第9話 笑撃物語(メキシコ編)・これでもか in 歯医者
「ブゥエノス・タルデス」(こんにちは)
高見沢一郎は今日オフィスの近くの歯医者の門を叩いた。
実は日本で治療してきた奥歯の「クラウン(かぶせ)」が、2、3日前に外れてしまったのだ。
奥歯にごっぽりと穴が空いてしまっている。
さほど痛みはないが、食事にはまことに不都合。
クラウンを早く被せ直したい。
そう思って、高見沢はメキシコ人のマネ-ジャ-に相談を持ち掛けた。
すると、オフィスの近くの歯医者を紹介してくれたのだ。
高見沢は今、南カリフォルニアのメキシコ側の国境の町・メヒカリのオフィスに駐在員として勤務している。
メヒカリは南カリフォルニアの内陸部の砂漠地域に位置し、アメリカ国境に接している町。
夏の気温は摂氏50度近くにも上昇する。
そんな暑くて乾燥した灼熱の町なのだ。
こんな暑い町には悪いヤツは住めず、みんな逃げ出して行く。
残っている者はみんな良い人間で、気のいいヤツばかりだと現地の人達は自慢気に話す。
そんな町の一つの特徴は、デンティストの看板がそこらじゅうに揚がっていることだ。
どうも歯科免許は売買され、お金で免許証を買えば、誰でも歯医者になれるというもっぱらの噂。
そんな状況でも、治療がすぐ出来て、手っ取り早い歯医者をということで、高見沢は自分で探して見た。
だがたくさんあり過ぎて、どれがどれだかよくわからない。
そこで仲の良いマネ-ジャ-に紹介してもらったのだ。
高見沢は、「ブゥエノス・タルデス」(こんにちは)と言って歯医者に入っていくと、受付から年の頃は30歳前の妖艶な女性が現れ出てきた。
「スゴイ色気のある人だなあ、なんでこんなところにこんな美人がいるのだろうか、掃き溜めに鶴とはこの事か、……、やっぱりこの地域は、ベッピンさんの宝庫なんだなあ」
高見沢がそんな感心をしていると、ドクトルが満面の笑みを浮かべながら現れ出てきた。
ドクトルは高見沢と同年輩のようだ。
されども、どう見ても歯医者さんらしくない風貌。
どことなくマフィアっぽい、日本風で表現すればヤクザっぽい感じなのだ。
「ミ・アミゴ!」
ドクトルは高見沢を見るなりそう叫んで、意外にもニコニコと人なつっこく寄って来る。
そして、「アキ、ツカサ」とまで言ってくれる。
これはこの地域の人達の挨拶の定番セリフ。
まずは相手を「私の友達」と位置付け、そして「ここはお前さんの家だよ、だからリラックスしてくれ」という歓迎の意思表示なのだ。
高見沢はこれに対して、まずは「ムーチョ・グラシアス」(めっちゃありがとう)と返す。
その後、「ジョ・テンゴ・ウン・プロブレマ」(ちょっと問題がありまして)と話し、持ってきた金のクラウン(かぶせ)をドクトルに見せながら、「これを填め直して欲しい」と、ちょっとびくびくしながらドクトルに伝えた。
「ノー・プロブレマ!」
日本語で言えば、「問題ない、私に任せなさい」という感じであろうか、ドクトルからはえらく自信満々に、そしてメッチャ明るく返事があった。
高見沢は「大丈夫かな?」と疑いながら、言われるままに治療室へと入って行く。
だけれども治療室に入るなり高見沢は大びっくり。
部屋には、治療のための椅子が1つポツンと真中にあるだけ。
そして、それはどう見ても床屋の焦げ茶色の椅子なのだ。
こんな情景、そう言えば……、高見沢は幼い頃を思い出した。
あれは随分と昔の事だった。
田舎でおばあちゃんに連れられて、初めて虫歯の治療に歯医者さんに行った。
それは夏休みの出来事だった。
当時はク-ラ-もなく、診療室は暑かった。
そしてその真ん中に、ぽつりと焦げ茶色の古びた椅子が1つあった。
あの時のシーン、そのままなのである。
これはまさに時計の針を巻き戻したようなもの。
「ふうん、何とも言えないなあ、……、それにしても、こんなの、なつかしいよ」
高見沢の胸に熱いものが込み上げてくる。
そんな時に、妖艶な受付嬢が突然現れた。
それから肌が触れあうほど近寄ってきて、丁重に椅子に座らせてくれたり、前かけをしてくれたりする。
これはどうも受付嬢がセクシー歯科助手への緊急的変身なのだろうか。
されども、妖し過ぎる。
高見沢はあまりのあだっぽさに何となくおかしいなあと思いながら、ドクトルの顔を覗き込む。
するとドクトルは――、ニヤニヤッと。
高見沢はそっと小指を立ててみる。
ドクトルはまたニヤッと笑う。
どうも小指の意味が通じてるらしい。
そして高見沢は、ドクトルがそばに来た時に、小さな声で聞いてみる。
「ラ・ノビア?」(恋人か?)
