第18話 小さな、しかし大切な一歩

 ~ソフィア 12月27日~


 灰色の雲が空を覆っている。

 足元に広がる石畳からは冷気がひたひたと這いあがり、それを振り切ろうとするかのように、ソフィアは羊毛の手袋で包まれた手をコートのポケットに突っ込んで、人通りが多い通りを前かがみで急いでいた。

 ここは、ミァン街の大通りだ。すでに十二月も終わりに近づき、通り沿いに並ぶお店には、年末年始の買い物に繰り出したお客さんたちで溢れんばかりだった。

 学校もちょうど今日で終わり、イーディスの父親が御す馬車でミァン街のイーディスの実家に連れて行ってもらったのが、ほんの少し前のことだ。

 イーディスの両親への挨拶もそこそこに、ソフィアは荷物を置かせてもらうと、半年ほど前に看護の手伝いをしていた軍隊の詰め所へと急いでいた。耳までしっかりと覆った帽子をかぶりながら吐く息は真っ白だったが、ソフィアの心は浮足立っていた。

 いつもであれば、兄フランシスの迎えの馬車で村の子たちと一緒に家まで連れて帰ってもらうのだが、今回はどうしてもミァン街にいたときにお世話になった人たちと会ってお礼を伝えたい、と両親に頼み込んだのだ。

 今年の夏には帰省せず、放牧や畑の手伝いをしなかったので反対されるかと心配していたが、お世話になった人たちにはきちんとお礼を言いなさい、と書かれた手紙を受け取ったときは、うれしさのあまり、幼い子供のようにぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだのだった。

 ソフィアはすぐさま、自分に看護のことを一から教えてくれたアンナに手紙を書いた。すると、すぐに返事が届き、今日のお昼、街の詰め所で会うことになったのだ。

(五カ月ぶりかぁ。アンナは元気にしてるかな。なんか、緊張しちゃう……!)

 久しぶりの再会にわくわくしながら、背中に背負った鞄がずり落ちてくるのを背負い直していると、遠くの方に詰め所が見えてきたのに気がついた。

(よし、あともう少しだ!)

 そう心の中で言ったソフィアは、自然と小走りになっていた。


 いつも通っていた、荷物の運搬口の前に着いた。そこには、ソフィアも顔なじみの歩哨が一人、直立不動の姿勢で立っている。

 ソフィアは近づくと、声をかけた。

「あのぉ……。お久しぶりです、私、ソフィアです。覚えていますか?」

 目だけぎろっとソフィアに向けた兵士は、微動だにせず睨み続ける。

(……あれ、人違いだったかな?あ、それとも、もう関係者じゃないから、入れてもらえないのかな……)

 中に入れてもらえないことを全く想定していなかったソフィアは、困惑の表情を浮かべて、その場で立ち尽くした。寒い中、冷や汗がどっと噴き出る。

 その様子をじっと睨みつけていた兵士は、急にぷっと噴き出すと、腹を抱えて笑い始めた。

「ははは!すまんな、ソフィア!つい久しぶりだったから、からかいたくなってな……!

 アンナから聞いてるよ。会いに来たんだろ?医務室で待ってるってよ!」

 そう言って門までつかつかと歩いていくと、二回ノックして、中にいる兵士に呼び掛けた。

「おい、ソフィアだ。開けてやってくれ」

 すぐに、門は開いた。お礼を言って中に入ろうとするソフィアに、先ほどの兵士が後ろから声をかけた。

「成績は、大丈夫だったんだろうな?しっかり勉強した方がいいぞ!」

 ぱっと頬を赤らめたソフィアは、振り向きざまにあかんべをすると、憎まれ口をたたいた。

「余計なお世話ですよ!べぇ!」

 ははは!という笑い声が聞こえる中、門は閉まった。

 ソフィアはくすっと笑うと、前に向き直り、医務室へと向かった。

 医務室へと向かう途中、薬を保管している倉庫の横を通りかかった。以前いた時と比べて、倉庫脇に生えていた雑草は、寒空の中、ほとんど枯れてしまっているが、倉庫を這うように絡まる蔦は、相変わらず以前と同じように触手を伸ばしているように見える。

