Angels
百目鬼笑太
第1話 反逆
天の主たる創造主の造られた御使いの住まう天上において、ただ一翼だけラグエルはその背に翼を持たない。ラグエルの職務は天の、ひいては世界の神秘を常に手にする書物へと記録することにある。
故に彼が天界を離れる必要はなく、むしろ神秘に深く触れる彼であるからこそ翼は不要とされたのだろうと他の御使いはまことしやかにささやき合った。そんなことは気にも留めずにラグエルは天の座主の傍らに控え、いついかなる時にも神秘の記録を続ける。それこそがラグエルに与えられた職務であったからだ。
「君は翼がなく辛くはないのか」
かつてラグエルへ、ただ一度だけ問いかけた天使がいた。その天使の背には、ラグエルと異なり、あるいは同じように他とは違う黒翼が煌々と燃えている。その問いは他と異なるという一点を共有する者への情であったのかもしれない。
「何故? 俺は望まれてこの姿で生まれついた」
もちろん不便はある。いくつもの層からなる天界を移動をするのに翼を持たないラグエルは誰かの翼を借りなければできなかった。けれどそんな不便があっても、他と異なることがラグエルの個性でもあった。
もしもこの背に翼があればと考えたこともある。だが翼のある己を想像することは翼を持たない自分を、ありのままの自分自身を否定することでもあった。だからこそラグエルは翼のない背を伸ばして胸を張る。
「翼はなくていい」
問うた天使は、そんなラグエルに何かを言おうとか口を開きかけ、しかし何も言わないまま口を閉じた。それから一言二言、関係のない言葉をラグエルが伝えると天使は翼を広げて飛び立っていった。そんな天使を見送り、再び書物に意識を戻すとラグエルは職務を再開するのだった。
すでに遠く過ぎ去った過去には、そんなこともあったのだ。
天界で大きな戦争が起きていた。天の敵は、それまで地上に空いた穴から這い出て、地上を侵攻する魔物たちであった。魔物たちは害獣の如く湧くたびに戦うことを職務とする御使いに駆除をされるばかりであったのだが、今回は様子が違った。魔物たちは徒党を組み、群れとして天界を襲って来た。
その先頭で魔物を指揮するのは、本来ならばこんな有事の際に天界の軍を指揮するはずの長、光り輝く者たるルシフェルそのひとだった。相対した御使いたちは、動揺しながらも天の座主を守ろうとルシフェルへ武器を構える。だが生まれついた性能の違いが容易く生死を分かつばかりで誰もルシフェルの進軍を止めることはできなかった。
生き残った者たちが語るにはルシフェルの黒髪の隙間から覗く赤い瞳が煌々と輝いて、まるで向き合うだけでも身を燃やされるような気分であったと。悪いことに、この有事の際にルシフェルにも並ぶだろうかと目されていた他の大天使は残らず遠い果ての地に降りていて、ルシフェルだけが天界の守護として残っていたのだ。
そうして誰にも止められないままルシフェルは御簾の前に降り立った。どこもかしこも血に濡れて、その赤い瞳もただただ燃えるばかり。何も語らず、ルシフェルは主の座している御簾へと手をかけた。
「止まれ」
「……」
「君がその先に進むことは許されていない」
ルシフェルの背に声をかけたのはラグエルであった。手には武器でなく、普段と変わらない分厚い書があるだけだ。御使いの力の大きさの象徴である翼を一対も持たないラグエルが向き合うのは、その時ばかりはルシフェルも形のいい眉を片方だけ上げた。
「……俺へ許可などと。俺の行動を決定するのは俺のみだ。……記録係よ、去るがいい。俺に君を傷つけるつもりはない。今ならば、その過ぎた口出しも俺は許そう」
「光り輝く御使いの長が、どうしてそのような蛮行に及ぶ? その先にあるのは天の創造主たる何よりも貴いお方だ。自分が何をしようとしているのか、本当に理解できているのか」
「蛮行だと? 笑わせる」
さもおかしなことをとばかりにルシフェルの口の端が持ち上がる。しかし眉はギュッと眉間に寄っていて、そこでようやくラグエルはルシフェルの瞳を燃やす炎の正体に気が付いた。
「蛮行を働くのは一体どちらか! これまでに害であると殺されてきた魔物たちの、彼らの正体を君は知っているのか!」
それは憤りだった。悲哀と苦悩に満ちた血を吐くような叫びは、天界中に、天にいる全ての御使いの脳を揺らした。
「天に住まう我らと、地の底に住まう彼らの一体なにが違う! どちらも変わらぬ命だろう! それを何故、どうして彼らばかりが害されねばならない! 地の底の様子を知っているか! 誰か一人でも知ろうとしたのか! 彼らはただ、生きるために天を目指していただけだ! 生きることに懸命な者たちをただただ殺し続ける蛮行を働いたのは一体どちらだ! 生きようともがく命に貴賤などあるものか!」
