第10話 笑撃物語(日本編)・これでもか in 歯医者

 高見沢一郎は今、テクノ歯科の治療椅子に座って診察を待っている。

 その待ち時間に、ついついアメリカとメキシコの歯医者さんで起こった「これでもか」の体験をボーと思い出していた。

 そしてその間、目の前にあるモニタ-画面では、タイタニックのシネマ映像がずっと流れ続けていた。


 高見沢がこんな時間を持て余し始めた時に、歳の頃は30半ばの若い先生が現れ出てきた。

「まずはレントゲンを撮ってみましょう」

 先生はそう言って、いきなり高見沢の頭に輪っぱのようなものをかぶせ、それを歯の位置にセットした。

 高見沢にとって、こんな機械は初めて。「すごいですね」と感心していると、その若先生は自慢気に説明を始める。

「これ、最新設備なんですよ、この地区では私のところが初めてでしてね、全方位から歯のレントゲンが撮れるのですよ」

 高見沢は、「さすが日本、こんな歯医者さんまでもが、ハイテクだよなあ」と本当に恐れ入った。


 その次にシャカシャカと、実に手際よく数枚のレントゲンが撮られた。

 その処理のためにか、先生は事務室の方へ消えて行ったが、3、4分後に高見沢のところへ戻ってきた。

 その後、いきなりモニタ-の横にあるマウスをチャカチャカと慣れた手付きで動かし始める。

 すると、今までモニタ-に映し出されていたタイタニックの映像は消え、高見沢の歯のレントゲン写真がモニタ-に映し出されたのだ。

 それは当然のことだが、アメリカで抜き取った親不知はそこにはなかった。

 またメキシコで被せ直したクラウン(かぶせ)は、とうの昔に外れてしまっていた。

 画面はそんな状況をくっきりと映し出す。


 それから先生は画面上のカ-ソルを動かしながら、自信たっぷりに説明してくれる。

「高見沢さん、ここ少し黒くなっているでしょ、これ少し化膿してますね、これが痛むのですよ、この白くピカッと光っている細い線が神経です。それにしてもこの奥歯、おかしな治療がしてありますよね、どこで治療されたのですか?」

 高見沢はあまりのハイテクで唖然としながら、「ちょっとね……、海外ですけど」と小さく答える。

「ほう、海外ね。じゃあ、もう少し拡大してみましょ」

 先生はそう言いながら画面の隅っこへカーソルを持って行き、またカチカチとやり出した。

 すると画面は段階的に大きくなって行くのだ。


「ふうん、そうですか、今はそんな事までもが出来るのですね」

 高見沢はそんなハイテクに驚いていると、先生はさらに自慢気に一生懸命デモを始めてくれる。

「そうなんです、――、これをちょっと見て下さい、見る角度、高さも変えられるのですよ、例えばですね……」

 若い先生はもう高見沢の事は眼中にない。目がとんがるほど熱中し始めるのだった。


 このようにさんざん高見沢の愛する歯達の映像で遊んだ後、やっと我に戻ったのだろうか、先生から改めて説明がある。

「それじゃ、痛みだけは止めておいて、まず歯の4分の1づつ歯石を取り、綺麗にして行きましょ、歯を清潔にしてから治療に入ります。だから治療は、1ヶ月後からになりますよね」


「えっ!」

 高見沢は驚いた。

「1ヶ月後って、歯が腐って来るぜ、――、そんなアホな!」と不満。

 しかし、「まっいっか、日本の歯医者さんも久し振りだし、ハイテク先生が仰るように、なされるままにお任せしてみるか」と純情に思い直した。

 そんな時に、先生は声を発する。

「ナオちゃん、清掃、お願いしま~す!」

 先生は近くにいた若い歯科助手の女性にそう告げる。それからさっさと隣りの患者さんの方へと消えて行ってしまったのだ。


「は-い」

 20歳前後の若い歯科助手さん。明るく答えて、高見沢のところへ歩み寄ってきた。

「アメリカで羽交い締めにしてくれた重量級のオバチャン助手、彼女とはえらい違いだなあ。日本では、カワイコちゃん、やっぱり日本は――、最高!」

 高見沢は急に嬉しくなる。

 結果、男の微笑みが零れる。


 そのナオちゃんが、また可愛いお声で高見沢に指示を飛ばしてくるのだ。

「ちょっと、イチュを倒チまチュからね、……、大丈夫デチュか? 頭に気を付けまチョーね」

 オッオー、なんとカワイイことか!

