人間バス停

二石臼杵

かくして彼はバス停となった

「佐藤、佐藤じゃないか」


 新宿で出会った思わぬ知った顔に、俺はつい声をかけずにはいられなかった。


「俺だよ。高島だ。中学のとき同じクラスだった」


 仕事の都合で上京することになり、その転勤先の下見に来ていた俺は、新宿のバス停で予期せぬ再会を果たした。

 いや、ここがバス停なのかはどうかは自信がない。

 グーグルマップでは確かにここが目当てのバス停なのだが標識がどこにも見当たらず、その代わりに佐藤がただ突っ立っているだけなのだ。


「なあ、佐藤。お前こんなとこで何してるんだ」


 俺の語気は熱を帯びる。今にも佐藤の肩を鷲掴みにしそうな剣幕の俺を前に、佐藤は淡々とこう言った。


「私は佐藤ではなく、東新宿駅前三番乗り場です」


 その事務的な口調を聞いて、俺は絶句する。

 佐藤はこんなやつじゃなかった。

 いつも明るく笑顔で、クラスのムードメーカーだった。

 冗談や下ネタをよく口にする、普通の中学生だった。

 それが今や無表情で、あの頃の面影はどこにもない。

 バスが俺の後ろから近づいてきて、佐藤の横で停まる。

 乗降口が開くが、それどころではない。佐藤がここにいるんだ。


「乗らないんですか?」


 佐藤が口だけを動かして俺に話しかける。

 凍ったままの俺を置いてバスは再び動き出し、去っていった。


「次のバスは十五時五十五分発の九段下行きです」


 何を言ってるんだ佐藤。

 お前に何があったんだ。

 いや、それよりも――


「佐藤、お前、死んだはずじゃなかったのか」


 そう。佐藤は死んだ。

 中学を卒業し、違う高校に行き、そして心臓発作で急死したのだ。

 俺も葬式に行った。棺の中の佐藤の顔を見た。間違いない。

 佐藤は今、棺の中と同じ顔をしていた。

 見た目もあのときから変わっちゃいない。


「私は佐藤ではなく、東新宿駅前三番乗り場です」


「やめてくれ佐藤」


 意味がわからなかった。

 事態が呑み込めない。

 佐藤、どうしちまったんだ。

 まるでお前――


 バス停になってしまったみたいじゃないか。


 ポケットが震える。スマホを取り出すと、転勤先の上司からだった。

 そうだった。挨拶に行かなければ。待たせるのもよくない。

 こっちだって生活がかかっているのだから。

 次のバスが来た。佐藤の言った通り、十五時五十五分のバスだった。


「すまん佐藤、また会おう。連絡先を教えてくれ」


「私は佐藤ではなく――」


「わかった、これだな」


 俺は佐藤の胸ポケットの表面にあるQRコードにスマホをかざす。

 東新宿駅前の時刻表が出てきた。


「またな、絶対だぞ!」


 慌ててバスに乗り込む俺を、佐藤は無機質な目で見送っていた。


「いってらっしゃいませ」



 仕事先の挨拶が終わるころには雪が降り出し、街を白く染めていた。

 いやな予感がした俺は急いでバスに乗り、東新宿駅前へと向かう。

 果たして、そこに佐藤は立っていた。


「佐藤!」


 佐藤の頭と肩に積もった雪を手で払いながら俺は叫ぶ。

 手が冷たく濡れるが、佐藤はもっと冷たいに違いない。

 おそらくあれからずっと、ここに立っていたのだ。


「私は佐藤ではなく――」


「わかった、もういい、喋るな! うちに来い!」


 佐藤を動かそうとするが、地面に刺さっているみたいにぴくりとも動かない。

 佐藤の体はぞっとするほど冷えていて、恐ろしく硬かった。


「きみ、何やってるの?」


 後ろから声をかけられる。

 振り向くと警官が立っていた。


「こいつをうちまで連れていくんです」


「だめだよー、そんなことしちゃ」


「なんてこと言うんですか!」


「だって、バス停動かしちゃ器物損壊罪でしょ」


 警官のその言葉に耳を疑う。

 頭がかっと熱くなり、即座に急激に冷えていく。


「こいつが、バス停に見えるんですか?」


「バス停じゃなかったらなんなの?」


 どこまでも不思議そうに首をかしげる警官を見て、俺は佐藤から手を離す。


「そう、それでよろしい」


 満足そうに頷いた警官は去っていった。

 もしかしたらおかしいのは俺の方で、警官には佐藤のことが本当にただの標識にしか見えていないのかもしれない。

 でも、こいつは佐藤なのだ。


「ちょっと待ってろよ、佐藤。でもつらかったらいつでも動いていいんだからな」


「私は――」


 最後まで聞き終えることなく、俺は最寄りのコンビニへダッシュした。


「ほらよ、これでも飲んでくれ」


 コンビニから戻ってきた俺は、お湯を注いだインスタントのコーンスープを佐藤に突き出す。

