこ、ここ」



路地を抜けた優を待っていたのは、見たこともない居住地の景色だった。どうやら民衆たちから逃げる際、かなりの距離を移動したらしい。とにかく逃げることに精一杯で、周りの風景、先のことが何も見えていなかった。


先程何度かこの辺りへ来ていると言ったが、間違いなくここへは一度も来たことがない。

ただでさえ道に迷ったというのに、これは致命的だ。確実に時間に遅れてしまう。


はぁぁ……と深い溜め息を落とす優の元へ、少女が追い付く。


「どうしたんですか?」


心配そうに自身を覗き込む少女を、優は見つめる。

少女を再び巻き込むことを躊躇った優だったが、しばらくして瞑っていた瞼を起こすと、少女へと身体を向く。


「時間までに行かなきゃいけない場所があるんだけど、道に迷っちゃって」

「あっ……わ、私の所為ですか!?」

「ち、違う違う!元々道に迷ってたんだ」


焦った様子で口元を両手で覆う少女を宥め、優は再び話し出す。


「喫茶クリスってところに行きたいんだけど、知ってるかな……」


喫茶クリスこそが、優の目的地である優の知り合いが運営している店の名称だ。

因みに本当の名は「喫茶☆クリス」

店長によるとこの星マークが大事らしく、いつも読み上げる際は間の「スター」を絶対に欠かさない。


実のところその知人の変人っぷりもあってあまり繁盛していない。望む返事は返って来ないだろうと期待はしていなかった。


だが……


「あ、知ってます!結構大きなところですよね!」

「え……あぁ、そうだったと思う」


大きな……?

