焦げた匂い

逢雲千生

焦げた匂い


 その年、ずっと憧れていた高校に入学できた俺は、真新しい学ランを家族に見せてはしゃいでいた。

 中学生の弟は呆れた目をしていたが、小学生の妹はランドセルを背負って一緒にはしゃいでくれた。

 

 憧れの高校でバスケをする。

 そんな夢を叶えた俺は有頂天だったのだろう。

 時間を忘れて自慢をしていたため、気がつくと家を出なければならない時間を過ぎていた。

 

「やばっ。遅刻だ」

 呆れたままの弟に見送られ、俺は高校生活を楽しみにしながら外へ出た。

 

 通学路には違う制服の学生が何人も歩いていたけれど、彼らはここら辺から一番近い学校に通う人達だ。

 バスに乗らなければならない俺と違い、徒歩か自転車で通える距離なので、彼らの表情には余裕がある。

 

 それを無視するように前だけ向くと、今にも走り出しそうなバスに駆け出した。 

 急いだおかげでバスには間に合ったが、ちょうど混む時間帯だったため、ぎゅうぎゅう詰めの登校となってしまった。

 

「おーっす。今日はギリギリだったなあ」

 教室に入ると、入学式の日に初めて言葉を交わしてから、自然とつるむようになった大貴だいきに声をかけられた。

 

 大貴はスポーツ推薦で入学しているため、入る部活は野球部と決まっている。

 なのに、バスケ部に入ると言い続ける俺に、野球しようと誘ってくる変わった奴だった。

 

 野球は小学生の頃に授業でやったきりなのだが、嫌いではない。

 けれど俺がやりたいのはバスケなので、誘いを断りながら毎日話すようになっていたのだ。

 

 今日も昼食をとりながら話していると、昨日の火事について聞かれた。

「今朝にさ、近所のおばちゃんが話してたんだけど、お前んちの近くで火事になったんだろ。大丈夫だったか」

 

 昨日の夜中、俺の家の近所で火事があって、噂では誰か死んだというのだ。

 朝食を食べながら、母親が「怖いわねえ」と父親に話していたが、どうやら知り合いではなかったようなので、それ以上の話をしなかったのは覚えている。

 俺は興味が湧かなかったが、噂好きの母親よりもおしゃべりな大貴は、こちらが知りたいと思うより先に話し始めた。

 

「昨日の火事なんだけどさ、燃えたのって古いアパートなんだって。築五十年とか六十年とかいう古い建物でさ、スプリンクラーとか当然無かったから、あっという間に燃えちゃったらしいよ。二階に住んでた若い女性が巻き込まれたらしくて、身元を確認するのに時間がかかったんだって」

 ほら、と見せられたのはネットニュースだ。

 

 昨晩十一時過ぎに、俺の家の近所にあった木造アパートの一階から出火し、通報があった時には手遅れだったそうだ。

 鎮火したのは朝六時頃で、焼け跡から一人の焼死体が発見されたという。

 写真には燃えるアパートと野次馬の姿があって、荒れた画像の下には、新聞社に写真を提供した男性の名前があった。

 

「……これ、隣の兄ちゃんだ」

「そうなの? これ全部そうだよ」

 見せられたニュースにある写真全てに、隣に住む吉伸よしのぶさんの名前がある。

 どれも画質は悪いし、手ブレしたものもあるから、慌てて撮影したのかもしれない。

 アパートから逃げてきたらしい人の姿も写されていて、臨場感のある写真に引き込まれた。

 

 吉伸さんは、実家から一番近い大学に通っている大学生だ。

 燃えたアパート沿いを通学路にしていると聞いたことがあるので、偶然通りかかったのかもしれない。

 

「他にも、違う名前の人が撮ったのもあるな。別のサイトに動画が上がってたりするんだけど、お前は気づかなかったの?」

「うん。昨日は弟妹と遊んでて疲れたから、宿題やりながら寝てたし、今朝も親とは話してなかったから」

「へー、ちゃんと兄ちゃんしてんだな。俺んとこは兄貴が三人だからつまんねんだよなあ」

 

 大貴には三人の兄がいて、一人はバスケ部にいる。

 一番上の兄は社会人になっているのだけれど、二番目の兄はスポーツ推薦で大学に進学しているらしい。

 面倒臭そうに話すが、彼が兄達を慕っているのはわかっていた。

 

 だからこそ、俺がバスケ部に入ろうとしているのを知って、友達になるだろう俺と一緒にいるのが照れ臭かったそうだ。

 その事を大貴から聞いたのはずっと後で、この頃の俺は、慣れない生活に順応しようと必死だった。

 少しでも早く高校生活に慣れようと、毎日勉強も部活も頑張っていたのだ。

 

