17、昼の光へ

 満里奈はすっかりおとなしくなってスタッフの用意した毛布にくるまって座っている。

 縦穴に落ちてパニックになっていた令二はスタッフの落とした懐中電灯の明かりで少し落ち着き、説得によって少し先のいくらか広くなったところでなんとか向きを反転して、ロープにつかまって引き上げられた。

 ライトに照らされた令二は、2人を吊し上げ、優一郎をひどくぶん殴った凶暴な殺人鬼の険は消え、すっかり気弱な中年のお父さんに戻って、自分のしてしまったことを後悔して、怯えて、ワナワナと震えていた。自分のやったことが、悪夢の中の出来事であったようで、とても自分の手が本当にやってしまったこととは信じられないようだ。ひどく哀れで、気の毒に思えた。

 優一郎はとりあえず応急処置を受けている。スタッフが警察に連絡し、救急車を手配してもらった。ゆっくり水を飲ませてもらい、ゼリー飲料を少し飲ませてもらった。口の中が痛かった。ひどく殴られて、ひどく切っていた。顔の腫れも時間が経つに連れひどく膨れ上がり、目が半分見えなくなった。体が痛むと気持ちも弱くなる。優一郎はまた深い後悔と、自分のみっともなく情けない思いに沈んだ。また、死にたい……、と少し思った。


 紅倉は芙蓉に叱られていた。

「先生、無茶しないでください。脚痛くありませんか? 寒くありません? 風邪ひかないでくださいよ?」

 まるで幼稚園児を世話する母親のようだ。

「だいじょうぶよお〜」

 と口を尖らせた紅倉だったが、

「あ、」

 と、急に力が抜けたようによろめき、芙蓉に支えられてしゃがみ込んだ。

「やっぱり脚が痛い」

「ほらごらんなさい。こっちに、脚を伸ばして」

 芙蓉はカメラ機材のケースに勝手に紅倉を腰掛けさせ、脚を伸ばさせ、マッサージをしてやった。

「先生。生まれてこの方、走ったのなんて初めてじゃありません?」

「まさかあー。…………うーーん、そうかも?」

「無茶ですよ」

 言葉では叱りながら手は優しくふくらはぎから腿へ慣れた手つきで揉んでいく。紅倉も安心しきって気持ちよさそうに芙蓉に任せきりにしている。

 横目に眺めていた優一郎はうらやましく思った。

 紅倉がふと気づいたように優一郎を見た。

「あなたは不幸だったわね。あら、それとも運が良かったのかしら?

 ふうーーん……、あなた、ずいぶんすごい経験してきたのね?」

 ふうーーん……、としきりに感心する紅倉に、優一郎は出発前に書いた手紙のことを思い出して恥ずかしくなった。あんなもの、出さないで良かった。……それとも、優一郎はあの手紙で、ひょっとして、紅倉美姫が自分を捜しに来てくれないかと、そう願っていたのかも知れない。