ドクトルはヤクザっぽい割にはどうも――、照れ屋さん。
ぜんぜんメキシコ人らしくないぞ。
「ツ・ノビア・エス・ム-チョ・ボニ-タ!」(お前の恋人、めっちゃベッピンだよ!)
高見沢がそう褒めてやると、ドクトルは無邪気に喜んでいるようだ。
しかし、高見沢はこんなドクトルが羨ましく、「クッソー! この色気のあるお姉さんは、おまえの女かよ! 女に自分の助手をやらせて……、チェッ、人生、ホント気楽にやってやがんの」と頭にきた。
高見沢がこんな事でムカムカしている内に、いよいよ治療へと入って行った。
ドクトルはすぐに研磨に取り掛かってきたのだ。
しかし、高見沢は研磨してもらっていて、どうもおかしいなあと感じ出す。
何となく口からきな臭い匂いが出て来ているのだ。
「ウン・モ-メンティ-ト、――、ネセシト・アグア」(ちょっと待ってよ、水がいるんじゃない)
まずはそう訴えてみた。
そうなのだ。
研磨には冷却水がいるというのが、歯医者さんの常識ではなかろうか。
ドクトルはハッと気付き、「わかった」というようなそぶりで水を歯にかけ出した。
水をかけては研磨、――、研磨しては水をかけるという具合にだ。
「おいおいおい、研磨した後に急に水をかけたら、歯が冷却割れするじゃん」
高見沢はそう思いながら我慢していた。
しかし、その内にどうも口の中で、時々火花が飛んでいるようだ。
「もう止めてくれ!」
高見沢はとにかくそう叫びたかった。
「親からもらった二つとない大事な歯、それを火花が飛ぶほど研磨して、その摩擦熱一杯の歯に水ぶっかけたら、歯が割れてしまうだろうが、――、だいたい水をかけながら研磨するのが常識だよ! 同時進行でないと駄目なんだよ!」
ドクトルは高見沢のそんな怒りに気付いたのか、モゴモゴと一応反応する。
だが結局は、「ノ-・プロブレマ」(問題なし)の一点張りなのだ。
やっと研磨が終わり、今度はクラウンを被せる段に入った。
しかしドクトルは、高見沢が持ち込み、手渡した金のクラウン、それではうまく装着出来ないと言い出すのだ。
「1週間でクラウンを調整しておくから……、待ってくれ」
ドクトルからそんな要望があった。
「まあ、ドクトルが言うのであれば仕方がないか」
高見沢はその日の治療をそこまでとして帰って行った。
1週間後、高見沢は、四海兄弟を地で行くヤクザっぽいが人なつっこいドクトル、そして妖艶な歯科助手、この二人に再会するのが面白そうで、懲りずに訪ねて行く。
その上に、ドクトルに手渡した金のクラウンがどうなっているのかも気に掛かる。
高見沢がドアを開け、「ブゥエノス・タルデス」(こんにちは)と声を掛けると、あの艶々のベッピンさんがまたまた現れ出て来た。
今日はスケスケルックで、よりセクシー。
高見沢を愛想良く、そしてねっちりと迎えてくれた。
その後、いつの間にか古い友達のようになってしまったドクトルに再会した。
そしてドクトルは、早速修理したという金のクラウンを見せてくれたのだ。
「ええっ!」
高見沢はそれを見るなり自分の目を疑った。
クラウンが……、えらく薄っぺらになってしまっているのだ。
先週手渡した時は、もう少し厚みがあったようにも思う。
その上に、どうも色調が、――、金色から色あせた色に、そう、それは真鋳色に変わってしまっているようにも見える。
「ケパソ?」(どうしたんだよ?)
