後編

「ただいま、だね。遥」

暗い部屋に遥の笑い声が響く。電気を点け、靴を脱がせる。いつもの日常。

早く、と言いたげに、遥が小ぶりな荷物を指差す。

日常への、侵入者。

バックを開けると、円らな瞳と目が合った。しかし、そこに感情は無い。抱き上げると冷たい感触が伝わる。銀色に光るボディ。スイッチを入れると、電子音が響いた。

〈こんにちは、のぞみです〉

歓声を上げる遥。

「さぁ、ご飯にしよう」

努めてそちらの方は見ず、台所に向かう。

何故、受け入れてしまったのか。

今更のように、苦い気持ちがこみ上げてきた。


「AIをご自宅に置いてみませんか」

岩木さんの提案は、唐突だった。

「AI?」

「ロボットです、子育て応援ロボット。まだ試作段階ですがね。試しに3ヶ月間、こいつと暮らしてみませんか」

「何をするロボットなんですか」

「特別、何も。喋りはしますよ。今はエアコンだって喋るでしょ、そんなもんです」

不可解な話に思えた。

子育て応援ロボット。つまり、虐待防止ロボット、といったところか。監視カメラでもついているのだろうか。

「無理にとは言いません。提案ですから」

岩木さんはそう言って、私を見つめた。


遥が帰ってくる。

安堵した。

けれど同時に、怖くなった。

しばらくは、私も必死で抑えるだろう。

けれど、また、同じことが起きるのではないか。

その時、私はさらに、抑制が効かなくなっているのではないか。

今回のことが、何かの布石に思えた。

私は今、分岐点に立っているのではないか。


「…分かりました。お願いします」

魔が差したのかもしれない。

けれど、私の中の何かが、声を上げたのだ。

このままではいけない、と。


遥は児童相談所でロボットを見た時から、夢中になった。ロボットの身長は、遥の胸くらい。丸いヘッド、ぎこちなく動く手足。大きな瞳の、アニメのキャラクターみたいなロボットだった。

「希っていうんだ。仲良くしてね」

岩木さんの言葉に、遥はこくんと頷いた。


人間にはすがれなくて、ロボットにすがるなんて、皮肉な話だ。


「ご飯だよ」

朝のうちに作っていた夕飯を温め直し、テーブルに並べる。リビングで遊ぶ遥を呼ぶと、いつものように「や!」と返事があった。食卓につかせるまで、一苦労だ。

〈今日のご飯、何かな?〉

ロボットの声が響く。すると遥がダイニングに現れた。ロボットに向かって、食卓を指差す。

「…ハンバーグだよ。遥、好きでしょう?」

遥は嬉々として、椅子に座った。

〈美味しそうだね〉

私は無言で席につく。

どうせ、物珍しいのも最初だけだろう。


1ヶ月ほど経ったある日。岩木さんから電話があった。

「どうです、希は?」

「…何なんですか、あのロボット」

「何か問題が?」

沈黙した私に、岩木さんは笑う。

「希は簡単な会話はします。でも、基本的には居るだけです。邪魔にはならないでしょう?」

確かにそうだ。居るだけ。何も問題は無い。

「試しに、あと2ヶ月一緒に暮らしてみて下さい。何かあれば、いつでも返却して頂いて構いませんから」

電話を切る。

この1ヶ月を思い出していた。


希は、いつも遥と一緒だった。遥がまだ言葉にならない言葉で話しかければ、会話するように頷く。遥が踊れば、希も真似するように手足を動かす。

遥は寝る時、お気入りのぬいぐるみを布団に持ち込むが、そこに希も加わった。

二人分の布団を敷いても、遥は私の布団で寝たがる。自然、ぬいぐるみ達と同衾することになる。

夜中に寝返りを打つと、希のゴツゴツとした感触がある。

遥の体温が移るのか、冷たいはずのボディに、温もりを感じた。


ある朝。ぐずっていた遥が、靴下を履く・履かないのやりとりの末、癇癪を起こした。玄関に立ち尽くし、泣き喚く。既に出発時刻は過ぎている。

「いいから、早くしなさい!」

怒鳴っても逆効果だと分かっているのに、声を荒げてしまう。泣き声が大きくなる。

〈遥ちゃんは、タオルが畳みたかったんだよね〉

私たちを見つめていた希が呟いた。

タオル?