 最近流行りの舌足らず語。まるで幼稚園児に話すようにチャベってくれはりま~す。


「痛かったら、左手を上げまチョね」

 高見沢はそう言われながら、目の辺りにタオルを被せられた。

 そして、ナオちゃんから次の命令が。

「お口を大きく……、ア-ン」

 高見沢は可愛いナオちゃんの「ア-ン」についついつられて、思わず「ア-ン」と口を開けた。


 高見沢はもう中年。

 そんなオッサンが――、「ア-ン」だって。

 高見沢は、喉チンコがマル見えするほど大きく口を開けながら、「俺はひょっとしたら、アホちゃうか?」と一度は反省をする。 

 しかし、「こんなロリコン趣味も、悪くはないなあ」と正直嬉しがる。


「それじゃ、歯石取りまチョね」

 ナオちゃんは可愛くそう宣言して、作業にかかってきたのだ。

「今の日本の歯医者さんて、こんなのが流行っているのか。ええオッサンに、何々チマチョか、――、う-ん、何とまあ摩訶不思議な世界だよなあ」

 高見沢は心底感じ入った。


「チャチチュチェチョの歯石取り遊びチマチョ、……、オモレー! これ、感動ものじゃ!」

 高見沢は歯石を取られながら、このチャチチュチェチョのお姉さんがメッチャ気に入った。

 しかし、まことに残念なこ事だが、こんなチャチチュチェチョの感動はそう長くは続かなかったのだ。


 歯科助手のナオちゃんは一生懸命に高見沢の歯を研磨したり、金棒で引っかいたりして歯石を取ってくれている。

 されども高見沢は「うっ」と苦しくなる。

 そうなのだ。

 歯にかけている水が……、口の奥の方に溜まってきたのだ。

 バキュ-ム用のパイプは一様口には突っ込んである。

 だがその位置が適正でなく、バキュームがうまく働いていない。


「ゴクリ」

 高見沢は苦しくなってきて、まず第1回目の溜まった水を飲み込んだ。

 チャチチュチェチョのナオちゃんは、もう歯石取りに没頭し放しのようだ。

 あっという間に、またまた水が溜まってくる。

 そして、それにシンクロナイズするかのように、どんどんと苦しくなってくる。

「ゴックン」

 高見沢は第2回目の溜まった水を飲み込んだ。


 出来るだけ鼻で息をして、苦しくならないようにはしている。

 しかれども水は容赦なく、どんどんと喉近くに溜まってくる。

 しばらくは辛抱出来るが、すぐに苦しくなってしまう。

 高見沢は、また「ゴックン」と第3回目の水を飲み込まざるを得なかった。


 こんな事態がもう何回繰り返されたことだろうか。

「う・う・う・う・う~」

 さすがの高見沢も苦しくて悶えていると、やっと歯科助手のナオちゃんは、それに気付いてくれた。

 そして可愛く仰るのだ。

「高見沢ちゃま、この水、きれいでチュよ。飲んでも……、おナカイタ、チまチェンからね」


「チャウ、チャウ、違うんだよ! お腹痛の問題じゃないんだよ、――、あのね、口の奥の水の問題なんだよ! もう缶コーヒー3本分は飲んでしまったゼ」

 高見沢は遂に苦しくて左手を上げて、ギブアップ。

「ハ-イ、一度お口を、クチュクチュしまチョ-ね」

 ナオちゃんはこんな口調とは裏腹に、ゴイッと荒っぽく椅子の背を上げてくれはりました。


 しかし高見沢にとっては、ここは千載一遇のチャンス。

 カワイコちゃんに、こんなにキツイ事を申し上げて良いのかなあと躊躇しながらも、やっぱりね、言ってしまうのだった。

「あのねえ、もうちょっとバキュ-ムを、奥の方へ突っ込んでくれない。水をもっと吸い取って欲しいのだけど……、きっちりとやってよね」

 するとナオちゃんからは、実に明るい返事。

「ハーイ、わかりまチた!」


 だがその後、ナオちゃんはしばらく沈黙してしまったのだ。

 高見沢は、「ちょっときつく言い過ぎたかな」と心配になってくる。

 そんな時に、ナオちゃんはぽつりと独り言を呟くのだ。