 倉庫の中に入って、あの独特な薬品の匂いにしばし囲まれたい欲求にかられたが、ぐっと自戒して通り過ぎたソフィアは、医務室へと続く扉の前に着いた。その鉄製の扉の取っ手に手を伸ばすと、ぐっと力を入れて押し開けた。

 中は暖房がしっかりと効いていて、温かい。帽子や手袋、そしてコートを脱いだソフィアは、それを手に持つと、自分の前に延びる廊下を眺めた。

 それは、懐かしくも殺風景な廊下だった。清掃は行き届いているが、消そうとしても消せない積年の黒ずんだ汚れが壁に残るのも、以前と変わらない。

 誰もいない廊下をゆっくりと歩きながら、ソフィアは倉庫まで何度も薬を取りに走ったことを懐かしく思い出していた。あまりにぼんやりとしていたので、医務室の前を通り過ぎたのに気が付かないほどだった。

 はっと我に返ったソフィアは、慌てて医務室の扉の前まで戻ると、そこに掲げられた表札を見上げた。「医務室」と書かれた表札をしばし目を細めて見つめていたソフィアは、久しぶりにアンナに会える嬉しさからか、心臓がとくとくと高鳴り始めるのを感じた。

 ソフィアは、寒さからなのか緊張からなのか、手を軽くこすり合わせると、扉を軽くノックした。

「はい、どうぞ」

 アンナの声ではなかったが、中から女性の声で応答があったのを耳にしたソフィアは、静かに扉を開いて、中に入った。

 一歩足を踏み入れた瞬間、つーんとした消毒液の匂いが鼻の奥を刺激した。その独特な匂いが、ここで看護の手伝いをしていた時の記憶を鮮明に呼び起こす。

 部屋の中を見渡すと、以前よりは広い間隔で、ベッドや衝立が配置されていた。

 しかし、それらベッドや衝立、棚といった備品類に至るまで、ソフィアがいた時に使っていたものがそのまま使われており、壁の色も以前と同じ、落ち着いたクリーム色のままだった。

 ふと、衝立の上から顔を覗かせてこちらを見ている人がいるのに気が付いた。

 ソフィアがそちらに目をやると、最初は訝しげな顔でこちらの様子を窺っていた金髪の女性は、何か納得したような表情を浮かべると、こちらに近づいてきた。会話を交わしたことはなかったが、看護の手伝いをしていた際に見かけたことがある女性だった。

「ソフィア、だったわよね?こんにちは。私はドリス。アンナを尋ねに来たのよね?アンナは今ちょうどはずしていて、もうしばらくすれば戻ると思うんだけど、どうする?ここで待ってる?」

 どうして医療従事者は皆、アンナのように心を安心させる声色を持っているのだろうか、と、ソフィアは思った。そう思わせるほどの優しい声だった。しかし、すぐにアルバートの顔が頭に浮かび、その考えを否定した。

 そばかす顔に優しさを湛えているドリスの言葉に、一瞬甘えさせてもらおうかとも思ったが、せっかくここまで来たんだからもうちょっと中をゆっくり見て回りたい、という気持ちのほうが勝った。

 ソフィアは、首を横に振った。

「いえ、ちょっと久しぶりなので、この辺りを見て回りたいと思います」

 それを聞いたドリスは、ちょっと考え込むように首を傾げると、少し顔をしかめながら言った。

「それは、構わないけど……。でも、今この詰め所は通常の態勢に戻っているから、以前ほど、自由に歩き回ることはできないわよ?ところどころに衛兵もいるし……」

「あ……、そうなんですか……」

 ソフィアのうきうきしていた気持ちが、プシューという音をたてて萎んでいく。

 肩を落としたソフィアを少し気の毒に感じたのか、ドリスは少しかがむと、ソフィアの顔を覗き込むようにしてにっこり笑いかけた。

「すべてを見て回るのは難しいと思うけど、一部は見て回れるんじゃないかしら。それに、あなたが知ってる衛兵もまだいるだろうから、そういう人に当たれば、きっと通してくれるわよ」

