第11話 あなた待ち島
晩秋の比良の山並みはすっかり紅葉で色付いている。
観光船はそれを遠くに望み、琵琶湖の北へと白波を蹴って航行して行く。
湖上に吹く風は肌寒い。あと1ヶ月もすれば、多分初雪が降ることだろう。
今観光船のデッキに立って、湖上遥か遠くを眺めている。
目の前にはさざ波打つ茫々とした湖が広がってる。
凛太郎は冷えた空気を大きく吸い込んだ。そして、「ふ-」と重く吐き出す。
横にはそっと寄り添う
そんな由奈の冷えた手に、凛太郎はそっと触れる。それに由奈はしっかりと握り返してきた。
多分二人の愛は確かなものなのかも……、いや分からない。
こんな二人、これから観光船で向かう先を、後方へと過ぎ去っていく時にはまるで無感情であるかのように無言で眺めている。
琵琶湖は約400万年前にこの世に生まれた。
世界でも3番目に古い古代湖。
そしてそこには、その時代から存在し続けてきた島がある。
それは――、
周囲2キロメートルの小さな島、奥琵琶湖にひっそりと神秘に浮かぶ。
今は秋も終わろうとしている時季。
しかしそれにも関わらず、島は深緑。
その緑の沈影を、静まりかえった湖面に映し出させている美しい島なのだ。
凛太郎と由奈を乗せた観光船は、そんな島に向かってあと15分もすれば到着することだろう。
凛太郎は日々仕事に追われ、時間に余裕などはない。
されども凛太郎は今日貴重な休日を充て込み、由奈をピックアップし、京都から今津までドライブして来た。それから二人は観光船に乗船した。
この竹生島を訪ねるつもりなのだ。
二人にはその理由があった。
凛太郎は蒼白き学生時代を京都で過ごした。その時に、噂で聞いたことがある。
その純愛の旅路の果てに、竹生島で再会した、と。
京都は1千年の古都。その噂は、義経が生きていた頃からおよそ850年の時を超えて現代に伝えられてきたものなのだ。
源義経と靜御前は、日本歴史上の悲劇のヒ-ロ-とヒロイン。そんな二人を最後に結びつけた場所、それが琵琶湖の最北にひっそりと浮かぶ竹生島だと言う。
そして人たちは、そんな島を……、『あなた待ち島』とも呼んできたのだ。
凛太郎と由奈。二人は学生時代に恋に落ちた。
しかし、凛太郎は地方から出て来た貧乏学生。
一方由奈は京都老舗料亭の一人娘だった。当然由奈は、料亭を継いでいく義務と責任を負っていた。
これは実らぬ恋。凛太郎はそんなこと初めからわかっていた。
しかし、二人は愛し合った。
そして当然のことだが、悲しい別れが……。
「由奈、しばらく離れてみようか?」
凛太郎はついに別れの言葉を切り出した。
由奈からは言葉がない。いつかきっとこうなると由奈もわかっていた。
ただずっと止まらぬ涙を流している。そして湿りのある声で……。
「私、ずっと凛太郎さんを待つわ。だからお願いがあるの」
「なにを?」
凛太郎は声を柔らかくして聞き返した。
「次に、いえ、いつか逢えた時に……、あなた待ち島に連れて行って欲しいの」
由奈も、義経と静御前の噂がどういう物語なのかを知っていた。
1千年前の二人はその悲しい旅路の果てに、あなた待ち島で再会し、そして生き直したと。
「由奈、わかったよ。きっとそうしよう」
凛太郎はそう短く答え、由奈を強く抱き寄せた。そして約束をする。
「あなた待ち島で、その時、まだお互いに好きだったら……、もう一度やり直そう」
由奈は凛太郎の胸の中で、ただ「うん」と頷いた。
こうして凛太郎と由奈は、別々の道を歩んで行くことになってしまったのだった。
凛太郎と由奈、やはり実らぬ恋だった。
しかし、「いつか逢えた時、あなた待ち島に連れて行って欲しいの」と由奈が言った。
それに応え凛太郎は、「その時、まだお互いに好きだったら、もう一度やり直そう」と約束をした。
時の流れは早い。あれから7年の歳月があっと言う間に流れた。
凛太郎は別れた後も由奈のことが忘れられない。
その心の傷を払拭するために、新しい恋もしてみた。しかし、うまく行かなかった。