最後に訪れたのは半年くらい前になるが、少なくともその頃は寂れた場所にポツンとあるような(しょうもない)店だった。しかも出されるコーヒーはドブのような味がする。

そんな、そんな店が、この半年で成長したのだろうか……

と、優の胸は僅かに期待で膨らむ。


「私でよければ、案内しますよ」

「あぁ、助かる。ごめん、色々と」


優の言葉を聞き終えると、少女は左右に分かれた道の右へと歩き始めた。


「結構遠いので、急ぎましょう」


窮地を助けてもらって、怪我の手当てもしてもらった、その上道案内とは、どれだけお人好しなのだろうか。本当に彼女には感謝しかない。

これで最後だ。それ以上は巻き込むまいと、今度こそ固く決意した。






「あ……あの」


両手を腰に添え、自慢気に胸を張る少女へ、優は目の前に佇む大きな建物を指差す。

出入り口の上方に掛けられた看板には、「Grease Coffee」とでかでかと書かれていた。

少女は未だ気付いていない。優は言葉に詰まりながらもなんとか事実を伝える。


「ここ、グリスコーヒー。俺が探してるのは喫茶クリスだよ」


そもそもグリスコーヒーってなんだ。出されるコーヒーを想像すると思わず吐いてしまいそうな名前だ。

何故こんな名前の喫茶店が繁盛している……



「……えっ!?」


即座にこちらを振り返り、丸くした双眸を優の指差す先へと移す。少しの間硬直していた少女だったが、状況を理解したのか、頬には僅かに冷や汗が伝っていた。


そして。

「ご、ごめんなさい!ごめんなさい!間違えました!ごめんなさい!!」


そう言って何度も頭を下げる少女。戸惑った優はひとまず少女の肩を掴んで抑える。静止した少女の顔は、今すぐ隠したくなるくらいに真っ赤だった。


「だ、大丈夫だって。元々俺が頼んだんだ」

「でも、私が知ったかぶりした所為で……本当に申し訳ないです」


「仕方ないよ。本当に俺以外誰も知らないってレベルで救いようのない最悪な店だし、君は悪くない。ごめん」

「え……」


少女の瞳が小さくなる。

今までの優からは考えられないほど見事な冗舌ぶりと罵倒ぶり。若干引かれたかもしれない。


「にしてもまいったな……10時までには店に着きたかったんだけど」

店のガラス窓の先に見える掛け時計は、既に10時を指していた。このままでは正午は愚か夜まで途方に暮れる羽目になる。

顎に手を添え考え込む優。


そんな優に歩み寄り、少女は両手でガッツポーズを決めた。


「私も一緒に探します!喫茶グリス!」

「……喫茶クリス……」

「あっ……す、すみません」


顔を赤らめ縮こまってしまう少女。そんな少女を見つめて、優は頬を掻く。

少し考えて、優は言った。


「ありがとう。でも大丈夫、1人でなんとか探してみるよ。付き合わせてごめん」

「そういうわけにはいかないです。私の所為でこんなことになったのに。最後まで付き合います」


なんでそこまで……

ここまで言われて断ると、逆に彼女に失礼なのではないか。と、しばらく考え込んだ優は、少女を向き直って言った。


「……うん、ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」

「……は、はい!」





あれからどのくらい経っただろうか。未だに目的の喫茶クリスは見つからず、視界に映る街並みにも既視感を覚え始めていた。


並んで歩く2人は、セーフティ・ノースにて最も人通りの多い中央広場に差し掛かる。

上れば街全体を見渡せる程の高さがある塔を中心に、そこから円形の空地が広がっていて、所々に街灯、ベンチなどが設けられている。


やはり広場には、真っ直ぐ歩くのが困難な程人が集まっていた。

人が多くなり、自然と肩身が狭くなる優。それを紛らわすように、隣の少女に声をかける。


「見つからないな……」

「そ、そうですね」



「そういえば、急ぎで喫茶店って……一体何の用なんですか?」

「えっ!?」


不意な少女の質問に、優の視線は真反対へと向く。言われてみれば確かに不自然すぎた。すぐに言い訳を用意する。


「い、いや、別に、あえーっと、そう!12時ちょうどにコーヒーが飲みたくなる体質なんだよ俺!!」

「ふふ、なんですかそれ」


愛想笑いだろうか、愛想笑いだろうな。



「ちょっと……休憩する?」


遂に世間話も尽き、優の中に気まずさが募り始めたその時。中央広場のど真ん中に堂々と聳える塔を通り過ぎた、その時だった。

少女がスッと歩を止める。


少し歩いた先で気配に気付き、後ろを振り返る優。そこには、物寂しそうに塔を見上げる少女がいた。これまで一度も見せたことのない少女の表情に、優はかける言葉を失う。



「少し、寄り道してもいいですか」



ふと発された少女の声。

その声はどこか寂しそうで、悲しそうで、優は断ることができなかった。

休憩を提案したということもある。でもそれは申し訳ないという感情というよりは、なにか、別の感情。そんな気がした。



塔の中に入ると、円形の壁に沿うように螺旋状に階段が頂上へと伸びていて、最下層から上を見上げると、目が回りそうな、あるいは吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。


コツン、コツン、コツン。


一歩、一歩と階段を上って行く少女を追いながら、優は彼女に問いかける。


「どうして、ここに?」

「ごめんなさい、最後に、見ておきたくて」

「……最後?」


優のその問いには、少女は答えなかった。

優もそれ以上聞くことなく、少女から数段離れながら頂上を目指した。



陽の光が見えた頃には、既に頂上間近だった。螺旋の階段が途切れると、そこは出口。

外の光がふんだんに差し込む四角形の穴を潜り抜け、屋上へと辿り着いた2人。


いつの間にか雪も止み、太陽が雲から顔を出していた。


「綺麗……」


優を置いたまま、少女は駆け足で手すりを身を乗り出すように勢いよく掴むと、上半身を突き出してまるで子供の様に、目の前に広がる景色を楽しんでいた。


セーフティ・ノース全体が見渡せるのはもちろん、少し目線を上げれば、街の先に聳える川や森、山や谷、その全てを眺めることができる。


雲の隙間から漏れる太陽の光と、先程までに降り積もった雪とが見事に調和して、見える景色はまさに絶景と言うに相応しかった。


2人がいる塔の頂上は、屋根を支える四方の太い支柱、そこから伸びる石造りの手すり。あるのはそれだけ。いたって簡素だが、これ程の絶景を拝めるのならばあれだけ上った甲斐はあると言うものだ。