 笑顔で言うドリスに気を持ち直したソフィアは、大きく頷いた。

 ソフィアのほっとした顔を見て安心した表情を浮かべたドリスは、立ち上がりながら、

「確か、今日は、大広間は使われていなかったと思うわよ。入口には衛兵がいたはずだけど、もしあなたが見知っている人だったら、通してくれると思うわ。

 ……よければ、私も一緒に行きましょうか?」

 と言ってくれた。

 ドリスが一緒についてきてくれれば中に通してもらえることはわかっていたが、勤務中にそれをお願いするのはあまりに自分勝手だと思い、ソフィアは丁重に断った。

 アンナが戻ってきたらソフィアが来ていることを伝えてくれる、というドリスにお礼を言い、ソフィアは医務室を後にした。


 廊下に出ると、ちょうど兵士が三人、談笑しながらソフィアの前を通り過ぎていった。ソフィアが行く方向とは反対方向に向かっていく彼らの寛いだ様子が、国が平穏を取り戻しつつある現在の状況を物語っているようで、ソフィアはほっと安堵すると、彼らに背を向け、廊下突き当りにある扉へと歩いて行った。

 扉の前まで来ると、ソフィアは扉を引いて、その先にある、何度となく通った玄関ホールへと足を進めた。

 目の前に太くて大きな柱とその横の大きならせん階段があるのはもちろん以前のままだったが、行き交う人が全くおらずしんと静まり返っているのが妙によそよそしく感じられる。少しの音を立てるのにもためらわれるほどの静寂がこの空間を包んでいたが、おそるおそる足を踏み出したソフィアは、そのまま、左手にある大広間へと通じる扉へ、足音をたてないよう気を付けながら向かった。

 大広間の入口の脇には、衛兵が二人立っていた。

 二人とも、ソフィアが玄関ホールに入ってきたことに気づいており、訝しげな眼差しでソフィアのことを窺っている。

 その顔に見覚えのなかったソフィアは、心臓がドキンとして、その場に立ち止まってしまった。

 その様子に、すかさず衛兵の一人が問いただすような声を上げた。

「だれだ、お前は。何の用で入ってきた」

 玄関ホールに響き渡るような鋭い声に、ソフィアの体はびくんと硬直する。

 冷や汗がドバっと吹き出し、胸がバクバクしてくるのを感じたソフィアは、喉が妙に乾いていくのを何とかつばを飲み込んでごまかし、喉の奥から絞り出すような、かぼそい声で答えた。

「あ、あの……、以前、ここで、看護のお手伝いをしていて……。あ、あと、アンナと約束しているんです……。ア、アンナというのは、看護師で……」

 真っ赤な顔でしどろもどろに話すソフィアを二人の衛兵が胡散臭そうに睨んでいたその時、螺旋階段を軽快に下りてくる足音が聞こえた。

 反射的にそちらに目をやったソフィアは、眼鏡をかけ、亜麻色の髪を揺らしながら降りてくる一人の兵士の姿を認めた。衛生兵のリチャードだ。

(助かった!)

 と思ったソフィアは、リチャードに向かって大きく手を振ると、その動きに負けないくらい大きな声で叫んだ。

「リチャード!」

 驚いた顔で辺りをきょろきょろと見回すリチャードは、大広間へと続く扉の前で自分を見上げているソフィアの姿に気がついた。

「ソフィア!」

 そう言ってぱっと笑顔をはじけさせたリチャードは、階段を数段飛ばしで駆け下りて、ソフィアの元へ走り寄った。

「久しぶりじゃないか!元気にしてた?……あ、そうか!今日が、アンナと会う約束の日だったんだね。アンナから聞いたよ!」

 眼鏡の奥に光る、以前と変わらない優しそうな瞳を前に、ソフィアは思わず涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。ほっとしたのと同時に、懐かしいリチャードを前になぜか気持ちが緩み、涙が溢れ出てきたのだ。

 その様子に気づいていないリチャードは、何かを探すように辺りを見回すと、ソフィアに向き直った。

「あれ、アンナは?一緒じゃないの?」

 ソフィアは、アンナとはまだ会えておらず、それまでの間、この詰め所内を見学できればと考えている、ということを話した。

「なるほど、そういうことか。どこを見学したいの?」

 その言葉に、ソフィアの視線がちらっと大広間に向けられたのに気が付いたリチャードは、ははーんといった顔で頷くと、衛兵に向き直って口ぎきしてくれた。

「この子はソフィアといって、半年前に起こったミァン炭鉱の騒乱の際に、看護の手伝いをしてくれた子なんだ。今日は看護師のアンナに会いに来る約束でここに来たんだけど、少しの間、この大広間を見せてやってもらえないだろうか。あの大変な時に、僕たち医療従事者とともに負傷兵の看護にあたってくれた子なんだ。頼むよ」