 それなのにこの日、急に部活が休みになってしまった。

 俺の具合が悪かったからとか怪我をしたからとかではなく、たんに部活が休みになっただけだった。

 不満を持つ生徒数人が抗議したが、俺も含め全員が、「早く帰れ」の一言で諦めざるを得なかった。

 

 仮入部が終わり、正式に入部したばかりだったので、どうしてもバスケがやりたくてしかたない。

 大貴は部活があり、他に親しい人もいなかったので、公園かどこかでドリブル練習だけでもやろうと思ったのだけれど、そんな時に限ってどこも空いていない。

 指でボールを回しながらバスに乗ると、帰宅にはまだ早い時間だったので乗客は少なかった。

 

 そんな悪い状況が続いたことで気持ちが落ち込み、仕方なく家に帰ろうと思ったけれど、このまま帰っても妹の相手をするだけだ。

 それではつまらないと思い、ふと大貴の話を思い出した。

「そうだ。火事のあったアパートに行ってみるか」

 

 いつもならそんな事はしないのに、この時に限って行きたくなったのだ。

 ネットで事件を調べて場所を確認すると、少しだけ楽しい気持ちでバスを降りた。

 

 これから向かう火事のあったアパートは、俺の住む家から五キロくらいのところにあり、そこからの帰り道も知っている場所だった。

 住宅地というには密集しすぎたその場所には、アパートだけを切り離すように塀が立っている。

 塀があった事と、距離が離れていた事で延焼をまぬがれたようだけれど、近所の屋根や庭はびっしょりと濡れていた。

 

 アパートは全焼だった。

 一階部分の柱がわずかに残っているだけで、元はどんな姿をしていたのか分からないほど、綺麗に焼けていたのだ。

 

 焦げた柱も濡れているし、建物の内側部分には水が溜まったままだ。

 恐る恐る内側を覗き込むと、真っ黒な床がところどころに見える。

 誰かの生活用品の燃え残りもあり、布団の形やテーブルの形が残って焼けた物もたくさん見えた。

 

「……ここが現場か。なんか、思った以上に悲惨だなあ」

 中にまで入る気はなかったのだけれど、ちょうど歩きやすい部分を見つけたので、少しだけ、という気持ちで中に入ってみる。

 

 それほど広くない建物だったようで、端と端はすぐ見えるくらいだ。

 人は大勢住んでいたようだけれど、ほとんどが燃えてしまったのか、大きな物以外は見当たらなかった。

 

 火事の現場なんて、見るものは特にないな――。

 そう思って家に帰ると、珍しく弟と会ったのだ。

 

「兄貴、今日は早かったな。部活無かったのかよ」

「ああ。お前も早かったな」

「まあな。一応受験生だし、俺んとこはいつ辞めてもいいからさ」

 そう言って視線をそらした弟は、面倒くさそうに家の門を開けた。

 

 ぶっきらぼうな弟。

 誰に似たのかと思うけれど、母親は昔の父親に似ていると笑って言うのだ。

 素直じゃないとわかった今では、彼のこんな態度も可愛いと思うのだが、俺に対しては特にひどかった。

 そんなところも可愛く思えるのは、やはり弟だからなのかもしれない。

 

 家の中では、パートから帰ってきた母親が夕食を作っていて、妹は宿題をしていた。

 俺たちに気づいた妹は、嬉しそうに顔をほころばせると、少しだけ不機嫌になった弟に駆け寄ってきた。

「おかえりなさいっ」

 出迎えられたのが嬉しかったのか、弟は「ああ」とだけ返事をすると、微笑みながら妹の頭を撫でて二階に上がった。

 俺もソファーに荷物を置いて妹に「ただいま」と言うと、嬉しそうに抱きついてきた彼女を構い始める。

 男の子みたいにおてんばな妹は、俺の腕を押したり引っ張ったりして転ばせるのがブームらしく、リビングに顔を出した母親に叱られるまで、ずっとそれを繰り返していた。

 

 叱られた妹が宿題に集中し始めたので、俺も着替えるために二階に行こうとすると、着替えてきた弟が珍しく声をかけてきたのだ。

 

「兄貴さ、今日どっか寄ってきた?」

「なんで?」

「いや……違うならいいんだけどさ」

 

 思春期を迎えた弟は、家族に対して無口になる事が多く、妹のことはそれなりに可愛がっていたものの、年の近い俺には思うところがあるのか、話しかけることはほとんどなかった。