とにかくもう済んでしまったこと。由奈のことは忘れなければならない。そのために仕事に没頭し続けてきた。
そのお陰か、仕事上では成果もあり、男として、この複雑な現代社会を生き抜いて行く自信もでき、その迫力も備わった。
そんな仕事だけに埋没する日々の中で、凛太郎はまるで赤い糸に手繰り寄せられるように、ばったりと街角で由奈に出逢ってしまったのだ。
「凛太郎さん、最後の約束、憶えてる? だから……、あなた待ち島に連れて行って」
由奈は忘れていなかった。
「そうだね、行ってみようか」
凛太郎は由奈との約束を果たすべく、今朝、京都から一緒に出掛けてきた。
そして今、二人は竹生島、別名『あなた待ち島』に向かう観光船に乗船している。
寄せ来る波を越え、白波を掻き上げて、船はどんどんと進んで行く。
それはまるで850年前の過去に逆戻りするかのように。
凛太郎と由奈は観光船に乗って、湖の北に浮かぶ神秘な島、竹生島に向かってる。
徐々に島影がはっきりと。
その帰結として、凛太郎も由奈も、はるか昔の儚くも悲しい純愛物語、義経と静御前に思いを馳せるのだった。
時は、1159年の1月。義経は源
母は、義朝の妾の
九条院雑仕で、都の千人の女性から一人選ばれた聡明で絶世の美人。
そして、世は乱世。
その年の12月、父・義朝は平治の乱で挙兵する。その時に、三男の兄・頼朝は初陣を果たす。
しかし不幸にも、翌年の1月、父・義朝38歳は敗死してしまう。
そして兄・頼朝は関ヶ原の雪深い山中で捕まる。
その後、13歳の時に流罪の刑を受け、伊豆国
この敗戦で、義朝の妾、23歳の常磐御前は今若/乙若/牛若(義経)の幼子を連れて山野を彷徨う。
しかし、母・常磐は強かった。三人の子供を守るために身も心も捨ててしまう。
夫を殺した仇敵の平清盛に、自ら妾になることを申し出る。そして、その地位におさまるのだった。
義経は、その後母・常磐と4歳まで過ごすが、鞍馬に移される。義経(牛若)は、鞍馬で一所懸命文武両道の修行に励む。
時はさらに流れ、1174年5月。
源氏の血を引く16歳の義経・
そのために京都鞍馬を下り、六波羅の追っ手をかわして平泉へと向かうこととする。
そのルートは3つあった。
琵琶湖の東ルート、あるいは西ルート。
それとも人目を避けるために、湖上を船で進むかだった。
義経はこの湖上ルートが一番安全と考え、それを選択した。そして、その途中に立ち寄った所が奥琵琶湖の竹生島。
義経は、その神秘なる島で、しばらく身を潜めることになるのだった。
義経は竹生島で滞在した後、平泉へと旅立った。
そして平泉へと入り、
それからまた6年の歳月が流れ、待ちに待った時がやってきた。
異母兄の頼朝が、1180年8月17日に源氏復活のために挙兵した。
義経は、血を分けた12歳年上の兄・頼朝を慕っていた。それを知って一時も早く馳せ参じたい。
その願いは遂に叶う。
10月21日、義経22歳は駿河の国・
義経は常盤御前の息子。母親譲りのオ-ラが満ちていて、精魂逞しい若武者。
鞍馬と平泉で文武両道を磨き上げてきた。その上に、平泉では馬術もマスターしている。
そのせいか、まったくひ弱ではない。
兄と一緒に、源氏の血の復活と繁栄を願って、天下に打って出ようという強い野心を持っていた。
22歳の使命感に燃え、平泉から馳せ参じて来たのだ。
そのためか、その勢いは並々のものではなかった。
頼朝は、自分の腹違いの弟とは言え、正直凄いやつが現れたと思った。
頼朝は伊豆国蛭ヶ小島に流されて、約20年間、その青春と青年時代を幽閉されたまま生きてきた。
そのためなのだろうか、その心には歪みがあったのだ。
頼朝は何事にも疑い深く、管理思考が強い。
野山で心身とも鍛え上げられ、自由な発想で生きてきた義経。今にも組織の枠からはみ出し、組織を乱し、そして壊してしまいそうだ。
頼朝は果たしてこんな勢いの良い義経をコントロ-ルできるだろうか、そんなことを危惧するようにもなった。
