第2話 大地


 いつからか天界の下、魔物の棲む荒廃した地上を覆うように新たに大地が広がりだした。天界は事態を把握すると、すぐさまにその大地へ御使いで構成された監視団を送り出した。

 のちにグリゴリと呼ばれることになるシェムハザと他二十の御使いを長とする監視団は大地の隅々までに目を光らせて、ついには広がり続ける大地の中心を見つけ出す。中心には大きな、それこそ天まで届きそうなほどの大きな樹が生えていた。大樹の根元には身の丈よりも長い緑の黒髪に一糸も纏わぬ生まれたままの“人”が監視団を出迎えた。


「はじめまして。天の人々。私は大樹。私は大地。私のことはどうぞ、アダム・カドモンと」


 淡い若葉の木漏れ日の下。その見慣れぬ“人”は御使いたちに穏やかに挨拶をした。御使いとも魔物とも異なる身体的特徴を有した、その“人”をグリゴリたちは何としたものかと悩んだ末に決定を天の議会にまで持ち帰った。

 御使いと魔物の相違はいくつも存在している。天の主に力を与えられて生まれついたのが御使い。荒廃した地上に、今では地の底に産まれ落ちるのが魔物である。天に住まい背に翼を持つのが御使いで、地を這い、翼を持たないのが魔物で……。しかしアダム・カドモンの立ったそこは、ちょうど天と地の中間で、さらにはアダム・カドモンが歩くたびに緑の生い茂る大地が広がっていくのだった。

 ある者が言った、それではまるで大地の創造ではないか。

 それまで創造の権能はそれまで天の主だけが使える奇跡であった。天の主はまず初めに己の座すための天界を創造し、天を生きる者として御使いを創造された。

 では、それでは、アダム・カドモンは大地の創造主であると?議会は混迷し、結局御使いたちにアダム・カドモンについての決定を下すことは出来なかった。アダムについての議題は丸々、記録係のラグエルに託されてラグエルから天の主へと伺いを立てることに決まった。


『   、            』

「ラグエルよ。主はなんと?」

「…………」


 音のない声が空気を震わせる。御使いの長であるルシフェルは目を伏せたままのラグエルを促す。天界は広く、御使いは数多くいたが、天の主の言葉を真に解するのは翼を持たないラグエルだけである。それでも何かを伝えようとしていることだけは御使いたちにも察することが出来た。ラグエルは口を閉ざして何かを迷うように眉を寄せている。


『   、    。          』

「あれは、……主の現身で、あるそうで新たな大地を生きる人類の雛型なのだそうだ」


 絞り出されたラグエルの言葉に御使いたちにどよめきが広がる。どよめきとともに御使いたちには新たな人への好奇心や祝福などを口にしており、どこにも悪感情は見当たらなかった。ただルシフェルとラグエルの二翼だけを除いて。


 アダム・カドモンに多くの御使いたちは新たな人の誕生の祝いと、天の主の現身への祝福を与えた。天の主の顔を合わすことは御使いのなかでもとくに選ばれてものしか許されなかったが、アダム・カドモンには誰もが顔を合わせられた。拒絶することのないアダム・カドモンに御使いの多くは我らの創造主もこのようであるのだろうかと想像を巡らせた。

 アダム・カドモンの人格は木々のように穏やかで鷹揚としていたし、その立つ場所には常に花々や木々の緑が鮮やかに広がる。傍らにあるだけの心の和むことから御使いたちの間で次第にそのさまをアダム・カドモンの楽園と呼ばれるようになった。

 御使いの誰もがアダム・カドモンを受け入れ、愛し始めていた。そんな中で最も足しげくアダム・カドモンの元へ通う者があった。


「ああ、また来たのだね」


 天から降って来た羽音に木漏れ日の差し込む大樹の木陰に腰かけていたアダム・カドモンは目をゆるく開いた。姿を認めて柔く口角を持ち上げる。


「サマエル。君の話を聞かせてくれるかい」

「お前が望むのならばいくらでも」


 三対の赤い翼を羽ばたかせて、サマエルがアダム・カドモンのすぐ隣に降り立つ。寄り添うように同じようにアダム・カドモンの傍らに座ると真似事のように緩く口角を持ち上げた。

 天界には赤い翼を持つ御使いも暮らしていた。多くの白い翼を持つ御使いと異なり、赤い翼を持つ者たちの本質は魔物に近いとされて、ことのほか白い翼の御使いたちに恐れられていた。それもそのはずで御使いは天の創造主が混沌を光と闇に分けられたときに零れるように生まれた。白い翼を持つ者は光から、赤い翼を持つ者は闇から零れ落ちたのだと語られている。そんな中でサマエルは最も強い光を放つ天使であるルシフェルと対を為すように生まれたとされる天使だった。

 御使いのなかで赤い翼を持つ天使たちは死や戦いの関わる、他の御使いが忌避する職務を担っていることが多い。もちろん、そのような俗にいう汚れ仕事も天界のために必要であると御使いの間でも広く理解されている。しかしそれでも。


「ふふ、君の話はいつもおかしいの」


 同胞であるはずの御使いに恐れられるのをサマエルはどう感じていたのか。生まれたばかりで無垢。天のことも、何も知らないからこそ他と変わらず接するアダム・カドモンはサマエルの目にどのように映っていたのだろう。その答えはサマエルの中にだけある。


「あぁ……、もう行かねば」

「また来てね。サマエル」

「……ああもちろんだ。また会いに来る」


 職務に関する呼び出しをされて、サマエルは名残惜しそうに立ちあがる。六枚の翼を広げるサマエルを見上げながら、またゆるりとアダム・カドモンは頬を緩める。そんな柔らかな頬へと思わず手を伸ばしかけて、結局触れずに再会の約束をするとサマエルは空に飛び立った。