 いつもなら俺を無視して妹と話すのに、この日はやけに会話する時間が長かったと思う。

 

 父の帰りを待ってから夕食を終えると、早めに部屋へ戻ろうとする妹に続いて階段を上がった。

 我が家の階段は、広くはないが狭くもない。

 大人二人が通り過ぎるには苦しい程度のはばなので、目の前を歩く妹が実際より少しだけ大きく見えるくらいだ。

 

 まだまだ子供だと思っていたが、小さく見えても背は伸びている。

 弟も成長しているので同じなのだが、久しぶりに見た弟の顔は、幼さを感じないほど大人びていることに、ついさっき気がついてしまった。

 

 妹は小学校に上がって数年はっているし、弟は来年の三月に受験を控えている。

 俺には新しい友人ができたし、部活が始まれば新しい仲間もできるだろう。

 少しだけ寂しくなったが、同時に嬉しくもあった。

 

「あれ?」


 そんな時だ。あの匂いがしたのは。

 

 学校の帰り道にいだ焦げた匂い。

 まさかと思って腕の匂いを嗅ぐが、いつものボディーソープの匂いだ。

 妹かと思って、こっそりと嗅ぐがそれも違う。

 気のせいかと思いながら部屋に戻ったが、寝るまでその匂いは消えなかった。



 

 次の日になると匂いは消えたが、首の後ろに違和感があった。

 手のひらでこすりながらリビングに入ると、驚いた顔の弟と目が合った。

 

「なんだ。また朝から喧嘩でもするのか」

 朝に弱い父の不機嫌な声でそらしたが、弟はずっと俺を見ている。

 何かあるのか聞こうと思ったが、今日は遅れないと、早めに家を出た。

 

 バス停までは、時間に余裕さえあればそれほど焦る距離ではない。

 中学時代の友人に会う事もあるが、真っ直ぐびる通学路を歩いていると、またあの匂いがした。

 

 周りを見ても誰もおらず、焦げているような物もない。

 初めて見た火事の現場だから、まだ匂いが残っている気になっているのだろうと、気にせずバスに乗ったのは良いが、首の後ろの違和感は消えなかった。

 

 学校に着くと大貴が話しかけてきたが、なかなか話に乗れない。

 ずっと首の後ろをさすっていたので、「なんだ、寝違えたのか」と聞かれたけれど、痛いわけではなかった。

 

 その日も部活が休みだったので、一人で帰ることになった。

 首の違和感から寄り道せずに帰ろうと思ったが、バスに乗るとなぜか、あのアパートへ行きたくなってしまった。

 

 二日続けて、死亡者が出た場所に行くのはどうかと思う。

 けれど、どうしても行きたくてしょうがなかったのだ。

 

 アパートの前には立ち入り禁止のテープが貼られていた。

 昨日は無かったので、邪魔だと思いながらテープ越しにアパートを見る。

 ボロボロになった焼け跡があるだけで、面白いことなど一切ない。

「……帰るか」

 

 何やってんだろ、俺。

 馬鹿馬鹿しい気持ちになって帰ろうとした時、また焦げ臭い匂いがした。

 

 風に乗って匂いが届いたのかと思ったけれど、今日は風が吹いていない。

 近くに焦げた物は無く、何かを燃やしている様子もない。

 その時、急に、気温が下がったように寒気がした。

 

 衣替えしていない制服は暑いくらいだったのに、今はそれでも寒い。

 長袖越しに腕をさすりながら歩き出すと、射抜くような視線を感じたのだ。

 

 誰かに見られているとか、そんなレベルじゃない。

 寒気と同時に恐怖を感じるほど強い視線が、どこからか俺を追っているのだ。

 

 振り返っても誰もいない。

 塀に囲まれた密集地は、隣同士の隙間もなく、塀がかろうじて境界線の役割を果たしているようなものだ。

 

 家の中から見られているのかとも思ったが、ほとんどの窓にカーテンが敷かれていて、たとえ見られていてもわからない。

 火事の現場に来ているから、誰か怒っているのだろうかと思ったけれど、そもそも人の気配がしない事に気がついてしまった。

 

 ここは、こんなに静かだっただろうか――。

 そう思った時、景色が歪んだ気がした。

 ひどいめまいに襲われた気がして頭を振ると、道の向こうに立っている何かが見えた。

 

 よく見てみると女性だった。

 遠すぎて顔はわからないが、肩まである茶髪の人だとはわかった。

 ワンピースみたいな服を着ていて、横向きに立っているその人は、しばらくすると道の向こうへ歩いて行った。

 

