検閲官の蒼い月 - 7
「さあ、先に行ってくれ」
「ねえ、モモチも来るんだよね?」
「頼むよセリニ。もう握力が持たないんだ」
「……セリニ?」
彼女をフロアの中に送り、ようやく自分も降りることができた。汗と油まみれだし、手に至っては血まみれだが、安定した足場に立てることが本当に嬉しい。
「あんたの名前だよ。もっと早くつけてやればよかった」
「セリニ……わたしの なまえ」
「そら見ろセリニ、こないだ言ったふわふわちゃんだ」
指し示した先には、空中に浮かぶ雲とも風船ともつかない生物が漂っていた。籠を持っているものと、そうでないものが混在し、広いドック内を不規則に移動している。
僕は最後の仕事を行うことにした。カードキーで分電盤のロックを解除し、端末を操作する。すると運搬していたロボットたちの動作が停止した。
「すごい ほんとにふわふわだあ」
「あれに楽園まで連れてってもらうんだ。あの籠がいい。あの中に入るんだ」
僕はセリニにそう指示し、彼女とは違う籠に近づいた。
『みゅっ!』
しかし僕が近づくと、籠を持っていたふわふわちゃんは気化し、別の場所へ転移してしまった。
(やっぱりそうだよな)
「わあ すごい!セリニ そらとんでる!」
一方でセリニの籠は問題なく持ち上げてくれているようだった。あの生き物は、不穏な気配を感じると自衛のため気化する習性がある。身も心もオワテル国に染まった僕が拒絶されるのも無理からぬことだった。
(だから誰も真似しないんだ)
「ねえ モモチ どうしたの?おいていかれちゃうよ?」
「……僕はあとから行くよ」
セリニが乗った籠はタワーの開口部から外へ連れ出されようとしている。その先に待っているのはイルメン国。ここまで来たのは彼女だけでも脱国させるためだった。
「やだよ モモチ ねえ いっしょにいこうよ」
「……セリニを追いかけてる時、月を見たんだ」
ここからでも開口部からよく見える。蒼く、丸く、大きな月。
「ねえ モモチったら!おろして!おろしてよお!」
「空なんて久々に見たんだ。優しい光だった。ずっと……自然の光になんてあたってなかったからな」
泣き叫んでいるセリニに対して微笑みかける。その姿を一秒でも長く目に焼き付けたかった。
「"セリニ"。遠くの国の言葉で、"月"って意味だ。本当に……もっと早くつけてやればよかった」
「モモチ!モモチ!ひとりにしないで!ねえ!」
「大丈夫だって。言っただろ、あとから行くって」
「ほんとう?あとからって いつ?」
「そうだな。セリニがわがままを言わなくなったらかな」
「もうわがままいわないよ!」
「なら、僕が行くまでちゃんとイルメンで待てるな?セリニはわがまま言わない良い子だもんな」
「……やくそく やくそくだからね!ぜったい モモチもくるんだよ!」
「ああ、やくそくだ」
もう小指は届かないけれど、それでも手を差し出す。するとセリニも涙を拭って険しい顔で二本ある右腕を突き出した。
この国では貴重なものが三つある。明日を生きるためのパンと、誰かを信じる愛情と、それから真実。特に真実は貴重品だ。真理省に勤める僕はそれが如何に稀有なものか、嫌というほど知っている。
結局そいつは最後まで見つからなかった。けれど、そんな僕でもようやく"二つ目"を手に入れることができた。それは案外近くにあって、それでいてかけがえのないものだった。
セリニが見えなくなってからもう一度月を見る。柔らかな光の向こう側に、確かに彼女の顔が見える。だから後悔はない。
僕はこの上なく幸せだった。
おしまい国家 つくもしき @TsukumoShiki
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