 サマエルの職務は地上に降り立ち、死を迎えた生物の魂の回収することだ。生物の内には植物も、今では地の底に閉じ込められた魔物たちのものも含まれている。まだ生態系が確立されていない時代であってもサマエルの担う職務は膨大であった。命の終わらない天界と異なり、命の循環する大地の上では死者は常にあり続ける。植物は枯れ、動物は潰える。

 そんな多忙さのなかでも時間を作り、アダム・カドモンの元へ通っていた。アダム・カドモンの元に通う理由をサマエルは誰に問われても答えることはなく、もしかするなら他ならないアダム・カドモンに問われていれば正直に答えていたのかもしれない。

 ただ一つだけサマエルはアダム・カドモンと過ごす時間がもっと欲しかった。もっと長く永遠のようにアダム・カドモンとの時間が続けばいいと願った。だからこそ職務の合間、アダム・カドモンの元に通う合間に自らの職務を手伝う御使いを探しだしだ。そうして見つけた同胞に、いくつかの訓練をしながら引継ぎを行っていた。

 しかしそんなささやかな願いも意味を失くしてしまう。


 その日サマエルが見つけたのは焦げ付く大地に伏した血濡れのアダム・カドモンの姿だった。


 息の絶えたアダム・カドモンの亡骸の元に御使い……大天使たちは集まっていた。亡骸を見たのはサマエルと同じく赤い翼を持ち、最初にアダム・カドモンを見つけ出したグリゴリの頭目の一翼、シェムハザだった。


「どうだい」


 他の大天使の問いかけにシェムハザは静かに首を横に振る。肉体の核である心臓を抉り穿たれ、そうなれば生物の大抵は死に至る。まごうことのない致命傷であった。それはどれほどの奇跡を持っても、たとえ天の主であっても不可能な徹底された破壊を意味しており、そんなことが出来るのは天の神秘に触れる知識を持つ者だけだ。


「……犯人は、我らの中に?」

「そう考えるのが自然だろうね。この殺し方は魔物によるものではないよ。飢えた獣はもっと食い散らかすだろうから」

「……しかし、そうすると一体誰が何のために、アダム・カドモンを……?」


 新たな地上人類の祖。それを天の主が許したのだから祝福こそすれアダム・カドモンを殺す理由など、どの御使いにも持ちえない。アダム・カドモンは皆に愛されていたはずだった。誰もが殺すだけの動機も持たず、ならばどうして命を奪われて……?重苦しい沈黙。答えのない時間ばかりが御使いたちの間を過ぎて行った。


「こうしていても仕方がない……おのおの気が付くことはないのか、考えておいてください。今日はこれで解散しましょう。皆も他に為すべきことがあるでしょう」


 ミカエルの号令によって集まっていた大天使たちはそれぞれが亡骸を痛ましそうに見つめ飛び立っていく。シェムハザも飛び立とうとしたとき、その背に長く沈黙をしていたサマルが声をかけた。


「アダム・カドモンの名は記されているのか」


 唐突な問いかけにシェムハザは眉をひそめる。しかしその意味するところにはシェムハザの職務が大いに関係していた。シェムハザの職務は死者の管理。常に手にする書物にはその日に死ぬ生物の名が記されており、それをもとにサマエルが魂の回収を行うのだ。すなわちすべての死者はまずシェムハザの書物に名を記されて、その通りに死に至る。


「アダム・カドモンの名が記されていないのなら、アダム・カドモンは少なくとも今日、死ぬべきではない命ではないのでないのか」

「それは、そうかもしれないけど……でももうアダム・カドモンの死はこうして事実として存在して……」


 サマエルは言いよどむシェムハザの肩を掴んだ。至近距離でサマエルの目を見つめてしまう。サマエルの目から悲哀がシェムハザに直に伝わっていく。天使の持つ基本技能の一つだった。情報の伝達に距離も時間も必要としない。しかしそれは日々、増える御使いに口頭伝達が採用されて少しずつ廃れた機能でもあった。すでに使えるのは四翼以上の古参の天使だけだ。


「俺たちが行うのは死者の魂の管理だろう? 予定のない命を失ったままにして、どうして俺たちが死の天使だなんて名乗れるんだ。お前だって新たな人の誕生を祝福したんだろ? 祖であるアダムの死はこれから続くはずだった次代の数え切れない多くの命の死そのものじゃないのか!」

「でも、もう魂は体のどこにも……」


 必死のサマエルの懇願に、目を泳がせながらシェムハザは視線を亡骸へ移す。そこには魂の一欠片も残っていない。回収を待たずにアダム・カドモンの魂はどこかへ去って行ってしまったようであった。さしものシェムハザであっても魂を創り出すことは出来ない。それこそ天の主や、亡きアダム・カドモンにしか出来ないことであったろう。


「見つける。俺が必ずアダムの魂を見つけてみせる。だから頼む。シェムハザ、約束してくれ。アダムの魂が見つかったら、そのときには必ずアダムを」

「……っ、わ。わかった。約束する……」


 勢いに負けて、ついにシェムハザはサマエルとそんな約束を結んだ。事実として、一度刻まれた死は決して覆らない。仮に魂は同じく蘇ったとしても、それは死の前と同じ存在ではないと、サマエルも痛いほど知っていたのに。それでももう一度を望まずにはいられなかった。

 それはひどく愚かなことだった。

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