「誰だ、あの人……」

 かろうじて口から漏れた言葉は、誰にも聞かれることなく、静かに耳の奥に消えた。


 このままここにいても仕方ない。どうせ、家に帰るといつも通りだ。

 そう思って歩き出そうとしたが、体が動かない。

 焦げた匂いが強くなり、誰かの気配を背中に感じた瞬間、思い切り肩を掴まれた。

 

「ぎゃあああああああああああああ」

 恐怖で声が出た。

 力の限り叫ぶが、肩を掴む腕は離れてくれない。

 体も動けるようになり、めちゃくちゃに動き回ると、「俺だよ、落ち着け」と聞いた事のある声がした。

 

「……吉伸さん、と、かえでさん?」

 

 俺の肩を掴んだのは、隣に住む吉伸さんだった。

 彼の隣には恋人がいて、優しい笑みを浮かべて「大丈夫?」と聞いてくれた。

 

「だ、大丈夫です。すみませんでした」

 動き回った時にだろう。吉伸さんの手には血が滲んでいて、自分の爪で傷つけてしまった事はすぐにわかった。

 何度も謝って許してもらったが、俺は申し訳なさにうつむいてしまう。

 

 黙り込む俺に吉伸さんは困ってしまったのか、いつものような軽い会話もなくなってしまった。

 すると吉伸さんの隣から、柔らかい声が俺に問いかけてきた。

 

良樹よしき君はどうしてここに? もしかして、吉伸さんの写真を見て来たとか、かな」

「……えっと、それもあるんですけど、ちょっと気になったことがあるんです」

 

 気まずくなった俺に話しかけてくれたのは、楓さんという吉伸さんの恋人で、美人とは言えないけれど、優しさが顔に出るほど暖かい性格の人だ。

 大学に入ってから付き合いだした二人は、時々こうして一緒に帰っている。

 というのも、楓さんの家が燃えたアパートの近くにあるからだった。

 

 吉伸さんは彼女を送ってから家に帰るらしくて、今日もそうして帰って来たところ、道の真ん中でぼうっとしている俺を見つけたらしい。

 暴れるとは思わなかったらしいけれど、吉伸さんは「それもそうだろうね」と言った。

 

 彼は燃えたアパートを見ると、少しだけ嫌な顔をしたのだ。

 何があったのかと俺もアパートを見るが、燃えた跡が残るだけで何も無かった。

 

「――良樹君ならいいかな。少し時間はある?」

「うん、大丈夫だけど」

 いつもは明るいのに、今日の吉伸さんは変だと思った。

 

 楓さんも困った顔をしていて、アパートの方を見ながら何度も眉をひそめている。

 それでも好奇心には勝てず、楓さんの家にお邪魔することにした。

 

 楓さんの家はアパートから数分のところにあり、ごく普通の一軒家だった。

 実家かと思ったら親戚の家だと言われ、「間借りしてる感じなの」と説明された。

 

 彼女は最初、あの焼けたアパートに住むはずだったらしい。

 けれど満室で入れず、近くに住んでいた親戚の家で、大学を卒業するまでお世話になることを決めたというのだ。

 

 間借りなので家賃は安いし、お弁当を含めた三食付きだから、学生にとっては魅力的な状況だろう。

 スポーツの強豪校として有名な俺が通う高校にも、一人暮らしで大変だと愚痴をこぼす人が多いので、大学に進学できた時の参考にしようと思ったくらいだ。

 洗濯と部屋の掃除以外はしなくていいから楽なのよと、楓さんは嬉しそうに笑っていたが、吉伸さんは一緒に暮らしたがっているらしく、話の途中で何度も文句を言っていた。

 

 失礼して入った楓さんの部屋は綺麗で、女性らしいけれど物は少なかった。

 こんな彼女がいたらいいなあ、と思ったけれど、バスケを思い出して諦めた。

 今の俺はバスケが彼女で、レギュラーをとってスタメンになるのが夢なのだ。

 別のことをしていられるほど、部活も勉強も甘くはない。


 楓さんが入れてくれたコーヒーを口にすると、「おいしい」と言った俺の言葉が嬉しかったのか、「昨日クッキーを焼いたのよ。ちょうどいいから、それも食べてってね」と台所に行ってしまった。

 吉伸さんは甘い物が苦手だし、コーヒーやジュースなどよりも水を飲む人だ。

 かろうじてお茶は飲むので、余っていたという熱いほうじ茶をすする彼は、食にこだわっている様子の楓さんには物足りないのだろう。

 一階から準備する物音が聞こえる中、俺は気になったことを吉伸さんに尋ねてみた。

 