「そうなんだ」


「おいおいおい、そうなんだ、……、だって? それって、どういう意味なんだよ? お宅の人生の中で、今初めて気付いたという事なのかい?」

 高見沢はもう家に帰りたくなってくる。

 しかれども不幸にも、歯石取りはほぼ強引に再開されたのだ。


 高見沢は正直何らかの改善を期待した。

 しかし残念ながら、それは全く現実には起こらなかった。

 高見沢はそれからも何回ともなく「ゴックン」、「ゴックン」と水を飲み込んだ。

 要はナオちゃんは歯石取りに一生懸命で、水吸引用のパイプの取り扱いを忘れ去ってしまっているのだ。

 一人二役が出来ないカワイコちゃん。

 言い換えれば、充分なトレ-ニングがされていないか、あるいは歯科助手の素養がないか、そのどちらかなのだ。


 高見沢は何回も繰り返し繰り返し水を飲み込んだ。

 もう歯科助手のチャチチュチェチョお姉さんが、どうのこうのと考えてる場合じゃなくなってしまった。

 1リットルの水は飲んでしまっただろうか。

 本当に苦しい。

 水が喉につまり、呼吸機能が落ちてきている。

「ああ、オレは、この歯医者の……、この椅子の上で」

 高見沢に恐怖が走る。


 そして、恐ろしい一つの言葉が、そう、高見沢の頭を過ぎって行くのである。

 まさにその言葉とは、――、

』。


 何と残酷な響きだろうか。

 それにしても、歯医者の治療椅子の上で……、溺れ死ぬとは。

 なんともみっともない話し。

「あ~あ、俺は遂に、歯石取りの最中に、歯医者の治療椅子の上で、――、。こんな事、会社に報告出来ないよなあ」

 高見沢はそんな事をボーと考えている。

 そして約束の左手も上げられないほど意識が朦朧としてきた。


 意識の奥の方で、「これは、真剣にヤバイぞ」と思った。

 高見沢は、ただ一人冷たい三途の川を渡ろうとしている自分の幻影、そんな像が頭の中を過ぎって行く。

 そして心の中で、「死中求活!」と叫んでしまっている。

 そんな時だった。

 遠くの方から声が聞こえてくる。

「高見沢ちゃま、高見沢ちゃま、……、歯石取り、今日の分は終わりまチたよ。大丈夫でチュか? あっそっかー、寝てはったんやね」


「アホ、ボケ、カス、おまえのオヤジはデベソか! 寝てるわけないだろうが、溺死しかけてたんだよ!」

 高見沢は朦朧もうろうとする心の奥底で、こう叫んでいると、椅子の背がゴイッと起こされた。

「う・う・う~」

 高見沢は苦しいが、これで何とか現世へ引き戻されたようだ。


 しかし溺死寸前状態で、椅子の上でぐったりしている。

 多分今喉に指を突っ込めば、少なくとも1リッタ-の水が噴き出すことだろう。

「日本の歯医者って、ハイテクに没頭するのも良いけれど、現場の作業で、溺死させるほどの事が起こっているのに、ハイテク先生は多分気付いていないのだろうなあ。ぜんぜんマネッジメントされていないよなあ」

 高見沢はそんな事を思い、そして更に、「これが、今の日本の現実なのだろうなあ」と納得している。


 高見沢は、目の前のモニタ-から映し出されている映像を虚ろな目で見てみる。

 そこには歯のレントゲン写真はすでに消え、元のタイタニックの映像がある。

 そして、今まさに名場面が映し出されているのだ。


 1912年4月15日午前2時20分。

 アメリカへ向かって処女航海中のタイタニック号が、北大西洋北緯41度46分西経50度14分で沈没した。

 レオナルド・ディカプリオ演じるジャックが凍えるような海に浸かり、漂流の板の上にいるロ-ズに話しかけている。

 高見沢はこのシ-ンが一番好きだ。

 無声のモニタ-画面を見ながら、ぼんやりとそのセリフを思い出す。



JACK :

 You must promise me that you will survive.