高見沢はドクトルを問い詰める。
するとドクトルから、「これくらいの厚みの方が歯にしっくりくるよ。それに、硬度も上げておいたから」と、もっともらしい返事が返ってきた。
一方、妖艶な歯科助手はというと、指に一杯のゴ-ルドの指輪をはめ込んで、その一つにチュッとキスをし、ドクトルの背後から高見沢に嬉しそうに微笑んでくる。
高見沢はその様子から事態を飲み込み、「あ~あ、シャ-ナイなあ、……、修理して、その成分の変わったクラウンを填めてくれ」とドクトルに渋々告げたのだった。
しかし、やっぱり現実には硬過ぎて、そのクラウンはしっくりこなかった。
だが高見沢は、不思議にそんなに不満ではなかった。
このようにして治療はとりあえず終わった。
「トドス、ラクゥエンタ?」(全部で、いくら?)
高見沢は頃合いを見計らって勘定を頼んだ。
するとドクトルから信じられない言葉が返ってくる。
「ティエネ イデア デル コスト?」(いくらが良いと思う?)
高見沢はこれを聞いて呆れてしまった。
とにかく歯医者さんに行って、今までこんなアホな質問をされたことがない。
初めてだ。
「いくらにしようかって、値段を訊かれてもなあ、……、困るよなあ」
高見沢はそう呟き、あとは「う-ん」と呻きながら沈黙してしまう。
しかしドクトルの方から、さらに意見が求められてくる。
「普通、世間では、いくらくらいなのかなあ?」
「そんな事、突然聞かれても、歯医者の相場なんてわからないしなあ」
高見沢はそう迷いながら、しかしハズミで、適当に口走ってしまう。
「 USドルで――、丸く、100ドルでどうだろうか?」
ドクトルはこの高見沢の提案を聞いて、間髪入れずに大声で。
「ノ-・プロブレマ!」(問題なし!)と一発合意。
それは実に簡単な値決めだった。
高見沢がドクトルに100ドルを渡すと、堅い握手が求められてきた。
そしてそれに応えながら、「そうだ、治療費を会社請求するから、レシ-トが要るよな」と思い出した。
「レシボ・ポルハボ-ル」(領収書を下さい)
高見沢はそうドクトルに要求した。
ドクトルはこれにも気前良く、――、またもや「ノ-・プロブレマ!」(問題なし!)
その後いきなりドクトルは、その辺にあるクチャクチャのメモ用紙をビリっと破る。
そして出の悪くなったボ-ルペンで100US$と書き、それにサインをし、その紙を高見沢に手渡してくれた。
高見沢はまたまたこれにも正直驚いた。
「勘定は、完璧に丸い数字、それに、このクチャクチャの紙っ切れが領収書かよ」
しかし高見沢は、こんな自由奔放なやりとり、そしてそのいい加減さにメチャクチャ感動をしてしまう。
世界は実に広い。
だが、これほどまでに大雑把のところは世界中のどこにもないだろう。
「こんなメキシコが、最高に愉快で面白いなあ」
高見沢は思わずそう呟いてしまった。
まさに愛すべきメキシコ。
そして、自然と高見沢の口をついて出て来るのだった。
「ビバビバ、メヒコ!!」 …… (メキシコ、万歳!)
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