「それにしても、よく火事の写真なんて撮れたね。高校の友達が見せてくれたネットニュースに名前が載ってて驚いたんだけど」

 コーヒーを飲みながらそう言うと、吉伸さんは「偶然だよ」と答えた。

「あの日はたまたま帰りが遅くなって、彼女を家に送ろうとあの道を歩いていたら、アパートの前に人だかりができていたんだ。真っ暗だったのに昼間みたいに明るくて、思わずスマホで撮っただけのことだよ」


 そう言って吉伸さんは、使い込んだケースに包まれたスマホを渡してきた。

 信頼されているのか、それとも子供の頃からの知り合いなので警戒心がないのか、あまりにもあっさりと渡されたそれは、ロックを解除された状態で、無防備に俺に向かって放り投げられた。

 慌てて受け取ると、ロックのかかっていないフォルダを開いて、火事のあった日の写真を一枚一枚見てみる。

 

 彼のスマホには、当時の様子がわかる写真がたくさん保存されていた。

 アパートを見上げる人達や、駆けつけた消防隊の顔。

 消火活動の様子まで記録されていて、実際に見た焼けた後のアパートと、写真の中の燃えるアパートが重なって見えた気がした。

 

「あのアパート、前から建て替えについて揉めてたらしいんだよ。それでこんな事になったから、しばらく立ち入れないだろうね。まあ、亡くなった人もいるから、警察も動いているみたいだし」

「亡くなった人って、たしか、若い女性だったよね」

「そうそう。もう噂になってるんだな。なんでも、小さな工場で事務の仕事をしてたとかで、いつも帰りが遅い人だったらしいよ。あの日は珍しく、早い時間に帰って来たらしくて、寝てたから逃げ遅れたんじゃないかって話が出てたね。事故だったんじゃないかな」

 

 あのアパートの家事で死んだのは、二十代の女性だったらしい。

 隣町の小さな工場で事務仕事をしていて、明け方近くに帰ってくる事も多かったらしい。

 それなのに朝は早かったそうなので、疲れが溜まっていたから起きれなかったんじゃないかと吉伸さんは言った。

「おまたせ。ごめんね、遅くなっちゃって」

 

 会話の途中で出されたのは、楓さんお手製のクッキーだった。

 甘さ控えめのそれをご馳走になっていたけれど、彼女はずっと困った顔をしていた。

 どうかしたのかと尋ねると、彼女は急に真面目な顔で話し始めた。

 

「……亡くなった人なんだけどね、実はノイローゼになってたんじゃないかって噂があるの。会社のノルマが厳しくて、辞めたくても辞めさせてもらえなかったみたいで。だから近所では、彼女が火をつけたんじゃないかって……」

「自殺ってことか?」

 吉伸さんが驚いた顔で聞くと、彼女はうん、とうなずいた。

 

「出火元が彼女の部屋のところだったらしくて、だから、ね……」

 

 楓さんが聞いた話では、毎日遅くまで仕事をして、朝も早い生活に疲れ果てたその女性は、アパートに火をつけて自殺をはかったのではないかというものだったらしい。

 まだ調査途中なので確実ではないのだけれど、まさか、と思いながらも、それが正しいような気もした。


 

 

 その夜も寝るまで焦げた匂いがして、なかなか寝付けなかったが、ようやく見ることが出来た夢に、昼間見たあの女性が現れたのだ。 

 肩までの茶髪をボサボサにして、仕事場らしい狭い部屋で一人、一心不乱にパソコンに向かう若い女性だった。 

 肌は荒れてボロボロで、目の下にできたくまもひどかった。

 誰かが来るたびに怒られていて、そのたびに頭を下げては泣いていた。



 

 目覚めると、まだ首のあたりに違和感があり、昨日と同じようにさすりながらリビングに行くと、妹が俺をじっと見ていた。

 何かあるのかと振り返ったが何もなく、俺が味噌汁のわんを持ち上げると、妹が俺を指差してきたのだ。

 

「お兄ちゃん、昨日は頭洗ったの?」

「洗ったに決まってんだろ。なんだよ、寝癖でもあるのか」

 頭を下げて妹に見せるが、妹は「汚い汚い」と言い続けて母親に叱られた。

 弟も俺を見てはいるが、何も言わないで先に家を出てしまった。

 

 いったい何なんだと思いながら学校に行くが、大貴はもう火事について興味を失っていて、いつも通りの会話に戻っていた。

 まだ火事の件で気になることはあったが、昨日の件もあるため、これ以上話をする気はなかった。

 