 佐藤は差し出されたコーンスープを珍しげに見やり、それからじっと俺を見た。


「お前にあげてるんだ、佐藤」


「私は佐藤ではなく」


「じゃあ東新宿駅前三番乗り場、お前が飲んでくれ。そのために買って来たんだ。このままじゃ無駄になっちまう」


 それを聞いた佐藤は、おずおずとぎこちなく手を動かし、両手でそっとインスタントスープの紙カップを持った。

 またもやこっちに視線を向ける佐藤に俺は黙って頷く。

 おそるおそる、といった感じでカップを口元に運ぶ佐藤。

 ごくり、とお互いの喉が鳴る音がしんしんと雪の降る街の中に溶けていく。


「ありがとうございました」


 コーンスープを全部飲み干した佐藤は、幾分か血色のよくなった顔でそう言った。


「まだ、ここに立っているつもりか?」


「はい、当然です」


「そうか」


 佐藤がそういうのなら、そうなのだろう。

 中学のときから、約束は絶対守るようなやつだった。ちっとも変わってない。

 空になった容器を佐藤から受け取り、俺は再び走り出す。


「ちょっとだけ我慢してくれよ」


 近くのホームセンターで毛布を買い、俺はそれを佐藤に被せた。

 ついでに手袋も佐藤の両手にはめてやる。

 傘地蔵の話を思い出した。


「なぜ私にこんなことをなさるのですか」


 頭から毛布をすっぽり被った佐藤は、ぽつりとそう口にした。


「同級生だからだよ」


 元だけどな、と俺は言う。

 それを聞いた佐藤は目を丸くし、そして、


「ありがとな、高島」


 そう言って、照れ臭そうににっこり笑った。

 その笑顔は俺のよく知る、中学時代の佐藤そのものだった。

 なぜだろう、なぜかこっちが救われたような気分になってきた。

 今の佐藤を見たら、急に安心感が湧いてきた。

 もう、大丈夫だ。

 こいつは佐藤であり、東新宿駅前三番乗り場でもあるのだ。

 それはきっと、佐藤自身が選んだ進路。

 ならもう、仕方のないことだ。


「じゃあな佐藤、これから俺、この近くのマンションに住むからよろしく。また明日」


「ああ、またな、高島。――私は佐藤ではなく、東新宿駅前三番乗り場です」


 急に言い直す佐藤に苦笑する。

 もはやどっちが佐藤の本当の姿なのか計り知れない。

 だが、人間とはそういうものなのかもしれない。

 俺は佐藤に背を向け、マンションへと歩き出す。

 後ろからへっくし、とくしゃみする声が聞こえた。


「いつでもうちに遊びに来いよ」


 そう声をかけたが、佐藤は返事をせず、そして、事実一度もうちを訪れることはなかった。


 それから月日は流れたが、佐藤はじっと同じところに立ち続けている。

 雨の日も雪の日も、暑いときも寒いときも。昼も夜も関係なく、東新宿駅前三番乗り場として二本の足で立っている。


「じゃあな、行ってくるよ、佐藤」


「私は佐藤ではなく、東新宿駅前三番乗り場ですが、いってらっしゃいませ」


 毎朝、出勤でバスに乗るとき、俺たちは決まってこの言葉を交わす。

 すっかり相変わらずの無表情に戻ってしまった。

 あのときの佐藤の笑顔はやっぱり幻だったのだろうか。

 そもそもこの佐藤は、本当に佐藤なのだろうか。

 ニモカをタッチしてバスに乗り込む。

 学生や会社員でごった返すバスの中でなんとか吊り革につかまると、バスが動き出す。

 たまには座って通勤したいが、佐藤は俺の何百倍も立ちっぱなしなのだと自分に言い聞かせて耐える。

 そう考えると、不思議ときつい仕事でも頑張れるのだ。

 そこで、遠ざかっていく佐藤と目が合った。

 佐藤は俺を見、にやりとずいぶん久しぶりに笑った。

 知らず、俺も笑い返していた。周りの客が不審げな視線を寄越すが、そんなもんはどうだっていい。

 お前らにはあいつがただのバス停にしか見えていないだろうが、あそこにいるのは俺の友だちなのだ。

 わかるまい、この奇妙な関係は。

 友だちがバス停に生まれ変わったと言っても、誰も信じるものか。

 でも、俺だけは知っている。

 ただ見知った顔がそこにいるだけで、心の負担は少しでも軽くなるものなのだ。

 今日もバスに揺られて俺は会社へ行く。

 人もバス停も、おのれの職務を全うするために立っている。

 俺たちはみな、生きるバス停なのだ。

 だから俺も佐藤も、今でも対等に友だちでいられるのだろう。

 バスの窓から差し込む日差しが強い。もう八月。夏真っ盛りだ。

 今日は仕事帰りにアイスを買って帰ろう。

 二人で分けられるパピコがいいかな。


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