そして、頼朝自身の野望のためには、邪魔になるのではと考え始めた。
また妻の政子は、女の直感で、義経が自分たちの将来に危険な男になると寝物語で語り始めた。
そして都の匂いのする義経に、嫉妬をも滲ませながら「外せ」とまで助言するようにもなった。
こうして兄と弟のすべての不幸が、この黄瀬川の出逢いから始まったのだった。
頼朝と義経が黄瀬川で対面してから3年の歳月が流れた。
兄・頼朝はなかなか義経を戦に使わない。
完全に外している。
さあれども義経は何回も戦への出陣を願い出た。
その結果、1183年にやっと許されたのだ。
それは都へと上洛し、我が物顔で悪行を振るっている木曾義仲を討つこと。
頼朝はわざわざそんな大役を、つまり強敵を征伐すること、それを義経に命じたのだ。
場合によっては返り血を浴びる可能性が高い。
しかし、義経は嬉しかった。自分のプライドに懸け、負けるわけには行かない。
1184年1月20日、義経26歳は宇治川から京に攻め行った。
計画を綿密に練り、行動を大胆に取った。
その結果、木曾義仲31歳を討った。
ここから義経は
1184年2月7日、一の谷ひよどり越えで平氏軍を破る。
そして1年後の1185年2月19日、奇襲にて屋島の戦いに勝つ。
1185年3月24日には壇ノ浦の戦いに勝利し、平氏を滅亡させてしまう。
華々しい全戦全勝。宇治川の戦いを入れて、4連勝なのだ。
義経は源氏のために、また兄のために、そんな快挙を成し遂げたのだった。
義経は都の人たちの歓喜の中で凱旋する。
今や都一番の大スターとなった。
だが義経は後白河法王の誘いに乗り、法王に接近し過ぎた。
他にもいろいろな原因はあっただろう。
しかれども、これにより――己より先に法王に謁見するとは、舞い上がり過ぎだ!――と兄・頼朝の堪忍袋の緒を切らしてしまったのだ。
義経27歳は今までの事態を丁寧に兄に報告したい。そのために、1185年5月15日、鎌倉に凱旋帰国しようとした。
しかし、頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかった。
「手柄を立てたのに、なぜ、これほどまでの仕打ちを……」
義経はどうしてこのようになってしまったのかがわからない。悔しい。
そんな落ち込んでしまった義経を、後白河法王が宴席へと招いてくれた。
後日振り返ってみると、その宴席に出席したことこそが、義経にとって人生最大の出来事になってしまったのかも知れない。
そう、その宴席には、儚くも美しく舞う一人の白拍子がいたのだ。
その白拍子こそが都一番のアイドル、静御前18歳だった。
義経と静御前、二人はまるで赤い運命の糸をたぐり寄せられ、そして導かれたかのように出逢ってしまったのだ。
「我が心が、辛い」
「義経さま、その運命を嘆かないで下さい」
「静、自由に野山を、舞い飛ぶ蝶のように、舞ってくれ」
「はい、命ある限り……、義経さまのおそばで、ずっと舞わさせていただきます」
「静、二人の愛を永遠に、──、契ろうぞ」
こうして二人は、それはそれは悲しい愛の淵へと落ちて行くことになってしまう。
義経は鎌倉への4連勝の凱旋帰国が許されなかった。
胸が痛んだ。
しかし、兄頼朝と弟義経の不幸はこれだけでは終わらなかった。
さらに続いて行く。
頼朝は弟・義経を朝敵として、ついに追討の命を下してしまうのだった。
この時義経は、兄・頼朝との主従、そして兄と弟の関係は終わったと思った。
その帰結として、その追討から逃れるように、秋も深い1185年11月、静御前を連れて西国へと旅立った。
されども問題があった。
もうその頃には、二人の愛の証、静は身ごもっていた。
二人は吉野から西国へ抜けようとしたが、山道は険しい。そして吉野山は女人禁制。
身ごもった静を連れての逃避行。吉野の麓から前へ進まない。
義経はもう進退窮まった。