 紅倉が悪戯っぽく笑った。

「あ、わーかっちゃったー、手紙のこと。フフフ、もうバレちゃったわよおー、ウフフフ」

 優一郎は青黒い顔を気持ちの上では赤くして、やっぱりこの人は意地悪だと恨めしく思った。

「あはは、ごめんなさい。はい、それはもうおしまい。でも、

 あなた、本当にここまで、すごいことをしてきたのねえー……」

 紅倉に感心されて、優一郎は本当に自分が恥ずかしくなった。

「僕は……逃げてきただけなんです…… ずうっとずうっと、逃げ込める場所を探していただけなんです……」

「フウン。そうね、そうかも知れないわね。でも、すごいわ」

「バカみたいです。馬鹿なんです、僕は。こんなことしても、なんの役にも立たない」

「そうね。すごいわねえ!……って褒められても、それだけのことですものね。だからなんだって言えば、まるで、それっきりの話ですものねえ」

「そうです。僕は、人の役に立てるようなことは何1つ出来ないんです」

 ほんとうに……、惨めだ…………

「でも、」

 紅倉は微笑んで言った。

「死ねなかったじゃない?」

 何が言いたいんだ?と優一郎は紅倉の顔を見た。紅倉は微笑んだまま、

「ねえ?」

 と仲良く身を寄せ合い毛布にくるまっている滋とミラノに言った。二人の会話を聞いていた滋は「ええ……」と答えた。

「僕は、突然、死ぬのが嫌になった……」

 となりのミラノと顔を見合わせ、

「僕は死ぬのが嫌になって、生きたい、生きていたいと思った……、この人と二人で…………」

 と、愛しそうに、悲しく、二人微笑み合った。

 紅倉が笑って言った。

「じゃあそうしなさいよ? いったい何が問題?」

「だって……」

 と滋が言い、ミラノが、

「わたしは、もう……」

 と言った。紅倉はミラノを見て、

「なるほど、あなたの事情なわけね? フウン……、さっさと別れちゃえばいいじゃない、そんなヒヒ親爺」

 紅倉の口の悪さにミラノは目を丸くし、弱々しく笑った。

「ほら」

 と、ミラノの悲しみの残る笑いを、滋に何とかしろと催促した。

「ミラノさん……、いや、美乃よしのさん。」

 滋は体を向き合わせ、ミラノの両手を両手で包み込み、握った。

「僕と暮らそう。贅沢なんてさせてあげられないけど……、幸せなのは僕だけかも知れないけど……、僕は、あなたが好きだ。あなたを、心から愛している」

「滋……さん…………」

 ミラノは泣いて、顔をうつむかせ、

「わたし……、わたしなんかが……幸せになって……いいの?……」

 と声を震わせた。

 滋はミラノの顔を上向かせると、いきなりキスした。

 紅倉は、まっ、と口を丸くし、優一郎も恥ずかしくて、ニヤニヤした。

「僕は、世界一の幸せ者だあ!」

 滋が臭いセリフを恥ずかしげもなく大声で言った。代わりにミラノが恥ずかしそうに顔を赤くし、紅倉はアハハと笑った。優一郎も笑って、口と顔と胸が痛んだ。

「あははは……」

 紅倉が笑いを納めて、まじめな、冷たい目になって、言った。

「その男の事はいい弁護士さんを紹介しますから、せいぜい手切れ金をぶん取って別れてしまえばいいわ。自殺しようとしてこんな殺人事件を巻き起こした女、あちらでも願い下げでしょうからね。でも、

 滋さん、ミラノさん、それに優一郎さんも、

 あなた方も今回の事件でそれぞれに罪を問われるでしょう。

 笑ってハッピーエンドで済ませられることではありません」

 滋はうなずき、優一郎を気遣ってくれた。

「僕らは当然です。でも、彼は、なんとかなりませんか? 僕らが声をかけ、巻き込んでしまったんです」

 優一郎は首を振った。

「いえ。僕も当然罪を問われるべきです。

 ……令二さんが自殺をやめようとしたとき、もっと真剣にあの人の話を聞いて、……やめるべきだったんです…… 少なくとも、あの人だけは、……帰らせてあげるべきでした…………」

 そう、令二が一番、外のまともな世界に帰りたがっていたのだ。それを邪魔し、殺人を犯させ、もっとひどい殺人を犯させたのは……、自分たちだ…… 生きたいと願った令二を無理やり引き留め、仲間から外れることを許さなかった、自分たちの責任だ。自分だけそこから逃れることは出来ない。

 令二は、すっかりふさぎ込んでいる。彼は殺人者なので、拘束こそされていないが若いスタッフが2人見張りについている。

「令二さんを止めたのは、僕だ……」

 滋もすまなそうに令二を見た。皆の間に重く悲壮な後悔の念が漂っている。

 紅倉がうなずき、言う。

「優一郎さんはだいじょうぶでしょうが、お二人は、実刑もあり得るでしょう。罪は、決して軽くありません」

「はい。でも、その方がまだすっきりします。それで、真人君、あずみちゃん、優一郎君、そして令二さんへの罪が消えるわけじゃないが、それで、僕たちは新しいスタートを切れる」

 ね?と滋はミラノに問い、ミラノも真剣な顔でうなずいた。

 優一郎も当然自分が自殺しようとしていたことを両親に知られてしまう。それは、死んでしまうよりずっと辛い…………

 それでは、と優一郎は思う、満里奈はどうなのだろう? 紅倉の言葉を信じるなら、彼女こそ今回の事件の黒幕ではないか? 彼女が罪を問われることはないのか?