何のことか分からず、希を見つめる。

〈自分で畳んだタオルを、園に持っていきたかったんだよね〉


週末の出来事が思い浮かんだ。

洗濯物を畳む私に、遥が近寄ってきた。

「お手伝い、してくれる?」

タオルの端を遥に持たせ、一緒に畳んでみると喜び、何度も繰り返した。

今朝、畳む暇が無くて放置していた洗濯物の山から、遥はそういえば、タオルをもてあそんでいた。

「早く、ご飯食べるよ!」

声をかけながら慌ただしく登園準備をし、登園バックに遥のタオルを入れた。

思えば、その頃から遥は機嫌が悪かった。タオルを持ってきたので「こっちがいいの?」とバックに入れてみせたが、泣き出した。


登園バックから、タオルを取り出す。

「お手伝い、してくれる?」

遥はしゃくりあげながらも頷く。一緒にタオルを畳んでリュックに入れる。

「さぁ、行こう」

遥はなんとか気持ちを立て直したようだ。玄関のドアを開ける。


振り返ると、希が私たちを見ていた。

「のン!」

遥が希に呼び掛ける。

〈いってらっしゃい〉

無機質なはずの希の顔が、微笑んでいるような気がした。


今日は、朝から気分が悪かった。夕方には悪寒がし始めた。遥が風邪を引いていたので、感染ったのかもしれない。休むことも想定して仕事を捌いていく。ギリギリで退社し、保育園のお迎えに向かう。

なんとか遥に夕飯を食べさせた後、熱を測る。38度。

インフルエンザだったらどうしよう。

恐怖に近い感情に襲われる。助けてくれる人は、いないのに。

遥だけシャワーで入浴を済ませる。次は洗濯だ。まだ夕飯後の皿も洗えていない。倒れこみたい自分を、奮い立たせる。

ふと気付くと、希が私を見上げていた。

「皿洗い、手伝ってもらえたらいいのに」

思わず呟く。

〈お母さん、具合が悪そうです。休んで下さい〉

休めない、と言うより早く、希が言った。


〈皿は、洗わなくても死にません〉


「はっ…あはははは」

思わず、私は笑った。ロボットに、そんなことを言われるなんて。

久々に、心の底から笑った気がした。ゆるりとほどけてゆく。

「洗わなくてもいいかな」

こくり、と希は頷く。

もう限界だった。

皿も、洗濯物もそのままで。

私は遥と一緒に布団に入った。

傍らで、希の温もりを感じながら。


翌朝、熱は37度台に下がったが、会社に連絡して休みをとった。

迷ったが、遥を登園させた。

「遥ちゃん、今日は遅かったですね。何かありました?」

笑顔の担任に、打ち明ける。

「私の体調が悪くて…。休みをとったんですが、受診する間だけ、午前中だけでも、遥を預かってもらえませんか?」

担任は驚いたように言った。

「大丈夫ですよ。夕方まで預かりますから、ゆっくり休んでくださいね」

「…ありがとうございます」

言葉が、胸に沁みた。


病院を受診する。幸いインフルエンザではなかった。今日は休むとして、明日は出勤しなければ。洗濯機を回し、休み休み皿を洗う。

食洗機を買おう、とふと思った。

自分が楽になる方法を、考えよう。

今まで、「どうすればやり遂げられるか」を考えてきた。無理を重ねるのが当たり前だった。

でも、やり方を変えてもいいのかもしれない。洗濯物だって、全てを畳まなくてもいい。干したハンガーごとクローゼットに掛けてしまえば楽だ。下着類は、どうせなら脱衣場に収納しよう。別室の箪笥に出し入れする手間が省ける。