「静、お前の身体とややの事を思えば、これ以上は連れて行けない。京へ一旦戻って欲しい」
義経はそんな苦渋の選択をせざるを得なかったのだ。
秋の山の上には、ぽっかりと大きな月が上がっている。その柔らかな月の光が白くぼやっと二人を浮き上がらせる。
静にはもう言葉はない。あるのは涙だけ。
悲しい。
ずっとずっと一緒にいようと誓ったはずなのに。
悔しい。
静は義経の胸の中に埋もれて、とにかく涙を零すしかなかったのだった。
静は法王の宴席で、義経に初めて逢った。そして恋に落ちた。
しかし、これほどまでに早く別れがくるとは思っていなかった。
「二人のややを、しっかりと、……、産んでくれないか」と義経がぽつりぽつりと。
静はそんな言葉が憎い。
そして静の涙はもう涸れてしまった。
男の世界がどういうものなのかはわかっている。
だけれども静は、義経の愛、それだけをもう一度しっかりと心に刻んでおきたい。
「義経さま、私のこと……、本当に好き?」
静は義経を真正面に見据え、はっきりと訊く。
「たとえ、この世が果てようとも、静を永遠に愛するよ。そのために、静のところへ必ず戻る」
義経はそう力強く答え、静を強く抱き締める。
「また、きっと逢えるのですね。それじゃ、義経さまが若い時にしばらく身を隠されていた琵琶湖の竹生島で……、いつまでもあなたをお待ちしております」
静は最後の力を振り絞って義経に伝えた。
「その……、あなた待ち島へ、きっときっと、静を迎えに行くから」
義経は約束をした。
そして二人は最後の熱い、しかし、それはそれは悲しい口づけを交わす。
そんな抱き合う義経と静を、吉野の青い月が、その光りを涙のように滲ませながら照らし出すのだった。
義経は吉野山で静御前と別れた後、行方知れずとなってしまった。
一方静19歳は、山を下りるが不幸にも捕まってしまう。
その後、年明けて人質として鎌倉へと送られ、3月11日に到着する。
そして、その22日には義経の子を懐妊していることが知られてしまう。
頼朝は静に出産後京へ戻ることを許す。
その替わり頼朝・政子夫妻は静に所望する。
それは鶴岡八幡宮の舞台で、都の舞を踊ること。
静には、義経と約束した永遠の愛がある。何も恐いものはない。
4月8日、静は妊娠6ヶ月の身で、頼朝と政子の前で堂々と2曲を舞った。
── 吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき ──
吉野山で、消えて行ってしまった人(義経)が恋しい。
── しづやしづ しづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな ──
おだまきのように繰り返し思う、昔であったらどんなに良いことか。
全戦全勝の若きヒーローと都一番の白拍子、その二人の悲しい運命の中で歌い、そして舞った。
それでも静は義経の愛を信じ、うろたえることなく堂々としていた。
その結果、身ごもった静御前が鶴岡八幡宮で儚くも舞ったという噂は、全国に瞬く間もなく広まって行った。
義経は、この噂で、静の身の上に何が起こっているのかを知るのだった。
月日はさらに流れ行く。
1186年7月29日、静御前は待ちに待った義経の男児を出産した。
しかし、男児であったがために、もっと大きな悲劇が静の身の上に起こってしまう。
頼朝と政子は、静からその可愛い稚児を無理矢理に取り上げた。
そして
この世に、これほどの罪、そして悲惨なことは他にあるだろうか。
静は悲しみのどん底へと突き落とされてしまった。
もう心の支えは、義経が最後に約束してくれた言葉だけ。
「あなた待ち島に、きっときっと、静を迎えに行くから」
この言葉だけを信じ、9月16日に、静は哀切極まる心のままで、鎌倉から旅立って行った。
しかし、その後の静御前の足取りを知る人は誰もいない。
きっと静は、義経との約束通り、あなた待ち島へと向かったのだろう。
一方、義経の方は?
