[0][6] = "カレンダーコンポーネント異常終了事件{7}"
「まず状況を訊いてもいいかな」
調査の許可が下りた御園が最初に口にしたのはそんな質問だった。
「最初は境界値を調べていたんですけど……」
別に聞くつもりはなかったが、こんな静かな空間では二人の会話は否が応にも耳に入って来る。
「なるほどね。境界値とはそういうものか」
今になって初めて境界値という言葉を知った人間がこのバグを解消できるはずがない。
「この値の中のどれかを入れたら落ちたんですけど」
「落ちたのは一回だけかい?」
「はい。たった一回だけ」
「値の入力は何時間ぐらいやっていたの」
「日が変わる前からずっと……」
「じゃあ操作を誤って変な値や記号を入れたら落ちるってことはないね。特定の値を入れたときだけ落ちるってことだ」
そんなことは始めからわかってる。あの文字列の中からたった一つを選択して入力しないといけないという状況はなにも変わってない。
――いや、そうだ。それがわかっているなら、自動的に値を入力するプログラムを作ってあの文字の羅列を全部入れればいいんだ。私は開発環境を起動した。
「でも、ということは結局、この英数字の組み合わせを全部入れないといけないんですね……」
「そんなことないさ。数は限られている」
「どういうことですか?」
「プログラム的に怪しい値は望君が全部試しているってことだよ。彼女の能力と性格を考えればね」
うざい。お前がなにを知ってるって言うんだ。
「じゃあプログラム的に怪しくない値が怪しいってことですか?」
「そう。一見すると何の変哲もないけれども、実は意味のある値。例えば閏月とか」
「うーん、それはもう試したと思うんですけど」
「じゃあもう一個の方かな。この値を入れてくれる?」
――自分で入れろ。そう呟いたその口が閉じきる前に。
えっ……。
悲鳴のような声が静かな部屋に響いた。
「……落ちた」
心臓が跳ね上がった。
「ノズちゃん!」
嘘だ。
「落ちた。アプリケーションが落ちたよ、ノズちゃん!」
私は、信じなかった。
「そんな簡単に落ちないですよ、これ」
私は、信じたくなかった。
「解いたよ、望君。この値を――」
カラスがなにかを言っている。
私は言われるままにその英数字を画面に入力して、震える指でエンターキーを叩いた。
予期しないエラーが発生しました。
「なんで……ですか」
こんな適当な値を入れただけでアプリケーションが落ちるなんて。
「普通の、なんの変哲も無い値じゃないですか。こんな値、試すわけないじゃないですか。それなのになんで」
「なんの変哲も無い値ではないさ」
彼は言った。M05.12.03を指差して。
「これはれっきとした境界値だ」
明治五年十二月三日。
これが何の境界値というのだろうか。
「佐倉君は、ボクらが今使っている暦のことを知っているかな」
「新暦のこと、ですか?」
「そうグレゴリオ暦とも言うね。じゃあそれまで使っていた暦のことは」
「旧暦です、ね。私の実家に飾ってある――」
カレンダーにあるって、その話はさっき聞いた。
私はようやく言葉を吐き出した。
「旧暦と新暦のことなんて知ってますよ。だからなんなんですか!? 全部試しましたよ。閏月も江戸時代も二十九日しかない月も全部。それなのに、それなのになんで」
「だからさ」
御園はポケットからスキットルを取り出して、その中に入っているお酒を煽った。
「新暦と旧暦の境界値だよ」
あ。
そうか。
そういうことだったのか。
私はやっとわかった。
私はバカだった。
私は愚かだった。
私は間抜けだったんだ。
私は深呼吸をして、デバイスに触れる。
明治新政府は。
明治五年、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」という布告を出し、明治五年十二月二日を以て旧暦を廃し、翌日から太陽暦を採用することとした。明治政府が改暦を急いだ理由は、明治六年には閏月があるため、このままでは一年で十三ヶ月分の給料を支払わなければならなかったこと。また改暦によって明治五年十二月の分の給料の支給を免れることができたことの二点があったという。
私は、ほとんど意識のないままその文章を読み進めていた。
ページの末尾に辿り着いたのにも気づかないまま、しばらくスクロールをしようとし続けていた。
「ノズちゃん……?」
佐倉さんの声で私はようやく自我を取り戻すと、すべての心の活動を止めてコンピューターに向かった。
「原因解明のご連絡」
そういうタイトルで始まったテキストメッセージには、この現象の原因と直し方をすべて詳細に記載して、読み直す気力もなく、そのまま送信ボタンを押した。
「ありがとうございます! 直りました!!!」
先方から帰ってきたメッセージを閉じて、私は静かにコンピューターの電源を落とした。見ると佐倉さんは力尽きてソファーの上で眠っている。御園はいつものように帽子を乗せて居眠りをしている。私はバッグを掴んで椅子をデスクに戻した。
「帰るのか? まだ始発出てないぞ」
カラスの声。私は声を絞り出して答えた。
「歩いて帰れるので」
「そうか、気をつけて」
私が帽子を目深にかぶってドアを開けたとき、後ろから声が飛んできた。
「ノートは置いていっていいのか? 劇団の三十周年の時の限定グッズの」
それには答えずに、私はエレベーターに乗り込んだ。
空はうっすらと明るくなってきている。
さわやかな、朝だ。
三十分後、愛しい我が家に辿り着いた私はそのままベッドに倒れ込んだ。
そして私はその日、久しぶりに泣いた。
開発現場に名探偵がきた話 @iotas
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