透明人間になる薬

百目鬼笑太

第1話 透明人間になる薬

 とある科学者により透明人間になる薬が発明されて早くも半年が経った。初めこそ誰もがあり得ないと馬鹿らしいと無視をしていた薬だが、この半年前に常に目新しさを求める動画コミュニティでの実況者によるライブで”本物”であると証明されたことで瞬く間に世界中に広まった。

 それに伴い、国内外を問わずに透明になる薬の所持と、透明人間への法律が定められた。本物の透明人間になれるとなれば、面白半分の者も犯罪に利用しようとする者も当然に現れだして、この半年はさながらコミックの世紀末じみた有様であった。しかしそれも半年が過ぎればすっかり落ち着いた。人々も社会も新たな常識になれたのだ。

 ありとあらゆる国と人々が透明薬によって多大な苦労をしたわけだが、その中で私は例外的に恩恵にありつけた一人だろう。


「今日の仕事は、これで最後だ」

「はい」


 狭いワゴン車内でかけられた上司の言葉に軽く頷く。半年以上前から失業していた私は透明薬のおかげで定職を得た。犯罪とともに増えたのは、透明人間になることで、社会そのものから失踪してしまう者たちだ。そういう者は学校でいじめにあっていたり、会社がブラックであったりと、それぞれにもう社会とは関わりたくないという強い欲求があったらしい。そんな彼らがその欲求が叶えてくれる薬を見つけたとあれば、まあ、試さずにいられないだろう。

 今のところ、薬によって透明人間になった者を探し出すのは不可能であり、政府も失踪者に対しても新たな法を制定した。

 一週間。

 その期間に透明人間が連絡を取って来なければ、自動的に失踪した透明人間は死亡扱いになる。そして増えた死亡者の家族たちから故人の部屋の清掃を依頼されるというわけだ。


 部屋の住人は大学生の青年であったらしい。雑多な物が多く、全体的に散らかり気味のワンルーム。昼間であるが、安っぽいブルーのカーテンは閉められて室内は薄暗い。天井には梁があり、窓の横にはベッドとデスク。それからぽつんと離れた位置、ちょうど部屋の真ん中に椅子が置かれていた。

 足を踏み入れたとたんに異臭が鼻を突く。いつものようにマスクをしっかりとする。食品などが腐り、放置されたままのゴミからは虫が湧き始めている。こんなだからたとえ身内であっても、私たちのような業者に依頼をしてくるのだ。

 家具以外は全てを処分していいと言われていた。家具の処分には流石に別料金がかかってしまうからだ。ゴミ袋を片手に、持ち主の消えたゴミたちを詰めていく。上司は台所のシンクの辺りを掃除している。油汚れや水汚れは案外と技術がいるので上司の仕事だ。


 やがて掃除が終わる。ゴミ袋を車に運び込み、最後の確認で室内を見渡す。誰も住んでいなかったかのように誰かの生活の気配はなくなった。しかし奇妙に真ん中に置かれた椅子だけが妙に目を引く。どこか後ろ髪をひかれるようなそんな感覚。

 がたん。ぎぃ。ぎぃ。

 空気の入れ替えのために開けていた窓を閉めてから部屋を出ようとしたとき、そんな音がした。振り返る。室内には家具だけが、大人しく収まっている。そんな変化のない部屋の中で椅子だけが倒れていた。風、だろうか。首をかしげながら椅子を起こしにまた、部屋に戻る。振り返ると壁に影が映り込んでいた。

 ぎぃ、ぎぃ、という重い音に合わせてゆらゆらと、揺れる。壁に映る影だけが揺れている。


「ああ、今だったの」


 薬を飲んだ者は一人として帰ってこない。透明化から戻る方法はまだ見つかっていない。

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