1185年11月に吉野山で静御前と別れ、それからその姿を忽然と消してしまっていた。
その後、義経は2年の長い逃亡生活の後、1187年にやっと平泉に辿り着くのだった。
そして時は流れ、義経31歳は、1189年4月30日に奥州衣川で奇襲に合い、自ら命を絶ったとされている。
その6月13日には、美酒に浸けられた義経の首が鎌倉の頼朝のもとに届けられた。そして首実検がなされた。
しかし、それは義経の首ではなかった。
その頃、義経は一体どこに、またどこへ?
そう、静が待つ『あなた待ち島』へと、旅を急いでいたのだった。
凛太郎と由奈、二人は京都の学生時代に恋に落ちた。
しかし、凛太郎は地方から出て来た貧乏学生。由奈は京都老舗料亭の一人娘だった。当然料亭を継いで行く義務と責任がある。
それは実らぬ恋。そして悲しい別れが……。
由奈は最後に言った。
「今度、いつか逢えた時に、あなた待ち島に連れて行って欲しいの」
そして、凛太郎は由奈に約束した。
「あなた待ち島で、その時、まだお互いに好きならば、もう一度やり直そう」と。
それから7年の月日が経ち、二人はばったりと出逢った。
由奈は、7年前の言葉通り、「あなた待ち島に連れてって」と言う。
凛太郎はそのやり直しの約束を果たすべきかどうか、それを確かめるために由奈を連れて観光船に乗った。
そして今二人は、そのあなた待ち島、
竹生島は、奥琵琶湖に浮かぶ
島に上がった凛太郎と由奈は、猫の額のような狭い船着き場から土産物屋の前を通り、お寺までの160段の急な階段を登った。
その高台から琵琶湖が一望できる。
しかし、そこは湖が広がるだけで何もない。
凛太郎と由奈の二人は、並んで茫然とその眺望を眺めている。
そして、いつの間にか、850年前の義経と静御前の再会の様子が、映画のシーンのようにそこに浮き上がってくるのだった。
静御前は鎌倉を出て、放浪の果てに、やっとこのあなた待ち島に辿り着いた。
そう言えば、吉野山で、義経と別れる時に静は尋ねた。
「義経様、私のこと……、本当に好き?」
義経は「たとえ、この世が果てようとも、静を永遠に愛するよ。そのために、静のところへ、必ず戻る」と誓ってくれた。
そして、義経は約束をしてくれた。
「あなた待ち島へ、きっときっと、静を迎えに行くから」
静はその言葉だけを信じて生きてきた。そして一縷の望みを懸けて、この島までやって来た。
静はずっとずっと待っている。来る日も来る日も、そして来る日も。
この島の高台に立って待っている。
いつの間にか、1年の時が流れてしまった。
静がこの島で義経を待ち出して、二度目の秋が終わろうとしている。
もうすぐ比良の山並みは初雪が降り、寒々とした白い世界に変わって行くことだろう。
しかし今日も、静は高台に立ち、波立つ湖のはるか遠くを眺めている。
静は今日もこれで一日暮れて行くかと思い、高台から下りようとした。
そんな時に、遠くの方に一艘の小舟を発見する。どうもこのあなた待ち島に向かって来ているようだ。
よく見ると、一人のやつれた武者が、その小舟を漕いでいる。そして、どんどんこちらに近付いて来る。
静は、その武者が今、――、誰なのかがわかった。
それは愛する源義経だ、と。
湖の波に揺れる一艘の小舟。それがどんどんとこちらに近付いて来る。
高台にいる静には、その漕いでいる主が、今はっきりと……、それは義経だと確認できる。
涙が止めどもなく零れ落ちる。
「義経様、約束を守っていただいて、このあなた待ち島まで……」
静は高台から階段を走り下りて行った。そして湖岸までやって来た。
義経を乗せた小舟がゆっくりと岸辺に着いた。
