いつも一緒に
プラナリア
前編
そのチャイムは、突然響いた。
泣き喚いていた遥が泣き止む。時計は20時近い。インターホンの画面に、名札を下げた年配の女性が二人映っている。通話ボタンを押すと、子育て見守り相談員と名乗った。児童相談所の委託を受けて訪問している、と。
ひやりとした。
「訪問させてもらえませんか」
拒否権は無い。私は解錠ボタンを押した。
不安気に遥が私の手を握った。あたたかい、湿った小さな手。娘のぐしゃぐしゃになった顔を、せめて拭う。
玄関のチャイムが鳴る。
「夜分に申し訳ありません。実はこの付近で、お子さんの泣き声と、大人の大きな声がすると連絡を頂きまして」
女性はあくまで穏やかに、心当たりはないか尋ねる。
「一歳半の娘がいるので、よく泣くし、怒ることもあります。今も…」
「大変な時期ですよね。子育てで、お困りのことはございませんか?」
「…ありません」
私は苛立ちを抑え、答える。子育てで困らない親なんていない。けれど困ると答えれば、何かのレッテルを貼られるだけではないか。
何かありましたら、と渡された市の子育て相談窓口のカードを、大人しく受け取る。
「すみません。確認のために、お子様に会わせて頂けますか」
来たか、と思う。玄関の様子を窺っている遥を呼ぶ。人見知りな娘は私の後ろに隠れ、おずおずと顔を出す。
まぁ可愛い、と声をあげた女性の表情が固まる。
泣きはらした瞳。
遥の顎には、できたばかりの痣があった。
「お母さん、この怪我は…?」
女性の声に困惑が混じる。
「保育園で転んだだけです。もういいですか?これから、お風呂なんです」
物言いたげな女性達を強引に押し出す。
鍵をかけ、溜息を吐いた。深く、深く。
保育園からの帰り道。途中、公園の前で遥は動かなくなった。声をかけ、手を引こうとしても体全体で拒否する。公園で遊びたいのだ。最近、いつもここで一悶着。
しばらく付き合えば納得するのだが、今日の私にその余裕は無い。気の張る案件が続き、ひどく疲れていた。
喚く遥を、制御できない自分のように錯覚する。距離がとれない。
「行くよ!」
背中を強く叩いた途端、ぐらりと遥の上体が傾いだ。アスファルトの地面に倒れこむ。傘を握りしめていた遥は地面に手をつけず、思い切り顔をぶつけていた。
大声で泣き出した遥を抱え、帰路を急ぐ。帰宅後しばらく冷やしたが、顎には赤黒い痕が残った。
私は、虐待などしていない。
食事は欠かさないし、清潔な衣服を身につけさせている。怒鳴ることはあるが、幼い娘を罵ったりはしない。
自分に言い聞かせながら、しかし、一つの疑念が湧く。
娘の背中を叩いたあの瞬間。
私は娘に、憎しみを抱かなかったか。
彼女に向ける謂れはない自分の感情の、はけ口を求めはしなかったか。
最近、娘に手をあげることが増えていた。
軽く、お尻や背中を叩く程度で、傷痣にはならない。
けれど、少しずつ回数が増え、強さが増していくのを自覚していた。
「いい加減にしなさい!」
ヒステリックに叫ぶ自分に、違和感を覚える。なぜ、幼い娘にこれほどまでの怒りを向けているのか。
それなのに、自分を止められずにいた。
翌朝も、いつも通りの忙しなさで過ぎていった。何とか娘を園の教室に押し込む。顎の痣に気づいたのだろう、担任が何か言いかけたが、身を翻した。出社時刻が迫っている。
異動で着任した上司は、もうこどもを育て上げた女性だった。こどもが小学校に入るまで、夫は単身赴任だったのだという。それでもキャリアを積み、実績を上げてきた。
「子育て中は大変よね、分かるわ。皆、お互い様よ」
その頃、私は仕事が立て込んでいた。残業できないことを見込んで業務が割り振られていたが、職場は人手不足で、次々仕事は増えた。定時に出なければ、保育園のお迎えに間に合わない。休日出勤で挽回しようとすれば、週末娘が発熱する。思い悩んで相談したが、上司の答はシンプルだった。
「これ以上、あなたにだけ配慮はできない。時間が限られているんだから、自分の仕事をどう回すかは工夫しないと。それでも無理なら、延長保育は考えないの?休日出勤じゃ、結局休まらないでしょ」
私は延長保育を利用するようになった。お迎えが遅くなる分、寝かせるまでのスケジュールはタイトになる。
「お母さん、大丈夫ですか。…遥ちゃん、園で最近不安定なんです。お母さんが忙しくて、抱っこしてても心ここにあらずなんじゃないですか」
去年の担任に言われた言葉が、胸に刺さった。
それでも、働くしかない。現状を打開する策は浮かばなかった。
保育園にお迎えに行くと、園長先生から声を掛けられた。
「お迎えは、大丈夫ですから。こちらへ」
心臓が、どくん、と波打つ。個室のソファーに腰かけた私に、園長は「電話が入っていませんでしたか」と尋ねた。
仕事中、携帯を見る余裕は無い。着信歴を確認すると、見知らぬ番号が並んでいる。留守電を再生すると、淡々とした女性の声がした。
「××児童相談所の篠山です。お子様は、一時保護致しました。お話を伺いたいので、ご連絡下さい」