 優一郎の思いに紅倉が答える。

「さっき言ったようにあの人を法的な罪に問うのは難しいでしょう。けれど、彼女はこれから嫌でも自分の罪と向かい合っていかなければならない。彼女にはこの樹海より外の世界の方がずうっと恐ろしいのです。彼女の鎧はすっかりわたしが取り上げてしまいました。安息の地であった樹海も、わたしが取り上げました。彼女にはこの世のどこにも、あの世にさえ、逃げ場は残されていません」

 紅倉の言葉は聞こえているだろうに、満里奈はうつむいたまま無反応だ。もしかしたら怖くて震えているのかも知れない。背中を丸めて膝を抱く彼女の姿は、幼く、ひ弱く、ひどく哀れだ。

 大きな罪と後悔と暗澹たる未来と、

 暗い樹海の闇の中で、明日の希望を見いだしたのは滋とミラノだけか。

 優一郎ももう死ぬ気はない。

 しかし、では、これからどう自分の人生を歩んでいったら良いのか?

 その答えは、けっきょく、自分の手にない。

「お友だちが出来たでしょう?」

 紅倉が優しく微笑んで言った。

「ご両親とよく話しなさい。ショックを受けるでしょうけれど、それが今回のあなたの罰です。そして、お二人があなたの力になってくれるでしょう?」

 滋とミラノがニコニコ笑って優一郎を見た。

 優一郎は、胸が熱くなって、目が熱くなって、涙を溢れさせた。

 そうだ、自分はこの旅で、自分が一番欲しかったものを手に入れたではないか!

 自分を理解してくれる、

 友人を!…………


「さて、と」

 芙蓉にマッサージしてもらった紅倉は元気に立ち上がった。

「せっかくだから富士山に登っていきましょうか!」

 ビシッと指さして、

「えー……、富士山はあっちです」

 と、さっそく芙蓉に方向を直された。紅倉は意に介さず、

「あなたもどう?」

 と悪戯っぽく優一郎に訊いた。優一郎は笑って言った。

「僕は無理です。死んじゃいますよ」

「実はわたしもそう。わたしには人に手伝ってもらっても行けない場所がたあーくさん、あるわ。でもあなたは、体を治したら是非登ってみるといいわ。富士山自体はただのがれきの坂みたいだけど、上からの眺めは素晴らしいそうよ? わたしには絶対見られない光景だけど、あなたは、見られるじゃない?」

 そうか、ここまで歩いてきたんだ、富士山だって登れるさ。

 自分にはこの先の人生まだまだ素晴らしい体験が残されているのだろう。

 それ以上の苦しみも待っているだろうが……

「健康でいれば、ふつう人は生きたいって思うものよ」

 滋も、「そうだ」と言った。

「いつか、僕らも一緒に登らせてくれよ。三人一緒に頂上からご来光を眺めようじゃないか!」

 天を黄金の光が走った。一瞬夜明けかと思ったが、まだ深夜だ。流れ星だった。枝葉の間に、星空が広がっている。

「ええ。必ず、三人で登りましょう!」

 希望が、優一郎にも見えた。

 遠くでサイレンの音が聞こえた。

 外の現実がやってきた。

 しかし、優一郎はそれに立ち向かっていこうと思う。

 やれるかどうか分からないけれど、逃げ場所はある。

 それは、けっして、人生をやめることではない。


 終わり



 2008年10月作品

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霊能力者紅倉美姫12 僕の自殺徒歩旅行 岳石祭人 @take-stone

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