 (生き残って行くと約束してくれ)


 That you will not give up no matter what happens.

 (何が起ころうともギブアップしないと)


 No matter how hopeless.

 (どんなに希望が持てなくても)


 Promise me now, Rose.

 (ローズ、今、約束してくれ)


 And never let go of that promise.

 (その約束を、絶対に守って行くと)



ROSE :


 I promise.          

 (約束するわ)


 I will never let go, Jack.

 (ジャック、決してあきらめないわ)


 I will never let go.

 (私は、絶対にあきらめない)


 そしてジャックは、北大西洋の冷たい海へと沈んで行くのである。


 高見沢は映像をじっと見入ってしまっている。

「ノ-・マタ-・ハウ・ホ-プレスか、ネバ-・レット・ゴ-、いい言葉だなあ、……、ロ-ズがアイ・プロミスって、痺れるよなあ――、同じ溺れ死ぬのでも、歯医者の治療椅子の上で、歯石取り中に溺死するのではなく、こうカッコ良く彼女のために溺れ死にたいよなあ」

 高見沢はほぼ放心状態。


 しかし、やっと死の淵から蘇生して来たのか、急に腹が立ってくる。

「何だよ、歯医者の椅子の上で溺死なんて、――、とんでもない話しだよ!」

 そして、「もうテクノ歯科なんかには、絶対に来ないぞ!」とブツブツ独り言を吐いてしまっている。

 そんな時、若い先生が高見沢の所へ戻って来る。

 そしてテキパキと歯を検査し、自信満々に仰るのだ。

「歯石、きれいに取れてますよ。これからこの雑な治療跡を、ハイテク技術でやり直しましょう、しばらく歯石取りが続きますが、次回も、ナオちゃんに取ってもらいますから」


 可愛いナオちゃんの歯石取り。

 それは溺死を宣告されるようなもの。

 高見沢はもう言葉が出てこない。

 そんな高見沢に、横に付き添っていたナオちゃんから明るく声が飛んでくる。

「おチュかれチャまでした。次回をお待ちチてま~チュ」

 さらに、「決して、歯石取りを途中で、ネバ-・レット・ゴ-ね、あきらめないで下チャイね、――、プロミス・ミー、――、約束して下チャイマチェ」

 高見沢はそんな励ましのお言葉を頂いたのだ。


「歯石取りをあきらめないでねって……、そんなプレッシャーをかけるなよ」

 高見沢はナオちゃんに聞こえないようにブツブツと呟いた。

 そして、「うん、まあな……、多分な」と曖昧にナオちゃんに約束をして、魔の治療椅子からゆるりと下りた。

 その後、高見沢は次の来院約束カ-ドを無理矢理に渡されて、テクノ歯科を後にするのだった。


 高見沢一郎、本日のところはとりあえず無事生還。

 しかし、溺死寸前であったためか脳が麻痺している。

 それでも虚ろではあるが、口から一言漏れてくる。

「No matter how hopeless.……、どんなに希望が持てなくても、と言うことか」


 テクノ歯科からの帰り道。

 夜はもうすっかり更けている。

 辺りはシーンとした静寂が漂っている。

 そして冷えた夜風が、高見沢の頬を気持ちよくさすって行く。

 時代の最先端を突っ走しり、それを得意気とするハイテク先生。

 そして、チャチチュチェチョの可愛い歯科助手・ナオちゃん。

 この二人の顔がボヤッと高見沢に浮かんでくる。


「あ~あ、また1週間後に、……、歯石取りか」

 高見沢はそう思いながら「No matter how hopeless.」と、もう一度噛み締めるかのように呟いてみる。

 そしてその後に、高見沢はまるで大きな決心をしたかのように、さらに言葉を付け加えるのだ。

「どんなに希望が持てなくても、――、 I promise. 約束するよ、――、 I will never let go of tartar treatment, 僕は、決して歯石取りをあきらめないと……、Nao-chan.ナオちゃん」


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