「いい眺めだね、これが見たかったの?」


少女の後を続く優。

少女は肩の荷が下りたように短く息を吐くと、はい、と呟いて羽織っていたフードを脱ぐ。

桜色の髪が外へと溢れ出し、冷たい風にほどけて流れるように揺らめいている。


優はそんな彼女を目で追いながら少女の傍らまで来ると、そっと手すりに手を添える。


「昔、初恋の男の子と、ここに来たんです。もう、顔も名前も思い出せないけど」


少女はそう答えた。


「でも、私にとっては大切で、特別で、かけがえのない思い出なんです。だから最後に、ここに来たかった。この景色を、見たかった」

「……そっか」


最後、と言う言葉をまたしても口にした少女に、訳を問おうと口を開いた優だったが、出たのは小さく掠れた声のみ。少女に声は届かず、その口はゆっくりと塞がれる。



しばらくして、再び少女の声がした。


「もう、思い残すことはないです。ありがとうございます」

「いや」


美しい景色を背後に、少女は優にそう言った。そんな彼女に、優は不思議と笑みを返してしまう。すると、少女は恥ずかしそうに頬を赤らめ、にっと笑った。



「さ、行きましょうか」





そして、1時間程経っただろうか。

優たちは喫茶クリスへやっとの思いで辿り着いた。現在、念願の店を前に2人は達成感に浸っているところだ。

時刻は午前11時47分。この先店内にて待つ知人から遅刻だの寝坊だの文句を言われると思うと少し憂鬱。


遅くはなってしまったが、彼女と過ごした時間はそれなりに楽しかった。

誰かと同じ時間を共有すること自体優にとって久しぶりだった為、このひと時はこれからも一生忘れられない思い出になることだろう。

そう胸を撫で下ろし、優は隣に並ぶ少女を向き直る。


「色々ありがとう、助かった」

「いえそんな。元はと言えば、私の所為ですから」

「いや、でも楽しかった。方向音痴に感謝、だな」


優の冗談に、少女は柔和な笑みを浮かべた。


「私も……楽しかったです。誰かとこんなに時間を共有したのは、久しぶりです」

「不思議だな……俺もそうなんだ」


優のその言葉に、少女は嬉しそうにそっと微笑む。恥ずかしかったのか、マントの襟に顔をうずくめる。

しばらくお互いに顔色を伺って、少女が先に口を開いた。


「では、私は……失礼します」

「……あぁ。今日は本当にありがとう」


少々心寂しいが、別れの時間だ。

優は笑顔で少女を見送る、はずだったのだが。少女は何かを言い淀み、口元を小さくもぞもぞと動かしている。


「……ど、どうしたの?」

「あの……も、もし」


優は首を傾げて少女の様子を伺う。



「もし、生きて、またここに戻ってこれたら」



「え……」


今、時間が止まった気がした。

少女のその一言に、優は一瞬にして何も考えられなくなった。今までの少女の発言が、今まさに繋がった気がしたからだ。

まさか……まさか。


「い、いえ。なんでもないです……失礼します」


自分の失言を理解したのか、少女はガラッと表情を変え、明るい作り笑顔を見せる。

小さく一礼すると、焦ったように後ろを振り返って走り去って行く。


そんな彼女を目を丸くしながら見ていた優だったが、我に帰り、すぐさま少女の後を追おうと手を伸ばす。

少女の言葉から生まれた疑念。そんなはずないと信じて、そう信じてただひたすら手を伸ばした。


「あ、あの!」



「あっらら〜??」


その時、左肩に伝わる感触。優が振り返る間も無く、その全貌が左から姿を現した。


「遅刻の原因は彼女とのデートかなぁ?見たところこれは破局の直後と思えたのだが」



ジロジロ優を見ながら徐々に間を詰め、そう優を煽るこの女性。彼女こそが、喫茶クリスのマスターであり優の知人。


名はクリス・マーベルという。こう見えて優より10歳上の27歳だ。


茶色がかった長い黒髪に、優と同じく赤い瞳。溢れんばかりに大きな胸が一段と目立つスタイル抜群の身体を、喫茶店らしい白のショップシャツ、黒のエプロンで包み込んでいる。


「そ、そんなんじゃないですよ!」


押し付けられた巨大な2つ山を押し退け、少女が向かった先に目をやるが……


「ど、どうした?」


既に少女は人混みにかき消え、見えなくなっていた。クリスの声が、肩を落とす優の耳に虚しく響く。

クリスは、気まずそうにゆっくりと優に近づき、背中をポンポンと叩く。


「あのー、ごめんね。やらかした?私」

「いや……別に、なんでもないです」

「なんでもないって顔じゃないんですけど!?」


クリスは険しい顔の優に軽くツッコミを入れると、思い出したように強気になって腕を組む。

「ってそれより!一体どれだけ待たせるつもり!?私だって暇じゃないんだけど!?」

「……それは、ごめんなさい」

「まあ誰も客来ないから全然暇なんだけどね!ってうるせぇわ!!」

「痛っ!」


見ての通りかなりめんどくさい人だ。

一呼吸置いて、優は肩に掛けていた巾着袋をクリスに差し出す。


「約束通り、頼むよ」

「もう時間ないんじゃないか。急がないとね」

「ああ」


真剣な表情になったクリスと共に、喫茶クリスへと歩き始めた優。





その時。




優やクリスを取り巻く世界が一変し、むせ返りそうなほど重たい空気が身体にのしかかる。

同時に、青白かった空が一瞬にして赤く染まった。

先程までの賑やかな空気感とは正反対に、この圧倒されそうな雰囲気に、街には緊張感が漂っていた。


だが、誰もがこの現象を知っている。

この現象を誰が起こしたのかを知っている。

この現象が何を示すのかを知っている。


そう、もうすぐ聞こえてくるはずだ。






「さあ、時間だ」



凛々しく、勇ましい声。しかしどこか透き通っていて、神々しさも兼ね備えた声。

声の主はただ1人。

この世界を創り、20年に渡り人類を支配し続けてきた張本人。



「これより、第4次偽界戦争を……始める」



その名もヴィルベータ。

唯一無二、全知全能の、神。




この世界は偽界。

現実世界の遥か彼方に存在する、異世界。




───俺たちはここで、人殺しをする。



ーENDー

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