 今日も部活が休みになり、また暇になってしまった。

 三日も続けて部活が休みなんて何かあるのだろうかと思いつつ、今日こそは真っ直ぐ家に帰ろうとバスに乗った。

 

 帰る時間が早いからか、今日も乗客は少ない。

 買い物帰りの主婦やお年寄りばかりで、椅子に座れたありがたさと同時に、いつもと違う違和感があった。

 

 あのアパートに行かなくちゃいけない。

 強くそう思ったのだ。

 

 もう二度と行かないと決めていたのに、どうにもならないほどあの場所に行きたい。

 何度も家に帰るんだと思ったけれど、バスを降りると、もうどうにもできなかった。

 

 行きたくないのに足が向かう。

 家へ向かう道とは反対の分かれ道に入ると、走り出したくてしょうがなかった。

 

 行かなくちゃ。早く行かなくちゃ。

 急ぐ気持ちでアパートに向かう。

 いつの間にか走っていて、息を切らしながら燃え尽きたアパートの前まで来ていた。

 

「はあ、はあ」

 自分でもわかるくらい自分がおかしい。

 何でここまでアパートに来たがるのかも、何をしたいのかもわからないのに、どうしてもここに来なければならないと思ってしまうのだ。

 立ち入り禁止のテープをくぐって中に入ると、「行かなくちゃ、行かなくちゃ」と口にしながら焼け痕まで行く。

 そして、建物があった場所にもう一度踏み込むと、首の違和感が強くなった。

 

「痛い、いや、熱い……」

 チリチリと、首のあたりに痛みが走った。同時に熱くも感じ、奥へ進むにつれてひどくなっていく。

 ゆっくりと進むが、首の痛みと熱さはなおさらひどくなり、これ以上は我慢できないと思った時、また肩を掴まれた。

 

 誰だろうか、吉伸さんか?

 そう考えて安心したが、彼の手にしては小さいものだった。

 

 楓さん? いや、これは……誰だ。

 知り合いだと思ったのに、それはありえないとわかったのだ。

 

 俺がここに来るまで誰もいなかったし、もし吉伸さん達が来たとしても、アパートの内側に入った俺に気づかれず、音一つ立てずに近付いてなど来られないはずだ。

 

 まさかと思いながら振り向こうとするが、首の痛みと熱さで目が回り始めた。

 頭を掴まれてグルグル回されるようなひどいめまいは、ゆっくりと俺の意識を遠のかせる。

 倒れ込むように空を見上げた時、茶色の髪が見えた――。



 

 俺は、また夢を見た。

 夢の中に出て来たあの女性は、疲れた顔で古いアパートの階段を上っている。

 まだ若いだろうに、おばあさんみたいに背中を丸めて歩いていて、顔にせいはなかった。

 

 震える手で鍵を開けると、部屋に入って電気をつける。

 ご飯を食べないままシャワーだけ浴びると、敷いたままの布団の上に倒れ込んだ。

 そのまま死んだように眠ると、しばらくして目覚ましの音で起き上がる。

 まだ外は暗いのに、彼女は新聞配達よりも早く起きて部屋を出て行く。

 暗い中を自転車で会社に行き、誰よりも早く仕事を始めて、お湯を沸かしながら社員達が来るのを待っていた。

 そして昨日の夢のように、叱られては泣いてを繰り返しながら仕事を終え、またご飯も食べずに寝るのだ。

 

 彼氏とも別れ、家族とも疎遠になり、友人すらも離れていくほどのひどい状況だった。

 

 彼女が勤めていた会社は、今で言うブラック企業そのもので、給料もほとんど上がらず、毎月ギリギリの生活をしていたようだった。

 辞めようとしても脅されて出来ず、仕事を探す時間どころか休む時間もない毎日。

 土日などあって無いもので、残業代すら出なかったようだ。

 

 そんな日々が続いたある日、彼女はいつもより早く帰れた。

 会社で不備があり、社長が証拠隠しのために社員を家に帰すことにしたからだ。

 

 次の日には入社して以来初めての休みをもらい、彼女は何年かぶりに夕食を平らげた。

 お風呂にも浸かり、久しぶりに味わうゆったりとした時間を満喫しつつ、布団に横になった。

 

 それから数時間後、玄関の扉から煙が見えた。

 下からは住人の悲鳴が聞こえ、早く逃げろと誰かが叫ぶ。

 けれど彼女は目覚めなかった。

 久しぶりの安心感で眠り続け、煙で目覚めた時にはすでに手遅れだった。

 