静には今、吉野山で別れてからの一杯の出来事が走馬燈のように思い巡る。
別れてすぐに捕まってしまって、鎌倉へ送られたこと。
頼朝と政子の前で、堂々と舞ったこと。
男児を出産した。しかし、無理矢理に取り上げられ、命名もされずに由比ガ浜から投げ捨てられてしまったこと。
そして、鎌倉から放浪の果てに、やっとこの島に辿り着いたこと。
全部全部、義経に聞いて欲しい。
しかれども静はしっかりと涙を拭いた。
そしてきりっと背筋を伸ばし、義経の小舟に向かって真正面に立つ。
義経に対しては、いつまでも一流の美しい白拍子であり続けたかったのだろう。
その立ち姿が実に気品に溢れ、もちろん、どこまでも綺麗。
義経があなた待ち島に降り立った。
「静、約束通り、今帰ったぞ」
義経が力強く静に声を掛けてきた。
「殿、お帰りなさいませ。長年のお働き、ご苦労様でございました」
静もきちっと返した。
すると義経は静のそばまで、ゆったりとした歩調で歩み寄ってきた。そして静を思い切り抱き寄せる。
「静、苦労を掛けてしまった。だがやっと二人になれた。これからここで、もう一度、我々二人の永遠の愛を築き上げて行こうぞ」
義経はそう囁きながら、もっと強く静を抱き締める。
静は義経の胸の中で、「はい」と深く頷く。もうそれ以上の言葉は必要ない。
そして堰を切ったように……、大粒の涙が一つ。そしてまた一つ。
その一粒づつの涙が今までの苦労と悲しみを、そこに詰め込んで湖面へと落ちて行く。
その波打ち際の水面には、いくつもの涙の小さな輪ができる。
そして、それらの輪のすべてを、寄せ来るさざ波が消して行くのだった。
凛太郎と由奈。
二人は今寄り添って、茫然と遙かなる湖の眺望を眺めている。そして義経と静御前の純愛物語の結末を、同じように考えていたのかも知れない。
由奈が突然聞いてくる。
「ねえ、凛太郎さん、義経はこのあなた待ち島へ戻って来て、静御前に再会したのでしょ。その後は、どうなったと思う?」
凛太郎は、由奈からの突然の質問に、まるで夢から起こされたように由奈に向き合う。
「義経と静御前は、その後二人の長年の心の傷を癒し、愛しみ合いながら……、ここで仲良く暮らして行ったのだと思うよ」
凛太郎はとにかくそう信じたかった。だからそう答えた。
「そうなのね」
由奈は、なぜか二人の幸せを
「凛太郎さん、今度、私、……、結婚することになったのよ、……、ゴメンね」
「えっ! どうして?」
凛太郎は思わず聞き返した。しかし、その後の言葉が続いて出てこない。
由奈は、いつの間にか凛太郎の背後から背中に頬をすり寄せてくる。そしてむせび泣くのだ。
「だけど、私……、私、ずっと……、凛太郎さんのことが好きだから」
由奈は涙声で囁いた。
「俺も、由奈のこと好きだったし、今も好きだよ。だから、これからもずっと好きだよ」
凛太郎はただ「好き」を繰り返した。なぜなら、こんな場面では、そう答えるしかできなかったのだった。
「今度、私……、結婚することになったのよ」
凛太郎は由奈からそう告げられてしまった。そして、それにも関わらず、由奈は「私、ずっと、凛太郎さんのことが好きだから」とも言う。
凛太郎はこんな状況をどうすることもできないのだろうか。
「凛太郎さん、ありがとう。また、あなた待ち島に連れて来て欲しいわ。時々、二人の永遠の愛を確かめたいから」
由奈はこんなことまで言い出している。
「そうだね」
凛太郎はそれに反し、そんなあやふやなことを呟いてしまう。
由奈がまた泣いている。
凛太郎はその理由が何なのかわかっている。
7年前、二人が別れる時に由奈は言った。
「今度、いつか逢えた時に、あなた待ち島に連れて行って欲しいの」と。