 リチャードが話し終えて、おそるおそる顔を上げたソフィアは、先程衛生兵たちが見せた刺すような目つきが、仲間に向けるまなざしのように優しいものに変わっているのに気が付いた

「そうか、そうだったんだね。さっきは済まなかったね、ソフィア。ゆっくり見て回るといいよ」

 優しく話しかけてくれた衛兵たちは、扉に手をかけると、ソフィアのために大きく開け放ってくれた。

「じゃあ、僕はアンナを探しに行くよ。大広間で待っててね!」

 リチャードはそう言うと、慌てて声をかけようとするソフィアには目もくれずに、医務室の方へと走り去ってしまった。

 リチャードの方へ伸ばしかけた手を引っ込めると、ソフィアは扉を開いてくれている衛兵に向き直り、ぺこりとお辞儀をした。

「ありがとうございます」

 そして、まだ紅潮した面持ちのまま、大広間へと足を踏み入れていった。


 そこには、以前と変わらないとても広い空間が広がっていた。

 だが、人がいないからだろう。左右にある大きな窓からは、この曇り空の中日差しが射しこまず、高い天井から垂れ下がるシャンデリアには灯りが灯されていなかったので、大広間の中は薄暗く、どことなく沈み込んだような空気が漂っていた。

 ソフィアは、この大広間に自分が必死になって看護の手伝いをしていた時の面影が残っていないかを探そうと、ゆっくりと歩を進めていった。

 広い大広間の中に、コツンコツンと、ソフィアの靴音が反響する。

 暖房はついているが、中心に近づくにつれ寒さが増し、ソフィアは思わずぶるっと身震いをして、両腕を抱きかかえた。

 気がつくと、当時の面影を見いだすことができないまま、がらんとした大広間の中央まで来ていた。

 ふと正面の壁を見上げると、そこに絵画が掛けられているのが目に留まる。

 大広間の中が薄暗かったので、そこになにが描かれているかまではわからなかったが、以前と同じようにそこにある絵画を目にした途端、ここでの壮絶な光景がパッと頭の中に甦った。

 消毒液のつんとした匂いやむっとした血生臭い空気。それらが立ち込める中、詰め込まれたベッドの上で、うめき声をあげたり激痛に耐えかねて叫ぶ負傷兵の姿が、そこにはあった。

 あちこちで悲痛な声や怒声が交差する中、軍服を大量の血で染め上げて意識もなく倒れている者や、腕や足、またはその両方がすでに失われている者など、まさにイーディスが言っていた地獄絵図とはこのことか、と思わせる悲惨極まりない光景が、ここでは繰り広げられていたのだ。

 しかし、その光景に恐怖を感じていたソフィアの姿は、もうここにはなかった。

 以前であれば、その光景に体が震え、顔を背けたい一心だったソフィアも、今、その時を思い出し、心に浮かべることは、他にあった。

 それは、床に広がる血だまりに足を滑らせながらも、重症の患者の間を駆けずり回り、医療の限りを尽くす、医師や看護師、衛生兵たちの奮闘する姿だった。

 それこそ、ソフィアの心を捉えて離さないものだったのだ。

 彼らはその厳しい状況の中、目の前の患者を助けるために、一人ひとりが最善を尽くそうとしていた。たとえ、その人を救えなかったとしても、彼らはそこで立ち止まることなく、前を向き続けてきたのだ。