無理しなくてもいいんだ。初めて、そう思えた。


病院の薬を飲むと、眠くなった。

いつもは遥について回る希だが、今日は私だけだからか、私の後を追ってくる。

寝室に行き、布団に入った。

希も、私の枕元にちょこんと座る。

看病しているつもりなのだろうか。

「ありがとう」

希に見守られて、眠りにつく。

いつもは遥が夜泣きしたり、蹴られて起こされたりで熟睡できない。一人で悠々と寝たからかもしれないけれど。

久しぶりに、安心で穏やかな眠りだった。


希と過ごした日々。

暗い部屋に帰宅しても、〈おかえり〉と迎えてくれる。遥と膠着状態に陥っても、傍らに希がいる。

泣き、怒り、笑い。

私たちの日常をあたたかく見守ってくれた。いつも一緒に。


「久しぶりだね、遥ちゃん」

岩木さんに声をかけられ、遥は私の後ろに隠れる。面接室に通され、アンケートに記入した。

「ありがとうございました」

希が入ったバックを、篠山さんに渡す。大事そうに両手で抱えたのを見て、胸が痛んだ。

希の居場所は、ここだ。私たちの繋がりは、仮初めに過ぎなかったのか。

遥が抵抗するように泣き出す。

「3ヶ月経つとね、皆さん同じことを仰るんです」

黙ったままの私に、岩木さんが呟いた。

「希は、試作品です。私たちのロボットとして、いろんな設定をしている。…実は、一般に発売されている同じタイプのロボットもあるんです。人間の声かけに反応し、会話が蓄積されて、成長していく。どんなロボットになるかは、あなた方次第」

値段はかなりしますけどね、と付け加える。

示されたホームページのURLをメモした。

最後に、と岩木さんは言った。

「希の代わりには、なれませんが。私でよければ、お話お聞きします。何かあれば、お電話下さい」


「ずいぶんあの親子に入れ込んでましたね」

デスクに戻ると、篠山から言われた。

「最初は、泣き声通告で訪問したら痣があったって聞いて、驚きましたけど。調査しても、養育状況は問題なかったし、こどもも特に。母親も反省してましたし。わざわざ希を出すようなケースでしたかね?」

「離婚ってのは人生の一大事だろ。大きな変化があって、近くに頼れる人もいなくて、こどもはイヤイヤ期真っ盛り。あの母親が苦労してたのは事実だよ。希は試作品だし、いろんなデータがある方がいいだろ」


岩木は初めて会った時の、母親の憔悴した表情を思い出す。頑なな瞳。

支援しようとしても拒まれる。皆、何も出来ずにいる中で、傷付いていく親子を幾組も見てきた。


児童相談所と言われて世間がまず思い浮かべるのは、児童虐待の対応機関ということだろう。

子育て全般の相談窓口で、ずっと親子を見守り続けてきた児童相談所の在り方は、ずいぶん変化してきた。

膨大なケース、待ったなしの状況。限られた人員で、精一杯尽力しているけれど。

支援とは何か。

手痛い経験の度、岩木は考えた。

たまたま行った学会で、AIに関する発表を聞いた。教育現場や介護現場で活躍するロボット。児童虐待防止にも役立つのではないかという演者の言葉に、閃くものがあった。

発表していた研究者に連絡をとると、興味を持ってもらえた。所内で家族支援の勉強会をしていたメンバーに声をかけ、素案を作った。上に掛け合い、いろんなことを乗り越えて、希は誕生した。


家族それぞれが抱える背景がある。その中で起こる出来事がある。

それがこどもを危険に晒す時、自分たちは介入を躊躇わない。

しかし。同時に岩木は思う。

突然の介入。それは家族にとって、この世界からの分断になりはしないか。

突然現れた「支援者」に、胸の内を明かせるか。「支援」を、受け入れられるか。

どの親も、一生懸命なのだ。介入に至る前に、縺れた糸をときほぐせないか。

本当に必要とされる支援とは、何か。


「ほら」

篠山に向かって、母親のアンケートを見せる。自由記述欄に、短い書き込みがあった。

『いつも私たちを見守ってくれた希。子育てには、そういう存在が必要なのだと思います』


***


岩木さんには、あれから何度か電話をした。

話したって、何かが変わるわけじゃない。

それでも、自分の思いを知っている人がいると思うと、少し、軽くなる。

それを教えてくれたのは、希だった。


「お母さん、無理しないでね」

園長先生は今も、時折私に声をかけてくる。

「はい。ありがとうございます」

私も、笑って答える。

ここにも、私たちを見守る人がいたのだと。


今日は、遥の二歳の誕生日。

「おめでとう」

プレゼントを差し出す。

「のン!」

遥の瞳が、期待に輝く。


貯金だけでは足りず、悩んだ末、彬に真相を話した。

彬は養育費を払い、遥と面会交流を続けていたが、私とは最低限の会話しか無かった。彼が分かってくれるかどうかは、賭けだった。

彬は、最後まで話を聞いてくれた。

「俺だって、遥のためにできることはしたい。…今まで、ありがとう。何かあれば、言えよ」

彬は、私を責めなかった。足りない分の費用を、出してくれた。


スイッチを入れる。

懐かしい声がした。

〈こんにちは、希です〉


これからの希を作っていくのは、私たちだ。

これからも、ずっと。

いつも一緒に。











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