その叫びに、天界の各所で戦闘を続けていた御使いたちの一部に変化が訪れる。ある者は、相対する魔物へと改めて目を向けて、そこに負傷者を庇おうとする魔物の一団を見た。ある者は致命傷を負いながら、それでも向かってくる魔物の目に誰かへの情を見つけて、またある者は――。驚くことにこの時に、多くの御使いたちが目の前の己と戦う者たちが生きていることを初めて認めたのだ。
それまで地上を跋扈する害獣として駆除してきた者たちは、それぞれが懸命に生きていた。そもそも思い返してみれば何かを彼らが地上を実際に害したこともなかった。はて、では、どうして私たちは、天の御使いは彼らを言葉も通じぬ害獣であるなどと思っていたのか。
「愚かなことを……貴賤ならばあるとも。ならば君は知っているのか。君が味方し、自らと同じだと尊ぶあれらが、どれだけ罪深く恥を知らない生き物であることか」
「なっ……」
「大人しく、地の底で終焉を待っていればいいものを……どこまで恥を知らないのだ。なんとも生き汚く、おぞましい……」
ラグエルの吐き捨てた言葉にルシフェルはただ言葉を失くす。その目はまっすぐにルシフェルへと注がれ、その言葉がラグエルの偽りのない本心であることを何よりも伝えてくる。
だからこそ、ルシフェルの動揺も大きかった。御使いは多くを共有する。だからこそラグエルの言葉自体も、それまでに御使いたちの共通認識としてそれだけ浸透していたものなのだろうと、ルシフェルは理解していて、それでも。
「君が…、それを、言うのか。他でもない君が」
「俺がなんだという、誰が口にしても真実に変わりはない。……あんな醜い生き物は跡形もなく消え去るべきだ」
どうにか絞り出した言葉だったが、それもラグエルには届かずルシフェルは震えだしていた唇をようやく閉ざした。きつく閉じられ、もうラグエルに対して語りかけられることはないだろう。血濡れのルシフェルの武器がラグエルへ武器を向けられた。
再三になるが天使の翼の数とは、そのまま天使の持つ力の強さに比例する。つまり、天界で最も多い六枚の翼を持つルシフェルに無翼のラグエルが敵う道理はどこにもない。ルシフェルがその気になれば、ラグエルなどは虫を踏み潰すように容易く殺せてしまう。ルシフェルの刃がラグエルの首を捉えて空を切る。しかし首に届く、その前に刃は止められた。
「……急ぎの連絡に戻ってみれば。これは一体どういうことです。ルシフェル」
光を纏い現れたのは天使長の一翼であるミカエルだった。淡い空の色を映し込んだ瞳は、今では苛烈な色を浮かべて同胞を今にも殺そうとしていた兄分へと向けられる。問いかけながら瞬時にミカエルは炎の剣を構えて戦闘へと備える。またそれまでの動揺を消し去ったルシフェルも刃を改めて構え直した。地の果てにいた大天使たちが天界へと戻って来たことで、戦況は一転したのだった。
大天使たちは崩れかけていた前線の戦況を圧倒的な力を持って立て直す。その間、ルシフェルに影響された御使いたちも再び武器を構え直す者と、それ以外にと二つに分かれた。戦うことを止めた者の中には同胞へと武器を向ける者さえいた。ルシフェルの始めた反乱は、ついには天界を二分した。
始まったミカエルとルシフェルの戦いは、ついぞ決着がつくことはなかった。二人の力は多くの理由から拮抗し、同様にルシフェルに感化された離反者たちが増えたことで天界での戦況も膠着しだす。
『 、 』
「……かしこまりました。我が主」
ふと音のない何かの声にラグエルが返事をした。すぐそこで行われた死闘にも揺らぎすらしなかった御簾の方へラグエルが深く礼をして、そうして気が付けばルシフェルは地の底へと真っ逆さまに堕ちていた。
直前まで刃を交わしていたミカエルも、二人の戦いを眺めていたはずのラグエルの姿も立ち消えて、頭から地の底へと堕天していく。もう一度、と翼を羽ばたかせようとしたところで、気が付く。ルシフェルの目に、同じように天から堕ちていく同胞と魔物たちの姿が映った。
そもそも翼を持たない魔物たちに、何故だか翼を失くした同胞たち。翼がなければ空を飛べるはずもない。落下していく彼らへと、ルシフェルはその手を伸ばさずにはいられない。だからこそ彼はルシフェルだった。
戦争の中でルシフェルの叫びに心を動かされて堕天した御使いらは、魔物たちと共に過ごすことを選び、そうして世に堕天使が生まれた。堕天使たちはやがて魔物とともに悪魔と呼ばれるようになり、今でも地の底で天の失墜を目論み、また地上での暮らしを思い描き続ける。
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