 ふっと冷たい風が、ソフィアのふくらはぎを撫でていった。後ろを振り向くと、リチャードに連れられたアンナがこの大広間に入ってくるところだった。

「ソフィア!」

 アンナはソフィアの姿を目にとめると、今まで何度もソフィアを励ましてくれた、あの懐かしい優しい笑みを顔いっぱいに広げて、ソフィアの元へ走り寄ってきた。

 ソフィアもぱっと顔を紅潮させると、アンナのところへ走り寄り、胸に飛び込んだ。

「アンナ!お久しぶりです!ずっと会いたかったの!」

 抱きついてきたソフィアを、アンナは愛おしそうにぎゅっと力を入れて抱きしめた。

「私もよ、ソフィア。元気にしてた?」

 腕を離した二人は、これまでの半年間のことを早速話し始めた。

 その様子を穏やかな顔で見守っていたリチャードは、彼女らに背を向けると、音をたてないよう扉の方へ歩き出した。

 その様子をアンナの肩越しに気づいたソフィアは、慌ててリチャードの下に走り寄って腕をつかんだ。

「ちょっと待って、リチャード!どこに行くの?あなたとも、話したいことがいっぱいあるのに!」

 振り返ったリチャードの顔には驚きの表情が浮かんでいたが、すぐに顔をクシャッとさせると、うれしそうな笑顔がはじけた。

「そうか、ソフィア、ありがとう!……でも、アンナに会いに来たんだろ?積もる話もあるだろうから、まずは二人っきりでゆっくりと話しなよ。アンナもソフィアに会えるのを、何日も前から楽しみにしていたんだよ」

 リチャードが言った、その時だった。

 ぱぁっと、大広間の中が明るい光に満ち溢れた。

 驚いたソフィアがあたりを見回すと、左右にある窓から、明るい陽の光が降り注いでいるのに気が付いた。雲に隠れていた太陽が顔を出し、目もくらむようなまばゆい光を大広間に投げ込んでいるのだ。

 その光はこの空間を覆っていた陰気な空気を一掃し、なにか希望に満ちた明るさのようなものをもたらしたかのようだった。

 ソフィアは、ふと顔を上げ、正面の壁に飾られている絵画に目をやった。

 そこには、差し込む光に照らされて、ほっそりとした女の子の立ち姿が描かれていた。

 毛皮のついた深紅のマントを後ろに垂らしながら、細かなレースが施されている光沢のある美しく白いドレスを身にまとい、ひときわ大きなダイヤや、その他の宝石が散りばめられているどっしりとした王冠を頭に乗せた姿は、逆にその華奢な体形を際立たせているようにソフィアには感じられた。

 ソフィアより年下の、その金髪の女の子の青白い顔の上に輝く透き通るような青い瞳は、その威風堂々たる衣装とは対照的に、どこか寂しそうだった。

 その肖像画をじっと見つめていたソフィアの横には、いつの間にかアンナやリチャードが寄り添い、その肖像画を一緒に見上げていた。

「……つい、最近架け替えられたんだよ、サファイア女王の肖像画に」

 肖像画を見上げたままぼそっと呟くリチャードの声は、とても小さかった。

「サファイア女王……」

 半年前、イギ国がこのソラス王国に攻めこんできたとき、突如、ソラス王国全土が目映い光に包まれたことがあった。それは、イギ国の軍と衝突している戦場でも、例外ではなかったという。

 その後、あまりの眩しさに何も見えなくなったソラス王国の兵士たちが再び目を開いたときには、ほんの少し前まで死闘を繰り広げていたイギ国の兵士たちが、目の前から跡形もなく消え失せていたという。

 いったい何が起きたのか、どうしてそうなったのか、だれにも分からなかった。ただ、イギ国の脅威は、今やこの国から完全になくなったということだけは、確かだった。

 その一報は、すぐさまソラス王国全土にもたらされた。

 そして、時を同じくして、ガーネット女王が崩御されたという話も伝えられたのだ。

 王室は、ガーネット女王について、お休みになられている際、そのまま眠るように息を引き取られたという発表を行った。国民の中には、女王が亡くなられたのは戦の心労が溜まったからだ、という人もいれば、いや、この国を救ったあの光は、ガーネット女王が命を賭して生み出したものだ、という人もいて、様々な憶測が人々の口に上った。

 しかし、結局、真相については、今も誰にもわからない。

 その後葬儀が執り行われ、ガーネット女王の息子であるジェイド皇太子がその後を継ぐはずだったのだが、そのジェイド皇太子も国内視察のため地方を訪れた際に落馬され、その傷がもとで亡くなられたのだ。

 一時期、一部の人の間では、ガーネット女王もジェイド皇太子も、その顔に輝くエメラルドのような緑色の瞳が亡くなった時には消え失せていた、という噂でもちきりになったことがあったが、それも、いつの間にか人々の口に上らなくなっていた。