自分の顔から、血の気が引いていくのが分かった。世界が、見知らぬものに変質していく。
「どうして…」
園長は私を見つめ、「どうか、児童相談所に連絡されてください」とだけ言った。
私は立ち上がる。地面が揺れるようだ。逃げるように、園を去った。
園長先生からは、度々声を掛けられていた。
「お母さん、無理しないでね」
そんなことも言われたが、白々しくて曖昧な返事を返した。
無理って何だろう。
自分のことは二の次、三の次の日常。
無理をせざるを得ない。せめて無茶はしない。倒れたって、休めるわけではないのだから。
そんな日々だった。
自宅の鍵を開ける。
空洞のような家。
糸が切れた操り人形のように、ダイニングチェアに座り込む。
これで本当に、一人だ。
離婚届を出したのは、1ヶ月前のこと。
「別れよう」
二人の暮らしは、遥の誕生で一転した。慣れない育児、細切れの睡眠時間、溜まる家事。それでも、彬の帰宅時間は変わらず、午前様になることもあった。遥の夜泣きに耐え兼ねて電話しても、「ごめん」を繰り返すばかりだった。
実家は遠方なのに加え、同居の弟夫婦にも赤ちゃんが産まれていた。母は帰ってくるよう言ってくれたが、手一杯なのは明らかで、里帰りは諦めた。彬に、育児休業をとれないか職場に相談してもらった。けれど、多忙で代替職員がつく訳でもない中で、周囲を困惑させただけだった。
産後しばらくは、ヘルパーを手配した。彬も休日、手伝おうとはしてくれた。けれど、不馴れな彼、結局は私任せな彼に苛立ち、次第に頼まなくなった。0歳児で入園させなければ保育園は確保できず、5ヶ月の遥を抱えて職場復帰した。最初は病気ばかりでまともに出社できず、同僚に頭を下げ続けた。仕事を休むのはいつも、私だった。
次第に苛立ちの矛先は彬に向かった。お互いに、欠乏していて与える術を持たなかった。休日、彬が理由をつけて不在にした方がホッとした。彬がいない方が、一人の方が、諦めがついた。
彬から切り出したのでなければ、双方の親に離婚を納得させることはできなかっただろう。今思えば、それは彬の最後の優しさだったのかもしれない。
テーブルの上に置かれた、携帯を見つめる。
仕事で疲れ果てて帰宅すれば、眠るまでぐずり続ける遥が待っている。神経が休まる暇は無く、心は悲鳴をあげていた。
一人になりたい、と願ったこともある。
それでも。
私は携帯を手にとる。着信履歴を出し、通話ボタンに指を伸ばす。
泣く。金切声で叫ぶ。地団駄を踏み、力一杯私を叩く。
けれど、最後は私にぴったりくっついて眠る。湯たんぽみたいな、遥の体温。
「こどもの寝顔に『怒ってごめん』と謝る」という話があるけれど、嘘だと思う。
なんとか寝かせた時には、そんな気力も無い。
それでも。
保育園のお迎えに行くと、私を見つけた遥は精一杯のよちよち歩きで、腕の中に飛び込む。
赤ちゃんの頃から変わらない、遥の笑顔。私を見上げ、心の底から笑う。
気付けば、私も笑っている。
涙が、頬を伝った。
遥の存在は、私に刻まれている。離れることはできない。もう、一人には戻れなかった。
祈るような気持ちで、コール音を聞いた。
児童相談所の面接室で、私は二人の男女と対峙していた。担当は篠山という若い女性で、上司とおぼしき男性が同席している。男性は、岩木と名乗った。
私はあの日の出来事を機械的に説明した。食事中、遥が野菜を食べないと癇癪を起こし、叱っていたこと。怪我は、咄嗟に園だと説明したけれど、本当は私が背中を叩いた拍子に、転んでしまったこと。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げながらも、違和感を拭えない。
何の縁も無いこの人達に、何故こんな話をしているのか。何を、謝罪しているのか。
昨夜はほとんど寝ていない。朦朧とした頭に、女性の声が響く。
「どなたか、子育てについて相談できる方はいますか?」
相談。…何を?
「子育て中の友人もいますし、実家の母にも」
友人も同じように仕事と育児に追われる身だ、ゆっくり話すことは無い。離婚に反対していた母には、弱音を吐けない。
そもそも、何を話すというのだ。遥の癇癪を?仕事の愚痴を?代わりも無い、休みも無い日々を?そんなもの、話したって何も変わらないではないか。
私の胸中を知らない女性は頷き、「お母さん一人で、抱え込まないでくださいね」と微笑んだ。私の答に満足したのだろう。
このまま遥を返してもらえるだろうかと思った時、男性の野太い声がした。
「お母さん、遥ちゃんとここに通所されませんか。お話を聞きながら一緒に子育てについて考えることができますよ」
「…平日にってことですよね。会社の休みがとれないので、無理だと思います」
平板な声になる。今日、突然休みをとるのも苦労した。
「では、提案があります」
男性は私の答を予測していたようにすぐさま返事を返し、私をじっと見詰めた。
さぁ、お前はどうするのだ、と。
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