 あたりは火に包まれ、彼女が逃げようと玄関に向かった時だ。

 古びて脆くなっていた天井のはりが落ち、運悪く彼女の首に当たったのは。

 

 火のついた梁が彼女の肌を焼き、首を絞めるように重みがかかる。

 声にならない悲鳴を上げるが、彼女は誰にも助けられず気づかれもしないまま、気を失うように死んだのだ。



 

 そこまで見た時、俺は目を覚ました。

 いつの間にか家に帰って来ていて、部屋のベッドに寝かされていた俺は起き上がると、声のするリビングへと下りて行った。

 

「起きたんだ」

 弟がぶっきらぼうにそう言い、妹の相手をしながら不機嫌な顔を見せる。

 

「ったく、何であんなところで寝てんだよ。運良く俺が通りかかったから良かったけど、そうじゃなかったら大騒ぎになってたぜ」

「寝てた……? どこで」

「火事のあったアパートの前でだよ。重たいのに運んできたんだから、感謝してくれよな」

 

 弟によると、偶然あの道を通ったところ、火事のあったアパートの前に倒れている俺を見つけて、家まで背負って来てくれたというのだ。 

 意識を失った気はしたが、どうやってアパートの外に出たのかは覚えていなかった。

 

 あの夢は何だったのだろうか。

 今朝は俺の頭を「汚い、汚い」と言っていた妹は、俺が目覚めるといつも通りだった。

 弟も俺を無言で見ることは無くなったし、部員同士の連絡網には部活再開の知らせが入っていた。

 あれほど不思議に思っていたことが、たった数時間のうちに解決していたのだ。

 焦げたような匂いがしなくなったのも、その日の夜からだった。



 

 これは後で知った話だが、亡くなった女性の死因は窒息死で、彼女の遺体には焼け焦げた梁が乗っていたらしい。

 梁の重みで首を圧迫されて気絶したらしく、火の苦しみは味わわなかったそうだが、それでも夢の通りならば、ずっとずっと苦しかった事だろう。

 

 管理人は管理能力が無かったとして罪に問われ、亡くなった彼女が勤めていた会社も、すぐに勤務形態の異常さが明るみに出て罰を受けたらしい。

 会社の社長や重役は逮捕され、ブラック企業として会社は認定されてしまったという。

 そこに勤めていた社員さんは、亡くなった女性をストレス発散の標的にしていたこともわかり、大人げないいじめが発覚すると、全員が退職したというのだ。


 彼女の遺体は、死因がわかるとすぐに遺族の元にかえされ、たくさんの人が弔問に訪れたらしい。

 疎遠になっていた家族は、娘のひどい環境を悲しみ悔やんで、会社相手に訴訟を起こすと言っていた。

 縁が切れていた女性の友人達も葬儀に参列したそうだけれど、数年ぶりの再会が葬式だったのは辛かったと思う。


 あれこれと新しい情報が入っては、首が痛んだり熱くなったりしたが、彼女の葬儀を済むと、次の日には首への違和感が消えていた。

 あの夢も、違和感が消えた後は一度も見ていない。

 

 火事の後、すぐに新聞に掲載された彼女の写真は、俺が夢に見た彼女にそっくりだった。

 弟に運んでもらった後で、もう一度確認してみても間違いなかったので、あの夢は彼女の記憶だったのだろう。

 夢のことがあったので、しょうこうだけでもさせてもらいたいと思ったが、生前はまったく接点が無かった相手だ。

 混乱させるのもどうかと思い、関わることを諦めた。

 

 ちなみに、部活が休みだったのはただの偶然で、顧問が事故で怪我をしたため、コーチだけでは選手全員の面倒を見切れないと判断したからだそうだ。

 入院するほどではなかったらしいが、教師でもある顧問は怪我の様子を見るために、しばらく仕事を休むことにしたらしい。

 けっきょく顧問の怪我が軽かったので、部活は三日だけの休みで再開することになったのだった。

 

 事故から事件現場となったアパートは、マスコミの報道が落ち着くとすぐに片付けられ、しばらく更地さらちになっていた。

 焼けた原因も判明し、調査の結果は放火だった。

 罪に問われた管理人が、建物に掛けた保険金目当ての犯行だったと自供したのだ。


 それにより、土地のオーナーだという人もテレビに出て来て、「自分は知らなかった。向こうが勝手にやったことだ」と騒いでいたが、これも嘘だとわかると、マスコミは事件を悲劇的に取り上げた。

 亡くなった女性の犯行だとも騒がれていたのに、一転して彼女を悲劇のヒロインに変えたマスコミは、管理人とオーナーによる保険金目当ての放火だと確定した時点で、初めて被害者の名前を公開したのだ。