 そして、ちょうど一週間ほど前、そのジェイド皇太子の第一子である、深く透き通るような美しい青い瞳を持つサファイア王女の女王就任の戴冠式が、執り行われたのだ。

「そういえば、ソフィア。お兄さんやご家族の方たちは、お元気なの?」

 三人の間に漂っていたしめやかな空気を払いのけるかのように、アンナが明るい声でソフィアに尋ねた。

 長兄フランシスを始め、両親や妹弟たちは皆、元気に過ごしていた。

 兄グスタフは今では軍を除隊し、フランシスとともに牧畜業に励んでいる。きっと、グスタフはグスタフで軍隊に入り多くのことを知り、また、傷つき倒れる兵士や泣き崩れる遺族を目の当たりにして、思うところがあったんじゃないかとソフィアは思っている。

 いずれにせよ、母は、そのグスタフの決心を心から喜んでいる、とフランシスの手紙には書かれていた。

 炭鉱夫として働いていたセルマンはというと、奴隷と等しい環境下で働かされてきた炭鉱夫の地位向上のために、炭鉱夫代表の一人として国との交渉の場に臨んでいる、という手紙が本人から届いた。

 ミァン炭鉱での反乱から、最後は国の存亡を揺るがすほどの大きな事態へと発展したのは、彼らの中に、ソラス王国に対する大きな不満や怒り、恨みといったものがあったからだという意見が国の上層部の中で持ち上がり(今更、何を言っているんだとソフィアは思ったのだが)、二度とこんなことが起きないように、炭鉱夫の地位向上について話し合いの場が持たれることになった、とつたない字で書かれていた。

 セルマンには、その話し合いの場に一緒に出てもらいたい人がいたらしい。

 プラトという、彼にとっては父親のような存在だとのことなのだが、その人を探そうと一度ミァン炭鉱に戻った時には、すでにその人はどこにもなく、周りに聞いても誰もその消息を知らなかったんだそうだ。

「彼がいてくれれば、本当に心強いのに……」

 と書かれていた手紙を読んで、ソフィアは思わず微笑んだが、それと同時に、彼のそばに父親代わりと呼べる人がいてくれたことに、なんだかほっと安心したような切ないような、そんな気持ちになったのを、ソフィアは今でも覚えている。

 さらに、その手紙には、子供の時は貧しくて学校に通うことができず、ここに連れてこられてからはそんなことができるはずもなくここまで年を積み重ねてきてしまったが、学校に行かなくても学ぼうとする姿勢や意欲さえあればどこでも学べるということが分かった、というようなことが書かれていた。

 その一文を目にしたソフィアは、なんだかとても恥ずかしい気持ちになった。

 今まで当り前のように学校に通い、しかも勉強もろくにせずぶーぶーと文句ばかり垂れていた自分が、実はとても恵まれた環境にいたということに気づかされたからだった。自分にとっては当たり前でも、そうではない人たちがいるということに、初めて気が付いたのだ。

 それに気づいた時には、恥ずかしさの後に泣きたくなるような情けなさがこみあげてきて、気力を失い、布団を頭からかぶってうずくまりたい気持ちに駆られた。  

 しかし、ソフィアはすぐに思い直した。

 半年前、ひっきりなしに運び込まれる重症の兵士たちを、最後まであきらめることなく治療に取り掛かっていた医療従事者の姿が頭に浮かんだのだ。

 彼らが常に前を向いていたことを、思い出したのだ。

 ソフィアは、自分も前を向こう、そして今、生かされていることに喜びを見出し、一瞬一瞬を大事に生きよう。そう決心した。

 そう思ったソフィアは、すぐに自分がとても幸運だということにも気が付いた。まだ、学びの最中に、そのことをきちんと自覚できたことに気が付いたからだ。

 今からでも遅くない。きちんと勉強をして知識を吸収し、様々な物の見方に触れて経験を積み、学んでいこう、と心に誓ったのだ。

 そしてさらに幸運なことに、ソフィアには、進みたい道がもう見えていた。今日、ここに来たのは、そのことをアンナに伝えるためでもあったのだ。

 ソフィアは晴れ晴れとした表情を浮かべると、アンナの目をまっすぐ見つめた。

「うん、みんな元気だよ!

 ……アンナ、あのね。私、話したいことがたくさんあるの」

 そのとび色の瞳は、肖像画に描かれている青い瞳に負けないくらい澄んでいた。

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