そして、凛太郎は約束をした。「あなた待ち島で、その時、まだお互いに好きならば、もう一度やり直そう」と。
しかし、「私、ずっと待つわ」と言っていた由奈が結婚をすると言う。そして今度は、涙を滲ませながら背中でせつなく囁くのだ。
「私たちは、きっとまだ、旅が始まったばかりなんだね。また、逢えるわよね」
凛太郎は湖の遠くを眺めながら、ただ黙って由奈の心の叫びを聞く。
そんな時だった。凛太郎は、一艘の小舟、それがこちらに向かってやって来るのを、はっきりと見るのだ。
やつれた武者が一所懸命に船を漕いでいる。それは静御前を幸せにするために、一途に生き延びて来た義経の幻影なのだろうか。
いや、それは違った。
よくよく見ると、それは凛太郎自身そのものだったのだ。
凛太郎は、一艘の小舟を必死に漕ぎ来る自分自身の幻影を見てしまった。それは今の自分の姿。
しかし、義経の一途さからはほど遠い。
そして今、真剣に思う。
「俺は一体何を……、躊躇しているのだろうか?」
凛太郎は歯をぎゅっと噛み締めた。
「俺の一生は、一人の女性・由奈さえ幸せにできないのか」
凛太郎は由奈の方へと振り向き、言葉を発する。
「由奈、俺たちの今までの旅は――、もうここで終わらせよう」
由奈がきょとんとしている。凛太郎はかまわず続ける。
「7年前の約束通り、もう一度やり直そう。だから、一緒になって欲しい」
由奈は驚く。現実に、もう婚約までしてしまっている。
しかし、嬉しい。
やっと凛太郎が、決断してくれたのだ。由奈は今にも自分を失いそう。
「バカ、バカ、バカ……、そうしたら……」
由奈が凛太郎の胸の中で叫んだ。
だが、「そうしたら」の後の言葉を、涙の中でつぐんでしまった。
凛太郎は、その「そうしたら」と言葉の先に、由奈は何を言いたいのか、それはわかっている。
多分由奈は、「結婚する前に、早く、私を奪ってしまって」と言いたかったのだろう。
凛太郎は今まで以上に強く由奈を引き寄せた。
そして二人は、二人の決意を確認するかのように、唇を激しく合わせるのだった。
凛太郎にはもう迷いはない。
「あなた待ち島で、その時、まだお互いに好きならば、もう一度やり直そう」
7年前に、由奈にそう約束した。
由奈は老舗料亭の一人娘。その上に、婚約をしてしまっている。
だが7年経って、まだお互いの気持ちには変わりはなかった。
苦労は多いだろう。
だが、義経と静御前の愛と悲しみの純愛の旅に比べれば、大した話しではない。
されども目の前には、老舗料亭の件、由奈の婚約の件、自分の仕事の件、いろいろな難題がぶら下がっている。
それでもついに、凛太郎は由奈を奪い取り、由奈と二人で永遠の愛を築いて行こうと決意した。
こんな決心をした時に、観光船の「ピー」と甲高い汽笛の合図音が鳴った。もうそろそろ出航する時間に。
それはまるで、二人の新たな愛の旅立ちを祝っているようでもある。
二人は石段を下りて行き、帰りの便に乗船する。
そんな時に、由奈が何気なく呟くのだ。
「もうこれで、私たちの今までの純愛は終わるのね。そして今日からは、義経と静御前のように、もっと戦う愛の旅が始まるのだわ。……、きっと」
凛太郎は、「多分、そうだろうね」とほぼ無意識に返した。
そして由奈は確かめるように、凛太郎の男の覚悟に念押しをしてくるのだった。
「ねえ、凛太郎さん、義経のように、私、由奈女一人のために……、人生かけてくれるわよね」
ちょっとこれ何? 短編物語集 鮎風遊 @yuuayukaze
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