 それまでは警察に止められていたらしく、無駄に世間を煽るような事態にならないように、女性の家族に被害が及ばないようにとの配慮だったらしい。

 警察は最初から放火を疑っていたらしく、火災のプロフェッショナルの力も借りての捜査で発覚した事実に、マスコミはこぞって彼女の名前と共に、いかに悲劇的な最後だったかを報道し続けていた。


 

 二十七歳になった彼女は、九年もの間、苦しい状況の中で耐え続け、最後は安らかな日を迎えることなく炎に包まれた中で息絶えた。

 同じアパートの住人どころか、家族にすら自分の状況を知ってもらえないまま、死後もひどい扱いを受けた彼女の晩年と最期は、おそらく俺だけが知っているのだろう。

 これから先も、ずっと。



 

 俺が見た夢は、彼女の実体験だったのだ。

 

 酷い生活に酷い人間関係。 

 逃げ出したくなるほどつらいのに、それでも彼女は頑張っていたのだ。


 なぜ俺だったのかはわからない。

 ふざけた気持ちで、好奇心から訪れた火事の現場で、なぜ彼女が俺にあの夢を見せたのだろうか。

 いや、そもそもあの夢を見せたのは、本当に彼女だったのかもわからないのだ。


 しばらくは自分の行動を反省しつつ、あの現場に行っては毎日手を合わせていた。

 彼女の冥福を祈る気持ちと、自分勝手ながら呪ったり恨んだりしないでほしいという気持ちを込めて、ひたすら手を合わせ続けていた。

 葬儀が終わって、首の違和感がなくなってからも、アパートが更地になるまでずっとだ。

 

 けれど今は、一人で亡くなった彼女の夢を思い出しては、静かに心の中で手を合わせている。


 誰にも弱音を吐けなかった彼女が、俺にだけ見せてくれたあの夢に、何か意味があると思っているから。



 

 後日、俺はいろいろな人に聞いてようやく教えてもらえた彼女の墓に、休日を利用して花を供えに行った。

 

 彼女の実家は遠くて、辿り着くまで苦労したけれど、海の見える綺麗な町にあった。

 お墓は海の見える丘の上にあって、潮風が心地よく、空も陸もさえぎる物が何もない素晴らしい場所だった。

 

 これでようやく、彼女は心置きなく休めるのかもしれないと思い、絵美さんの家族に会わないですぐに帰ってきた。

 いきなり知らない男子高校生が現れても困るだろうし、あの夢の話をしても信じてもらえないと思ったからだ。

 

 何軒かの花屋で気に入った花を買い、最後に入った花屋でまとめてほしいと頼んだ花束は、自分でも驚くほど大きな物になっていた。

 丘を下りながら、何度も振り返って見つめた彼女の墓で、何よりも綺麗に見えるほどだったが、やり過ぎたかと反省したりもした。

 それでも、反省する気持ちと冥福を祈る気持ちから出来上がった花束は、まとめてくれた女性店長も羨ましがるほど立派な物だ。

 また来ますねとつぶやいて、かすかに潮の香りがする風を感じながら、俺は家族の待つ自分の家へと帰ったのだった。


 それから数日後、絵美さんの家族からお花のお礼が届き、家族全員にバレてしまったのは言うまでもなかった。

 なぜバレたのかは、今でも教えてもらってはいない。



 

 あの三日間の間に、弟が何を見ていたのか、妹が何を見たのかは今でも聞いていない。

 もし彼女が亡くなった後の姿で現れていたとしたら、その姿を何も知らない人にあれこれ言われるのはつらいだろうと考えたからだ。


 

 

 俺は高校を卒業した後も実家で暮らしている。

 

 就職してからも利用しているあのバスは、乗ったとしてももう、あのアパートへ行きたいとは思わない。

 

 俺が絵美さんの夢を見ていたのは、あの日、焼け跡を訪れた俺に彼女は気がついて、自分の苦しみを知ってほしいと思ったからではないだろうか。

 せめて誰かに自分の苦しみを知っていてほしい。そう強く願ったのではないかと思うのだ。

 

 アパート跡には新しい家が建ち、幸せそうな家族が暮らしている。

 幽霊騒ぎもないため、彼女はあの世に行けたのかもしれないと、周囲ではこっそり噂をしていることだろう。

 

 時々営業であの場所を通ると、あの時に見た夢を思い出す。

 

 そのたびに新しい家を見ながら思うのだ。

 

 どうか今度こそ幸せに、と。


 


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焦げた匂い 逢雲千生 @houn_itsuki

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